Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王―   作:シュエル

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第2話 血の領域へ

 

 森の入口には、風がなかった。

 枝葉は揺れず、空気は濃く、踏み出した兵の足音だけが現実だった。

 十名の王国偵察隊は列を組み、赤く沈む西空を背に、静かな樹海へと進入していった。

 

「前方、異常は――」

 報告の声が途切れた。

 声を放った若者が、何かを見て言葉を失ったからだ。

 彼の視線の先――地面には血のような水たまりがあった。

 しかし、血ではない。透明なのに、赤い。

 光がその中で反射せず、吸い込まれている。

 

「……気を抜くな」

 隊長ドレンが低く命じた。

「目を逸らすな。見ない方が危険だ。」

 

 兵たちは槍を構え、視線を前方に集中させた。

 森は音を失い、影がゆっくりと形を変えていく。

 それは枝でも獣でもなく、“気配の形”。

 人の想像が生む姿を、そのまま現実にしたものだった。

 

「……誰か、いるのか」

 ドレンが声を張る。

 返事はない。風もない。

 ただ、空気の奥から――笑い声がした。

 

「ひ、ひと、ですか……?」

 後列の兵が震える。

 笑いは、否定でも肯定でもなく、まるで歓迎のようだった。

 

 霧が、立った。

 白ではない。血を薄めたような紅。

 それが森の奥から押し寄せ、兵の周囲を囲う。

 

「後退! 隊形を――」

 

 号令より早く、一人の兵が悲鳴を上げた。

 その声はすぐ途切れ、

 代わりに聞こえたのは――肉の裂ける音。

 

「くそっ……! 何が起きてる!?」

 ドレンが剣を抜く。

 霧の中で、何かが蠢いた。

 人影のようで、人ではない。

 影に“牙”があった。

 それが兵の喉を裂き、音もなく血を吸い上げている。

 

 生温かい血が土に落ち、森がそれを吸い込む。

 赤い地面が脈動した。

 地が、生きていた。

 

「こ、これが“血の王”か……?」

 誰かが呟いた。

 その瞬間、霧が開いた。

 まるで、その言葉が合図であるかのように。

 

 紅の霧の奥に、ひとりの男が立っていた。

 長いコート。深い帽子。

 笑う口元。燃えるような紅の瞳。

 

「……ようこそ、我が領域へ。」

 

 その声は、風よりも柔らかく、刃よりも冷たかった。

 

「お、お前が――“血の王”か!」

 ドレンが叫ぶ。

「我々は王国の命により、この地の調査を――」

 

「命?」

 男はゆっくりと首を傾ける。

 その動作ひとつで、空気が震えた。

「誰の命だ? 生者の? それとも恐怖の?」

 

「……何を言って――」

 

「お前たちは、“命令”に従って来たのだろう。

 だが、命令に従うとは、恐怖に従うことだ。」

 アーカードは歩み寄る。

 足音が、まるで心臓の鼓動のように響く。

「ならば、お前たちは既に私の信徒だ。」

 

「ふざけるなッ!」

 ドレンが剣を構え、仲間たちが叫びと共に突進した。

 だが――彼らの剣は空を切る。

 アーカードは、そこにいなかった。

 影が裂け、彼の姿が霧の中から現れる。

 彼の笑みは、血を映す鏡のように冷たい。

 

「剣は“形”だ。恐怖は“形を持たぬ”」

 男の声が、兵の耳に直接響いた。

「形を持たぬものに、剣は届かぬ。」

 

 瞬間、影が兵士たちの足元から伸びた。

 無数の手。人の、いや、かつて人だったものの手。

 それが脚を掴み、肉を引き裂く。

 悲鳴は続かない。喉が震えるより早く、血が奪われた。

 

「やめろっ……!」

 ドレンが叫ぶ。

 だが、その声すら霧に飲まれ、吸い込まれる。

 

「やめろ、だと?」

 アーカードは立ち止まり、ゆっくりと振り向く。

 紅の瞳が、ドレンただ一人に向けられた。

「人は、死を“やめる”ことができると思うのか?」

 

 その言葉に、兵士の残骸が一斉に沈黙した。

 霧が収まり、空が開く。

 だが、そこに太陽はない。

 代わりに――紅い月が、森を照らしていた。

 

 ドレンの手から剣が滑り落ちる。

 冷たい地面が脈動し、血が彼の足を包む。

 視界が赤く染まり、意識が遠のく。

 

「な、ぜ……こんなことを……」

 ドレンの声が震える。

 アーカードは答えず、少しだけ考えたように顎に手を当てる。

 そして微笑んだ。

 

「なぜ? ――“恐怖”を忘れたからだ。」

 

 その言葉と共に、森が悲鳴を上げた。

 木々がざわめき、影が広がる。

 ドレンの目に映ったのは、

 自らの影が自分の形を食らう光景だった。

 

 影が喰らい尽くすと同時に、アーカードは指を鳴らした。

 空気が弾け、森全体に血の霧が広がる。

 それは音でも風でもなく――祈りのようだった。

 

「恐怖こそ、生の証明だ。

 お前たちの死は、世界を目覚めさせる。」

 

 ドレンの瞳が閉じる。

 森の地面が静かに波打ち、霧が形を変える。

 その霧は、まるで“翼”のように広がり、空へと昇っていった。

 

          ◇

 

 その夜、王都の塔の上で、

 魔導通信士が異常を検知した。

 魔力の揺らぎ。血のように赤い魔素の奔流。

 それは北方の空全体を覆うほどに強く、

 世界の“気配”そのものを変えつつあった。

 

「……これは、何だ?」

 通信士の声が震える。

「誰かが……“恐怖”を、魔法に変えている……?」

 

 その報告は、ナザリックへと届く。

 

          ◇

 

 玉座の間。

 報告を聞いたアインズは、沈黙のまま立ち上がる。

 その眼窩の奥の光が、僅かに強くなる。

 

「……動いたか、アーカード。」

 

 その声は怒りではなく、

 まるで長い計算式の途中で、答えが見えたときのような、静かな確信だった。

 

「恐怖が、世界を満たし始めた。

 ならば、我は――秩序を示す番だ。」

 

 杖を掲げ、アインズは低く呟いた。

 

「“静寂は死なり。死は秩序なり。”

 ――さて、夜がどこまで生を侵すか、見せてもらおう。」

 

 闇が一層深まる。

 血の夜は、まだ始まったばかりだった。

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