Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
ナザリック地下大墳墓、第九層。
玉座の間には、永遠に揺らめく闇の炎が灯り、王の影を壁に映していた。
アインズ・ウール・ゴウンは、虚空に立ち尽くしている。
玉座には座っていない。
まるで世界の呼吸を聴くように、無音の空気の中に身を置いていた。
その静寂を破ったのは、アルベドの慎重な足音だった。
「アインズ様。デミウルゴスより報告がございます。王国北部において“血の領域”がさらに拡大中。
詳細な調査の結果、原因は単一存在――アーカード様と確認されました。」
「……やはり、そうか。」
アインズの声は低く、しかし怒りではなかった。
むしろ、どこか愉悦に似た響きを含んでいる。
「民の恐怖が、体系化され始めている。」
デミウルゴスが現れ、書簡を広げた。
「報告によれば、“血の王”を祀る密教的儀式が生まれつつあります。
恐怖の対象が“祈り”へ転化しているのです。」
「……祈り、か。」
アインズは骨の指を組む。
光のない瞳窩がわずかに輝く。
「恐怖が信仰に変わる――理屈ではあり得ない。だが、秩序の外側では自然な現象なのかもしれないな。」
「現象というより、意思でしょう。」
デミウルゴスは冷ややかに言葉を重ねる。
「アーカード殿は、人の恐怖を吸い上げ、形にして返す。
それが“観察”であると同時に、“創造”でもある。」
アルベドがわずかに顔をしかめる。
「恐怖が拡散すれば、ナザリックの名も同時に広がるでしょう。
しかし……秩序の名を冠するアインズ様と、混沌の象徴たるアーカード様が並び立つのは――」
「矛盾しているようで、完璧だ。」
アインズがゆっくりと玉座へ歩み寄る。
その姿は夜そのもののように静かだった。
「支配とは、秩序を保つことだ。
だが――恐怖がなければ、秩序は惰性に堕ちる。
恐怖は、世界を動かす“影の力”だ。私はそれを否定しない。」
デミウルゴスが深く頷く。
「そのお言葉、至極の理。
支配における“正義”がアインズ様なら、
その“裏付け”がアーカード殿。
表裏一体の王、まさに神々の均衡です。」
「均衡――」
アインズは小さく呟き、遠くを見るように視線を上げた。
空気が震え、ナザリックの魔力が微かに脈動する。
まるで、世界そのものが彼の思考に呼応するかのように。
「……アルベド。アーカードの所在は?」
「第六層の外部、旧戦場遺跡に展開中です。
近隣の野生生物が異常な行動を取り、霧と血雨が絶えません。
……まるで、夜そのものが呼吸しているようです。」
アインズは頷いた。
思考の奥で、なにかが微かに燻っている。
不安ではない。むしろ、懐かしさに近い。
あの男――アーカードが現れる前、モモンガとして過ごした夜。
ユグドラシルの最終ログアウト直前。
“彼”の笑い声が背後で響いていたことを、今も覚えている。
「モモンガ、君は“死の王”でありながら、“退屈”を恐れているな。」
「……何を言っている、アーカード。」
「退屈こそ死だよ。だから、夜を連れて行こう。」
――あの言葉が、いま再び胸に蘇る。
「デミウルゴス。」
「はっ。」
「“恐怖”という現象を観測対象として記録せよ。
アーカードの行動を止めるな。
だが、境界だけは越えさせるな。」
「境界、とは……?」
「ナザリックの内部。
“恐怖”が内に流れ込めば、秩序は崩壊する。
私は王として、夜を外で遊ばせる。」
アルベドが深く頭を下げる。
「御意。外界における“夜の信仰”を監視下に置きます。
内部への影響は、私が責任をもって遮断いたします。」
アインズは頷き、玉座に腰を下ろした。
闇が広がる。
その静寂の中、誰も気づかぬうちに――蝙蝠の影がひとつ、天井から滑り落ちた。
◇
第六層、旧戦場遺跡。
月のない夜。血の霧が漂う中、アーカードはゆっくりと立ち上がっていた。
その背後では、無数の蝙蝠が円を描き、空を覆っている。
「……世界が、私を思い出し始めた。」
唇がゆるむ。
その笑みには、憐憫と快楽が混ざっている。
足元には、血に染まった地面。
その上に立つのは、人間ではない――“恐怖の信徒”。
かつては人であった者たちが、血を媒介に新たな存在へと変わりつつある。
目は虚ろで、口は微笑み、ただ「主の名」を呟く。
「血の王に栄光を……
夜に安らぎを……
恐怖に救済を……」
アーカードはそれを見下ろし、愉快そうに肩を震わせた。
「救済、か。恐怖を信仰に変えたか……人間とは、なんと面白い生き物だ。」
その声に応えるように、霧が濃くなり、遠くの空が赤く染まる。
まるで“血の夜明け”のようだった。
「さて――王よ。」
アーカードは夜空に向かって呟く。
「お前は秩序を保つ。私はそれを壊さぬよう、ただ揺らす。
だが、秩序が動かねば、夜も意味を失う。
……互いに退屈を殺すために存在しているのだ。」
その笑いは、どこまでも静かだった。
血の霧が彼の外套をなぞり、空が彼の形を呑み込む。
やがて、声だけが風に溶けた。
「――夜は、まだ胎動の途中だ。」
◇
その同じ頃、ナザリック第十層。
最古図書館の一冊の書が、音もなく開いた。
“Arucard”と記された頁。
墨が滲み、新たな一文が浮かび上がる。
「恐怖は、秩序を腐らせる毒ではない。
それを呼吸させる心臓だ。」
誰も書いていない。
だが確かに、文字はそこにあった。
そして、微かな笑い声が、紙の隙間から漏れた。
◇
アインズは玉座の上で、ふと天を仰ぐ。
何かを感じ取ったのか、骨の指先がわずかに震える。
そして、独り言のように呟いた。
「……退屈を、王国に入れるな。
その言葉の意味を、私も――ようやく理解し始めたかもしれんな。」
外界では、赤い月が昇る。
夜は満ち、光の国でも血が祈りとなる。
世界は静かに、だが確実に、恐怖に呼吸を与え始めていた。