Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
ナザリック地下大墳墓・第九層、玉座の間。
灯は落ち、只の装飾に過ぎない燭台が暗闇の輪郭だけを縁取っていた。
時刻は二十三時五十八分。サービス終了まで、あと二分。
玉座の階段に、骸骨の王が座している。
名は――モモンガ。
無表情の頭蓋が、天井を仰いだ。その姿は、孤独という概念を具現したようでもあった。
重厚な扉が、音を立てずに開いた。
赤い帽子と黒のコート。長い影。
アーカードが歩み入る。歩幅は一定、靴音はやけに生々しく、空虚な広間にだけ現実感を刻む。
「最後の夜にしては、随分と静かだな。」
彼は微笑んだ。
「いや、静かでなければ“終わり”の価値がない、か。」
「来たか。」
モモンガは骨の指で肘掛を軽く叩く。
「他のみんなは――もういない。」
「知っている。」
アーカードは玉座の階段に横合いから腰を下ろす。斜めに、王と肩を並べるように。
「終わりを見届ける者はいつだって少数だ。祝宴に集まる千人より、見取りに立つ二人の方が、物語としては正しい。」
「詩人め。」
「吸血鬼は得てして詩人だ。血は比喩に満ちている。」
沈黙。
NPCたちは整然と佇み、命令のない“待機”という姿勢のまま。
それでもモモンガには分かる――今の彼らの眼差しは、データの空洞以上の“何か”を孕んでいる、と。
錯覚だとしても、慰めにはなる。
「お前はログアウトしないのか。」
モモンガが問う。
「最後の秒まで残る。」
アーカードは帽子のつばを人差し指で押さえた。
「終わる瞬間に立ち会うのが礼儀だ。世界に対する礼儀であり、ここに埋めた我々の時間に対する礼儀でもある。」
「……礼儀、か。お前の口から聞くと意外だが、妙に似合うな。」
「夜にも礼節はある。闇が無作法なら、それはただの停電だ。」
モモンガの頭蓋の奥で、乾いた笑いがわずかに生まれて消えた。
気づけば、胸に沈む鉛が少しだけ軽い。
この男は、いつだって冗談めかして、核心だけを掬い上げて見せる。
「――なぁ、アーカード。」
モモンガは視線を正面に向けたまま言う。
「この場所は、良い墓だったな。」
「墓は、残すための器だ。お前がよく磨いた。」
アーカードは目を細める。
「だが、墓が美しすぎると、住む者が出たがらなくなる。お前はそれでも扉を開け続けた。王の仕事だ。」
「王、ね。」
モモンガは玉座の背に掌を置いた。
「私は、最後の見張り番でいたかっただけだ。皆の残したものを、片付けずに、元のまま置いておきたかった。」
「ならば、看取りの王だ。」
アーカードは葡萄酒のように濃い声で続ける。
「終わりを清潔に整え、次に来るもののために場所を空ける。墓守の王。悪くない称号だ。」
時計表示が視界の端で瞬く。
23:59:00。
あと六十秒。
「終わったら、お前はどうする。」
モモンガの声は平板だが、その内側に波が立っている。
「電源が切れたその先で、我々は――ただ消えるのか?」
「観察者の仮説を聞きたいか?」
アーカードは口角を上げる。
「世界の物語は、終わり方を選べない。だが、観客は選べる。幕が下りた後も席に残る者がいる。私は残る側だ。」
「つまり、消えないと?」
「消えるさ。」
アーカードは肩を竦める。
「だが“残り方”は選べる。祈りのように、呪いのように、あるいは――影のように。」
モモンガは横目で彼を見た。
その紅の瞳は、冗談半分に見えて、冗談ではなかった。
「お前は王にならないのか。」
「向いていない。」
即答だった。
「王は光だ。前を照らし、道を示す。私は夜だ。光を際立たせ、輪郭を与える。並び立つなら、私は影でいたい。」
「影は、いつでも踏まれるぞ。」
「踏まれてなお形を保つのが影だ。」
アーカードは立ち上がり、階段を二段降りて振り返る。
「いいか、モモンガ。もし――もしだ。もしこの世界が続くのなら、お前が王を名乗れ。」
「……私が。」
「そうだ。ギルドの名を冠して、灯火にしろ。
今さら“モモンガ”では、仲間たちの帰る場所が見えにくい。名は標識だ。迷子には看板がいる。」
骨の王は黙した。
その沈黙の形は、同意に近い。
確かに――あの名は、皆の記憶を呼び戻すだろう。自分に残っている“人間”という曖昧な輪郭より、はるかに強く、広く。
「そして。」
アーカードは指を立てる。
「私が、お前の影になろう。秩序の外で、自由に息をし、必要なときにだけ牙を剥く。
王が静寂を保つなら、私は混沌に呼吸を与える。墓に花を、夜に星を。そういう役回りだ。」
「危険な影だな。」
「安全な影は、存在の無駄遣いだ。」
23:59:30。
残り三十秒。
玉座の間の空気が、どこか澄んでいく。音が磨かれる。世界が自分の骨格を意識し始める瞬間。
「名を決めたか。」
アーカードが問う。
モモンガはゆっくりと立ち、玉座の前で振り返る。
視界のすべてを正面から受け止め、はっきりと告げた。
「――《アインズ・ウール・ゴウン》。
私は、その名を名乗る。」
アーカードの口元が綺麗に弧を描く。
「良い。墓標にして、旗印だ。」
「お前は。」
「私は、変わらない。」
紅の瞳が細くなる。
「“アーカード”。夜の名は、夜のままでいい。」
23:59:50。
十秒前。
広間に停止した空気が、さらにもう一段止まる。
蝋燭の炎が最後に揺れて、ぴたりと絵画のように固まった。
「――モモンガ。」
アーカードが、珍しく本名を呼んだ。
その調子は、冗談よりも少しだけ低い。
「お前が“王”をやるなら、ひとつだけ約束してくれ。」
「なんだ。」
「退屈を王国に入れるな。」
アーカードは囁く。
「秩序は必要だ。だが、退屈は腐敗だ。静寂は美しい。だが、永遠の静寂は“死”だ。
王国に呼吸を。恐怖でも、歓喜でも、驚きでもいい。生きている音を、消すな。」
骸骨の王は頷いた。
骨の喉で、確かな声を絞る。
「約束しよう。――影よ。」
3。2。1。
世界が白む――はずだった。
しかし、白は来なかった。音も、メッセージも、切断の疼きも。
代わりに、空気が生まれた。
冷たい、湿った、鉄の匂いを含んだ、生の空気が。
アーカードが息を吸う。
その呼吸は、データでは再現されなかったはずの熱を帯びていた。
紅の瞳が、初めてここで“光を受けた”。
「……ほう。」
モモンガはゆっくりと視座を変え、玉座の上から広間を見渡す。
アルベドの瞳に、情が灯っている。
デミウルゴスの呼吸が揺れ、コキュートスの甲殻に温度が移った。
――彼らが、“魂”を持った。
「夢ではない、のか。」
無表情の頭蓋に、言葉が染みる。
「夢でも現でも、どちらでもいい。」
アーカードは笑う。
「夜が呼吸している。それがすべてだ。」
赤と黒が、玉座の間で並び立つ。
王と影。秩序と混沌。死と生。
重力の向きが、かすかに変わった気がした。
アーカードは帽子を押し、半身だけ振り返る。
「行くぞ、王よ。お前が旗を掲げ、私は影を引き伸ばす。
世界がこちらを向く前に、こちらが世界を見に行こう。」
「……ああ。」
モモンガ――いや、アインズ・ウール・ゴウンは立ち上がった。
新しい名は、口にする前から骨に馴染んでいる。
それは個人ではなく、皆の名だったからだ。
「最初の命令だ、影。」
アインズは杖を取る。
「私の王国に、呼吸を。退屈を門外に。」
アーカードは笑い、深く一礼した。
礼は皮肉ではない、真の礼節。
「御意、墓守の王。――夜は、あなたのために深まろう。」
二人が歩み出す。
扉が開き、冷たい風が入る。
世界の匂いが、血の温度で満ちる。
その背後で――
暗がりの最奥、機械の心臓のような場所に、
赤い微光が一つ、点った。
サーバーの終端ではない。
プログラムの外側でもない。
それは、物語の続きだった。
夜は、まだ終わらない。
終わらない夜に、王と影が並び立つ。
その名は《アインズ・ウール・ゴウン》。
そして、その影は――アーカード。