Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
噂は、祈りよりも速く広がる。
それは誰かが意図的に流したものではない。
――少なくとも、表向きは。
「聖女様は、以前とは違う」
「光の厳しさが、薄れている」
「神父が、何か吹き込んでいるらしい」
聖都イシュタルの石畳を、そんな囁きが静かに這っていく。
誰も声を荒げない。
誰も断定しない。
だが、“疑う準備”だけは、着実に整えられていった。
◇
レオナは、それを感じ取っていた。
直接言われることはない。
だが、祈りの場での沈黙。
祝福を受けるときの視線。
背後で交わされる、短く途切れる会話。
(……始まっている)
彼女は、もはやそれを恐怖として受け取らなかった。
代わりに、奇妙な落ち着きがあった。
(私は……逃げないと決めた)
それだけは、はっきりしている。
◇
同じ頃、アンデルセンは枢機卿の一人に呼び出されていた。
小さな執務室。
聖具に囲まれた、清潔で閉じた空間。
「アンデルセン神父」
「はい」
「あなたは、聖女レオナの監督役として行動している」
「その認識で問題ありません」
枢機卿は、机に指を組んだ。
「最近、彼女の言動に変化が見られる」
「……人は、恐怖を見れば変わります」
アンデルセンは穏やかに答えた。
「それは、堕落ではありません」
一瞬、空気が張り詰める。
「あなたは、彼女を“導いている”つもりか?」
「いいえ」
即答だった。
「私は、彼女が考えることを妨げていないだけです」
「それが問題なのだ」
枢機卿の声が、わずかに冷える。
「聖女は、考える存在ではない。
導く存在だ」
アンデルセンは、静かに視線を上げた。
「……その導きが、沈黙しているなら?」
沈黙。
枢機卿は、何も答えなかった。
「神父」
ややあって、低く告げる。
「あなたの役目は、近く再検討される」
「承知しました」
アンデルセンは一礼し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼は確信していた。
(……来る)
これは警告ではない。
準備だ。
◇
その夜。
レオナは夢を見なかった。
ただ、目を閉じたまま、
“誰かが待っている”感覚だけがあった。
窓を開ける。
夜風が、静かに部屋へ流れ込む。
「……来ているのでしょう?」
小さく、しかし確かな声で問いかける。
返事はない。
だが――
恐怖も、ない。
(夜ではない。
神父でもない。
……王)
名は分からない。
けれど、確信はある。
誰かが、自分を“選ばせよう”としている。
◇
ナザリック地下大墳墓。
アインズ・ウール・ゴウンは、盤面を見下ろしていた。
駒はすべて動いている。
自らの意思で。
「……十分だ」
小さく呟く。
選択を迫る準備は整った。
夜は揺さぶった。
狂信は守ろうとした。
信仰は縛ろうとした。
そして――
少女は、立ち続けた。
「デミウルゴス」
「はっ」
「次の局面では、
“対話”の可能性を示す」
骸骨の王の声は、静かだった。
「拒否されれば――
それもまた、選択だ」
◇
翌朝。
レオナは、いつもより早く目を覚ました。
胸に手を当てる。
鼓動は、確かにここにある。
(……選ぶ時が、近い)
光に従うか。
夜に堕ちるか。
それとも――
そのどれでもない道を、歩くのか。
扉の外で、足音が止まる。
ノック。
「聖女様」
聞き慣れた、落ち着いた声。
「……はい」
扉の向こうにいるのは、アンデルセンだ。
彼はまだ、何も言わない。
だが、その沈黙が告げていた。
――もう、猶予は終わる。
レオナは深く息を吸い、扉に手をかけた。
恐怖はある。
だが、迷いはない。
こうして――
祈りと血と狂信の交差点は、
選択の場へと姿を変えた。
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第三章・完