Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
聖都イシュタルに、はっきりとした異変が現れ始めたのは、
誰かが声を荒げたからではなかった。
むしろ逆だ。
誰も、何も言わなくなった。
祈りの場で、
説教の途中で、
祝福の列の中で――
人々は言葉を選び、沈黙を挟むようになった。
レオナは、その変化を肌で感じていた。
以前なら、祈りの後に必ず寄せられた素朴な質問。
小さな不安。
迷いの告白。
それらが、減っている。
(……違う)
減ったのではない。
聞かれなくなったのだ。
人々は、彼女の言葉を求めていない。
代わりに――
彼女が“何を言わないか”を見ている。
その事実が、胸に重くのしかかる。
◇
一方、聖堂の内部では、はっきりとした分断が進んでいた。
「聖女様を、あのままにしておいてよいはずがない」
「しかし、彼女を疑えば民心が揺らぐ」
「揺らいでいるのは、すでに“光”そのものだ」
枢機卿たちの会話は、以前よりも露骨になっている。
誰も「異端」とは言わない。
誰も「裏切り」とは口にしない。
だが、代わりに使われる言葉は決まっていた。
「危うい」
「象徴として強すぎる」
「このままでは、判断を誤らせる」
その“判断”が誰のものかは、
あえて語られない。
◇
アンデルセンは、その動きを黙って見ていた。
祈りの場に立つことはあっても、
意見を述べることはない。
彼は理解している。
(……これは、戦いではない)
剣も、銃も、杭も使われない。
血も流れない。
だが、人が壊れる戦いだ。
聖堂の回廊で、若い聖職者が彼に声をかけてきた。
「神父……最近、聖女様の周囲が……」
「……見てはいけないものを、見てしまったか?」
アンデルセンの問いに、若者は言葉を詰まらせた。
「……分かりません。
ただ、怖いのです」
「何が?」
「皆が、“正しい”ことしか言わなくなった」
アンデルセンは、一瞬だけ目を伏せた。
「それは……
恐怖だ」
若者は驚いたように顔を上げる。
「恐怖、ですか?」
「自分で考えることを、放棄した者の恐怖だ」
それ以上、彼は説明しなかった。
なぜなら――
説明すること自体が、すでに危険な行為だからだ。
◇
その夜、レオナは再び呼び出しを受けた。
今度は、書簡ではない。
直接の要請。
場所は、聖堂の奥にある小礼拝室。
そこは、対話の場であり、
同時に――
記録の残らない場所だった。
扉の前で、レオナは足を止める。
(……ここから先で、
何かが変わる)
逃げることはできる。
だが、それは“聖女として”の逃走だ。
彼女は深く息を吸い、扉を開けた。
◇
室内には、三人の枢機卿がいた。
誰も怒っていない。
誰も威圧していない。
それが、かえって恐ろしい。
「レオナ殿」
「はい」
「最近のあなたの言葉は、民を落ち着かせている」
「……ありがとうございます」
「だが同時に、
“決断を先送りにさせている”」
レオナの胸が、僅かに締め付けられる。
「人は、不安な時ほど
強い言葉を求める」
「……」
「あなたは、強さを与えていない」
それは非難ではなかった。
評価だった。
「だから、提案がある」
枢機卿の一人が、静かに続ける。
「あなた自身の信仰を、
明確に示してほしい」
「……明確に?」
「光が沈黙している今だからこそ、
聖女の言葉は“代替の光”となる」
レオナは、言葉を失った。
(それは……
私が、決めるということ?)
「安心なさい」
別の枢機卿が微笑む。
「これは、あなた一人に背負わせるものではない。
我々も支える」
その“支える”という言葉が、
なぜかとても遠くに聞こえた。
◇
部屋を出た後、
レオナはしばらく立ち尽くしていた。
自分が何を求められているのかは、理解できる。
だが――
それが正しいかどうかは、分からない。
(でも……)
彼女の胸に、ある考えが浮かぶ。
(私が、前に出れば……
皆は、救われるのでは?)
混乱は収まる。
疑念は止まる。
血は流れない。
それは、一見すると
最も穏やかな選択だった。
遠くで、鐘が鳴る。
その音は、なぜか――
警告のように響いた。
◇
夜。
アンデルセンは、祈らずに夜空を見上げていた。
(……来る)
まだだ。
だが、確実に。
レオナの選択。
それが引き金になる。
彼は、十字架を強く握った。
「……Amen」
その言葉が、
祈りであったのか、
諦めであったのか――
彼自身にも、もう分からなかった。
聖堂に生まれた裂け目は、
誰にも塞げない。
そしてその裂け目は、
やがて――
血を呼ぶ。