Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
その噂は、最初は囁きだった。
市場の端。
巡礼宿の裏。
祈りの後の、ほんの数秒の沈黙。
――北部で、夜が裂けたらしい。
――血の霧が出た。
――異端が現れ、神父がそれを退けた。
レオナがそれを耳にしたのは、
昼の祈祷を終えた直後だった。
「……北部、ですか?」
思わず問い返した声に、
若い修道女がはっとする。
「す、すみません、聖女様。
噂話です。根も葉もない……」
「いいえ」
レオナは、静かに首を振った。
「続けてください」
修道女は、少し迷ってから言った。
「……血の夜が現れ、
恐ろしい怪物が人を襲ったと……
でも、神父アンデルセン様が立ち向かい、
その怪物は退いた、と」
レオナの胸が、わずかに締め付けられる。
(アンデルセン神父……)
彼女は、あの夜を思い出す。
何も言わず、ただ背を向けた彼の姿。
「……怪物とは、どのような?」
「赤い外套を着た、
人のようで人でない存在だとか……」
修道女は、声を潜めた。
「吸血鬼ではないか、という話も……」
レオナは、息を呑む。
◇
その日のうちに、
噂は“情報”へと変わった。
枢機卿の一人が、
公式の場でそれに触れたのだ。
「北部において、
異端的存在による騒擾が確認された」
言葉は慎重だった。
「だが、我らが信仰は揺るがなかった。
勇敢なる聖職者の働きにより、
被害は最小限に抑えられた」
名は出ない。
だが、誰もが察している。
――アンデルセン。
レオナは、その言葉を聞きながら、
胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。
(……“退いた”?)
(本当に、それだけ?)
◇
夜、レオナは一人で資料室にいた。
正式な報告書は、
まだ閲覧を制限されている。
だが、断片的な記録は残っている。
破壊された巡礼路。
複数の再生痕。
異常な魔力反応。
そして――
決着の記録が、存在しない。
(……勝ったのでも、
負けたのでもない……?)
その空白が、
彼女を不安にさせた。
◇
一方で、民の間では、
噂はさらに形を変えていた。
「神父様が、怪物を追い払ったらしい」
「やはり、神は我らを見捨てていない」
「聖女様が祈っていたからだ」
その最後の言葉を聞いたとき、
レオナの心臓が跳ねた。
(……私?)
彼女は、何もしていない。
祈りは捧げた。
だが、あの夜、北部にはいなかった。
それでも、
人々は“理由”を求める。
そして――
最も分かりやすい象徴に、意味を押し付ける。
◇
深夜。
レオナは、自室の窓辺に立っていた。
遠く、北の空を見つめる。
(アンデルセン神父……)
(あなたは、何と戦ったの?)
だが、その答えは来ない。
代わりに、
心の中で別の声が囁く。
(私が、もっと前に出ていれば……)
(私が、皆を導けていれば……)
その思考が、
彼女を少しだけ安心させた。
同時に――
さらに危険な場所へと導いているとも知らずに。
◇
その夜。
アーカードは、どこかで笑っていた。
アンデルセンは、祈らずに空を見ていた。
そして王は、
何もせず、盤面を眺めていた。
血の夜は、
噂となって薄められ、
真実は、闇に沈む。
だが――
その歪みこそが、
次の悲劇の種だった。