Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
聖都イシュタルは、表面上の平穏を取り戻していた。
朝の鐘は規則正しく鳴り、
巡礼者は祈り、
商人は声を張り上げる。
血の夜の噂は、すでに過去形だった。
人々は、過去形にできる出来事を好む。
それがどれほど歪められたものであっても。
◇
公式な見解は、丁寧に整えられていた。
――北部および南部で確認された異常事象は、
――局地的な治安悪化に起因するもの。
――信仰秩序への影響は確認されていない。
文章は短く、冷静で、反論の余地がない。
そこには「分からない」という言葉が存在しなかった。
分からないことを残さない。
それが秩序の基本だった。
◇
そして秩序には、象徴が必要だ。
レオナは、祈りの場に立っていた。
集まる人の数は、以前より明らかに多い。
視線は一斉に彼女へ向けられ、
そこに疑念はない。
信頼と依存は、よく似ている。
「恐れることはありません」
彼女は、穏やかな声で語る。
「信仰は、まだ私たちの中にあります」
人々は、安堵の息を吐く。
その瞬間、
祈りは思考の代替となった。
レオナは、その変化を感じ取っていた。
(……皆、安心している)
それは本来、喜ぶべきことだ。
だが胸の奥に、微かな違和感が残る。
安心は、理解から生まれてはいない。
誰かが立っているから、安心しているだけだ。
◇
アンデルセンの姿は、その場になかった。
彼は招かれていないわけではない。
ただ、必要とされていない。
彼が立てば、
祈りの空気は血を思い出す。
だから排除されない代わりに、
静かに遠ざけられた。
◇
街では、噂が完成形へと変わっていた。
「神父が怪物を退けたらしい」
「聖女の祈りがあったからだ」
「やはり、神は沈黙していない」
どの言葉にも、一部の真実は含まれている。
だからこそ、誰も疑わない。
だが、そこには欠けているものがあった。
――なぜ怪物は現れたのか。
――なぜ退いただけなのか。
問われない疑問は、やがて存在しなくなる。
◇
夜。
レオナは、ひとり礼拝堂に残っていた。
灯りは少なく、
人の気配もない。
「……これで、よかったのですよね」
小さな声が、天井に吸い込まれる。
答えは返らない。
だが沈黙は、
彼女にとって肯定に近かった。
沈黙は、
人を安心させることがある。
◇
一方、聖都の外れ。
アンデルセンは、夜風に晒されて立っていた。
街の灯りは見える。
だが、そこに自分の居場所はない。
(……刃は、
しまわれれば錆びる)
それでも、
抜かれるよりはましだと、
どこかで思っている自分がいる。
「……Amen」
その言葉に、
祈りの意味はもうない。
◇
象徴は祈り、
刃は沈黙する。
人々は安心し、
秩序は保たれ、
世界は一歩、静かに歪んだ。