Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
――静寂。
それが、転移後のナザリックを最もよく表す言葉だった。
外界では夜の獣が咆哮し、血の王が狂気の饗宴を広げていたというのに、
その中心にある地下の王国は、まるで時間さえ止まったかのように静まり返っていた。
広大な回廊には音がない。
歩く者たちは皆、主の視線を意識して息を潜めていた。
アインズ・ウール・ゴウン――秩序の王。
彼の支配は、絶対でありながら、冷ややかで静謐だった。
玉座の間。
アインズは地図を前に立っていた。
外界の地形を再構成した魔法投影が、空間にゆらめく。
森、山脈、王国、帝国。
そこに、新たに赤く光る一点――アーカードの“血の跡”が示されていた。
「……この印は何だ?」
低い声に、傍らのデミウルゴスが応じる。
「はい、アインズ様。先の“血の儀式”によって形成された呪的支配領域かと推測いたします。」
デミウルゴスは眼鏡の奥で瞳を細める。
「生者の恐怖と死者の残留思念が織り交ざった、極めて高度な魔術反応。
規模は村ひとつ分、持続時間は……永続に近いでしょう。」
「永続、だと?」
「はい。吸血鬼という種の特性を超越した、“支配者級存在”の所業です。」
その声はどこか愉悦を含んでいた。
「まるで、神が血によって地図を書き換えているようです。」
アインズは黙考する。
骸骨の顔に表情はない。だが、沈黙がそのまま重圧となり、玉座の間を満たした。
「……血の王。彼の存在が、この世界に何をもたらすか。」
「秩序に“亀裂”を入れます。」
デミウルゴスの答えは即答だった。
「彼は王国を乱すつもりはない。しかし存在するだけで、支配の定義を変える。
アインズ様、貴方の“秩序”は、恐怖と尊敬によって保たれています。
ですが彼の“支配”は――本能と欲望です。」
「……つまり、同じ支配でも性質が違うということか。」
「ええ。まるで昼と夜のように。」
デミウルゴスは地図の赤い点を指でなぞった。
「彼の統治には法がなく、理屈もない。
しかし、そこに秩序の一形態が存在するのも事実です。
“夜の秩序”――恐怖と快楽の均衡で成り立つ支配。
ある意味、貴方の秩序よりも古い概念かもしれません。」
「……ふむ。」
アインズの頭蓋に微かな光が灯る。
興味と警戒が入り混じった知性の閃きだった。
「アーカードのような存在を完全に制御することはできまい。
だが、彼を排除すれば、ナザリックそのものに亀裂が走る。」
「はい。シャルティア、アルベド、さらには闇属性系の下級NPCの多くが、
“夜の王”に強い畏怖と敬意を抱いております。
もし彼を敵と定義すれば、内部の精神構造に混乱が生じます。」
「……つまり、ナザリック内部にも二つの“信仰”が芽生えつつあると。」
「その通りです。」
アインズは深く息を吸い込む仕草をした――もちろん、実際には肺などない。
それでも、王としての思考に一区切りをつけるための所作だった。
「ならば当面は、この“静寂”を保とう。
秩序の均衡が崩れるのは、私の望むところではない。」
「承知いたしました。」
デミウルゴスは恭しく頭を垂れる。
だがその唇の端には、わずかな笑みが浮かんでいた。
(――秩序の王と混沌の王。
この二柱が同じ玉座に座すならば、いずれ世界はどちらかに傾く。
その“変化”こそ、私が望むものだ。)
デミウルゴスの思考は、静かに狂気を孕んでいた。
一方その頃、ナザリックの最下層。
無窓の闇に包まれた石棺の間で、アーカードは眠っていた。
だがその顔は、安らぎではなく――笑みを湛えている。
血の香りが漂う闇の中、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……ふふ。聞こえるぞ。
王の鼓動、悪魔の囁き、そしてこの世界の悲鳴が。」
指先が動く。
棺の蓋に赤い紋様が浮かび上がり、微かな音で心臓の鼓動を模倣した。
「アインズ、お前の“秩序”は確かに美しい。
だが――夜は、いつかその秩序を飲み込む。」
彼の声は微笑のまま、闇に溶けた。