私は優しすぎたのかもしれない。周りの友人、先輩、親しくない人たちにまで優しくし過ぎたのかもしれない。我が身をすり減らして、時には名も知らぬ誰かにまで分け与えすぎたのかもしれない。自分にしてもらいたいと思うように他人にもしてきたが、何かを少しずつ失うのはいつも決まって私だった。こんなことに気づくのに時間を要したのもまた、優しすぎた私が考えないようにしていたからかもしれない。
そして今も聖人病──これは私が命名した──を患いながら、どこともつかぬ冥界に足を踏み入れてしまっている。脆くめくれた白黒のタイルを、破れた吹きさらしの窓から青白い月明かりが照らす部屋では、全てのものの時間が止まっていた。カウンター上のグラスやコーヒー缶は埃を被っていたし、背の低いテーブルをU字に囲うソファカバーはぱっくり裂けた切り傷から中身のスポンジが見え隠れしている。天井からはぎざぎざの歯をなぞったように割れた電球が垂れ下がって、床の細かい破片もきらきらと微光をはなっている。
きれいな満月が明かりを投げかける夜だった。ただし空には穴の開いた灰色の雲のカーテンが掛かって、全体を見られないように満月の顔を隠している。完全に見えそうで見えず、常に本性を隠す姿はゲヘナの性質によく似ている。現にゲヘナ校区へ身を投じている今も、一抹の不安が私の後をついて回っていた。もっともこの不安は夜遅くに部屋を抜け出してから、ここに来る間に累積してきたものでもある。トリニティ総合学園内の寄宿舎。私と近い年の学生たちが眠る学生寮をこっそり出て、ゲヘナ学園との境界線を踏み越え、このスナックという飲食店跡までやってきた。昔に廃業してしまったらしい部屋はどれも見たことない設備に満ちていて、放置されていたとはいえ私の好奇心を刺激するには充分だ。棚に並んだ瓶のラベルを眺めて、カウンターから部屋全体を見回したり、気取って足の長い椅子にまたがったりしてみた。それから三つあるテーブル席の中でもきれいだった真ん中を選ぶと、埃を払ってようやく腰を落ち着ける。夜の散歩は素敵だし、非常にスリルが溢れている。夜道にいるだけでも伸ばした金髪は良く目立つから、もしかしたら誰かは私がこの建物へ入ったのを見ているかもしれない。そう思って中へ入るまでに、何度も後ろを振り向いて確認した。追ってくる者は誰もいなかった。
今こうして席に落ち着くと、部屋を出る前に茶を詰めた水筒を開けて一口飲んだ。カフェインは寝つきを悪くするとシスターに言われてからは、そういった成分の入ってないものを選ぶようにしていた。だが今日だけは別だ。これからちょっとした会合を行い、無事に済めばそれからトリニティ寄宿舎へ帰らなければならない。おまけに気づかれないようにして、自分の部屋へ戻りベッドにもぐりこまないといけない!こうした難しいことをする以上、寝つきに関する躊躇など吹っ飛んでしまったのだ。
席に収まってしまえば、あとは静かだ。しんと静まり返った音(この表現はなんて適切なんだろう!)だけが耳に入ってくる。ここには誰もおらず一人だけなのだと分かっても、だからといって好き勝手に振舞うようなことはしない。淑女のすることではないし、誰が見ているとも限らない。棚に陳列している瓶には、メッセージじみた名前がついていた。”愛しい人”とラベルに書かれている。私は今しがた目にしたばかりのこの文句にどうにも目を惹かれてしまった。きっと私を常に見守ってくれている誰かが、この言葉を寄こしてくれたに違いない!今一人だけの空間に身を置いて、これまでの短い人生の歩みの再上演にひたるのも悪くないだろう。
私は南ユリ。年は十五。身長は一五二センチメートルで、学園内では小柄な方だと思っている。友人たちは可愛らしい背丈で羨ましいと話してくれるが、将来的には淑女らしくすらりとした肢体の持ち主になりたいと願っている。
目は黄色、薄めの金髪は天然のカールがかかっている。これもいつかはシスターフッドのサクラコ様みたいに大人の雰囲気をものにしたいという願望があるが、今はまだ慎ましやかに留めている。鼻や口も控えめな大きさで、学生たちに紛れればさほど目立つような見た目ではない。白を基調とした制服に指定のベレー帽を被れば、よほどの特徴でもなければ大集団のトリニティでは自然と埋もれてしまうのだった。
誇れるものがあるとすれば、生まれてこの方トリニティの枠から出たことがない点だろうか。生まれて物心がついた時には、既に私の身も心もこの学園にあった。だから幼少期には、朝に目が覚めれば頭の中で天使のラッパがファンファーレをよく吹いていたものだ。年頃になるにつれてラッパの音色は聞こえなくなったが、代わりに聖堂へ足しげく通うようになった。深い信心というのに熱をあげて、とかくシスターたちの後ろをついて回っていた。彼女たちの話は固いしやかましいと裏で話す者もいたが、幼いころからどっぷり浸かった私には分からなかった。彼女たちは清楚で、まさに品行方正という言葉をそっくりそのまま体現したような人たちで、全ての人々はこうあるべきという羨望と模倣の対象だった。常に他人のために働く献身的な姿に心を打たれ、少しでも理想の女性像に近づこうと彼女たちの活動に加わったりもした。なんだか主人の後ろをついて回る忠犬みたいだが、それでも彼女たちは親切にしてくれた。
しかし親切でなかった者たちもいたことを忘れてはいけない。トリニティ総合学園にはいくつもの派閥がある。とりわけパテル、フィリウス、サンクトゥスの三つが有力だが、シスターフッドは中立の立場を維持しながらも学園の意思決定において発言力を持っている。蚊帳の外でも権力を持つシスターフッドにべったりだったことから、ひそかに権力を狙っているという根も葉もない噂を流された。私を気に入らない連中は確かにいたし、私も私で対応をまずった。陰湿ないじめ紛いの嫌がらせも受けたが、私から手をあげることはしなかった。できなかった訳ではない。これも聖人病の症状の一つで、自分の身に不幸が投げつけられるうちは別の誰かが不幸になることはないと信じて疑わなかった。だからどんなにやられても決してやり返したりしなかった。そのうちに段々と私を見る目に哀れみのような色が混じり、気が付けばいじめっ子たちは興味を失って離れていった。信心が勝利したのだと確信した私はすぐさま──心配をかけないよう身なりはできるだけ整えてから──聖堂へ飛んでいったが、話を聞いた先輩方が悲しそうな顔をした事だけ覚えている。
中等部になると三つの派閥の溝は一層深くなる。それまで築いてきた交友の輪がきれいさっぱりなくなり、ほとんどの学生たちはそれぞれの集団に固まり人間関係も固定化されていくのだ。私は大して悩まずフィリウスに入ることにした。別に深い意味はなかったし、ただフィリウス派トップが一番大人しそうな性格だったからだ。そもそも私生活で政治のあれこれを持ち出す気はなかったし、幸い中等部に入ってからは周りにも似たような考えの持ち主が多かった。その中でも同級生のアヤと親しくなると、二人で紅茶部へ入部した。本当はシスターフッドと活動したかったのだが、そのことを話すと他の部活に身を置くことを勧められた。(「ユリさん、広い交友関係を持つことも勉強のうちですよ」)
紅茶部での活動は平和そのものだった。互いに珍しい茶葉を持ち寄り、菓子を揃えてアフタヌーンティーと取り留めもないお喋りを楽しむ。先輩方からは色々なお話を聞くことができた。夏には海辺に行ってバカンスにダイビング、冬にはウィンタースポーツで特にスキーが人気だった。広いトリニティ自治区内では北へ行けば、雪の積もる山がいくつもある。私もそのうち一つの滑走スポットへついて行き、戦々恐々としながら斜面を滑り降りたりしたものだ。
その頃ソルと出会った。
紅茶部はそう頻繁に集まるわけでもないが、同級生とは別だった。珍しいものが手に入ったりしたらその友人たちだけでこっそり楽しむこともある。ある時に紅茶部での活動がしばらく止まり、私とアヤも退屈をして、先輩方に内緒で同級生だけの活動をしようという話になった。調子に乗って部に所属している子の友人まで、合わせて二十人くらいを招待した。久しぶりの活動で気合が入っていた私は、その集まりでも一番上等で珍しいものを手に入れてやろうと躍起になった。ところが学生にも手の届く範囲は既に探索し終わっており、贔屓の店の主人と話してもこれ以上のものは校区外に出ないと見つからないと言われた。その時の私はひどく悩んだ。これまでトリニティ自治区から出た事のない女学生にとって、外の世界は魔界にも思えた。とりわけ隣のゲヘナ校区は治安の悪さで有名だった。銃器社会のキヴォトスでもずば抜けて悪名高い土地だが、だからこそ未知の品物に出会えるかもしれない。
世間知らずだった私はその可能性に引かれてしまった。ある晩──ちょうど追憶にふける今日みたいな夜だった──に私は境界線の側へ向かった。長く不仲だったゲヘナとトリニティだが、またがる道路上には境界線が白線で引かれているだけで検問などはない。だがその当時の私には、この白線の先が奈落へと続くようにも思えた。まるで一歩踏み出せば底のない大穴へ真っ逆さまに吸い込まれるみたいで、何かとにかく恐ろしい犯罪に手を染めようとしているようだった。この白線を越えれば、私はもうトリニティの法律では保護されず、偶然迷い込んだ猫と同じくらい取るに足らない存在になってしまう。だが好奇心には抗えず、私はその白線の前で数分間躊躇した末に何も考えず飛び越えた。
地面を踏む感触や空気や光の灯ってない暗い街並みの全てが異質だった。今思えばたかだか数センチメートルの違いだが、その時の私は新しい世界へ足を踏み入れた恐怖や興奮が入り混じって、ひどく酩酊したような気分だった。そのときゲヘナ側の路地を入った辺りに寄りかかっていた柄の悪い女が、「おめでとう、これであんたも私たちの仲間さ」と言って、何がなんだか分からない私の肘の辺りを掴んだ。そのまま私をトリニティ側からは見えない場所まで引っ張り、もう一度「おめでとう」と言う。「私はソル。トリニティの友人ができるなんて今日はついてるな」
彼女は私にとって、初めてのトリニティ以外での友人だった。ソルと名乗った彼女は、私より三つも年上だった。ゲヘナ学園高等部に入学して、射撃部に入っていると話した。「ところでこんな夜更けに一体どうして境界線を越えたんだ?」と聞かれて、私も自分のことをいくらか話した。名前と所属、それからトリニティに流通していない珍しい茶葉が欲しいところまで話すと、彼女は声をあげて笑った。ひとしきり笑うと、ソルは怪しげな笑みを浮かべて手を取り、土地勘のない私を建物がひしめく奥へと連れて行った。最初は不安から手を振りほどこうとしたが、彼女の笑みを見ると不思議と恐怖心は取れてしまった。あとに純粋な好奇心だけが濾過されて残ると、ソルは友人が知っているという”茹で窯”という店まで案内してくれた。黒い樫の扉をくぐり、階段を下りて一歩踏み入れた私は、暗く落ち着いた雰囲気にすぐに虜になってしまった。とろけるようなジャズ(私はそれまで本物のジャズというのを聞いたことがなかったんだ!)が流れる中で、彼女は私に似合うお茶をいくつか見繕ってくれた。その店のカウンターに収まって、私たちはそれぞれ二杯ずつ味わいながら、先ほどよりも深く入った話に華を咲かせた。互いの学校のこと、昔の思い出話や趣味……。話しているうちに気づいたのが、ソルはとても話しやすい相手だった。トリニティではゲヘナの住人は、皆が粗暴で血の気が多くて、マナーが欠如した浮浪者みたいなものだと言われているので、私は噂なんてあてにならないと感じた。彼女にそのことを話すと、今度は声の調子を抑えて笑っていた。それは一部の顔の大きい連中だけで、他の目立たない大部分では乱暴者はまれだと私に言い聞かせてくれた。私もその通りだと思った。ソルは多少強引なところはあるが、黒いレンズのような瞳はいつも私の心のうちを透いて見ているみたいだったし、思慮深く思いやりのある人間だった。私がトリニティへの土産にその店で茶葉を買うというと、彼女は食事代だけじゃなく茶葉代まで出してくれようとした。それはさすがに申し訳ないと話して、私は土産の代金を半分だけ出した。
店を出ると、時計は午前三時をまわっていた。ソルはあっちにも楽しい場所があると言って帰り道とは反対側へ連れて行こうとしたが、明日は早いし見つからない内に帰らないといけないと話すと、彼女は夜道は危ないからと境界線の近くまで歩いて付き添ってくれた。帰り道に私たちは手を握って、誰も出歩かない二人だけの世界に浸っていた。ふわふわと浮いてしまいそうな感覚で、なんだが自分は学生寮を抜け出すなんて大それたことをする度胸もなく、これはベッドの中で眠る自分が見ている夢ではないかとさえ考えた。だがソルが手を握り返して伝わる温もりや、夜の少し冷えた風が頬を撫でる感触、先ほど二人で味わった茶の残り香で現実なんだと確認できた。境界線の近くまで来ると、ソルは握る手を少し固くして、またこうして会えないかと言ってくれた。私も悪い気はしなかったので、その場で連絡先だけ交換してその日は別れた。あれほど畏怖していた白線をなんなく越えると、私はソルが世闇に紛れて見えなくなるまで手を振った。右手にはまだ彼女の温もりが残っていた。その間にも私の胸の内には、ある確信めいたものがあった。ゲヘナにだって悪い人ばかりじゃない。だって彼女はこんなに優しかったのだから!
寮に戻るまで誰にも見つかることはなかった。ベッドにもぐりこんでも、結局その日は大して眠ることもできなかった。心臓がいつまでも拍動して、体の中心には熱がこもりきっていたからだ。無理に寝ようとしても瞼の裏に彼女の姿が投影され、気が付けば窓から朝日が差し込んできていた。
同級生だけのパーティは大成功だった。特に私の提供したお茶は好評で、しきりにどこで入手したかを尋ねられた。私はソルのことは誰にも打ち明けなかった。トリニティの外に詳しい人が偶然持っていて、それももう品切れになっているだろうと誤魔化した。話を聞きつけた先輩方の飛び入り参加もあり、この集まりは成功しすぎたくらいだったが私はそれどころではなかった。お茶の味などとうに分からなくなってしまっていたのだ。お開きになった後でお礼の連絡をすると、すぐに喜んでくれてよかったと返ってきた。それから次はいつ会えるのか、どこに行きたいか、といったやり取りが続いた。
夢のような時間は半年くらい続いた。夜に会うのは障壁が高かったので、週に一度の休日にデートをするようになった。向こうも平日は別の仲間との付き合いがあるし、学園を跨いでの関係は気をつけねばならないことが多い。私もソルのことはアヤやシスターフッドの誰にも明かさなかった。それに会う時には必ず普段の趣向とは違った服を着て、道順も毎度変えていた。初めて尽くしのこの関係は、とかく大事にしなければならないと思えたのだ。
ソルはトリニティに長くいる生徒を世間知らずだと思っていたらしく、映画館やゲームセンターやレストランといったいかにも学生向けの場所へ連れていってくれた。本当はもっと良い場所へも一緒に行けたらなあと口をこぼしていたが、私は今の方が気遅れすることもなく楽しめるから好きだと伝えた。そうして何度か顔を合わせるうちにソルの顔からは、初めて会った晩みたいな怪しい光はすっかり消えていた。ただ私が次はいつ会えるか尋ねたり、ずっとこの関係が続けばいいのにといった願望を口にすると、ソルは決まって困ったような表情を浮かべるのだった。
中等部二年の冬になり、私は学園をそのまま進学することで決まりきっており、ソルは進路を決めあぐねていた。だが彼女にはどうも別の悩みがあるように思えたのだ。本人は気を遣わせないためなのか話してくれなかったが、ふとした時に浮かない顔をしていた。気づいていたのだから何があったのか尋ねるべきだったが、その時の私はこれまでの幸せな関係にひびが入るのを恐れて何も聞けなかった。
私の人生が決定的に変わったその日、ソルは会った時から調子がおかしかった。私は気づかない鈍感な女のふりをして、二人でいつものように映画を見て、それからコンビニエンスストアでお昼を買ってから橋下の川辺に向かった。背が高い草を掻き分けて進んだ先にある静かな場所で、私たちは何もすることがなくなると決まってそこで川がただ流れるのを見ながら近況を報告しあったりしていた。二人で腰を下ろしても、やはりソウの顔には何か暗いものが見えたので、私はここで思い切って聞いてみることにしたのだ。進路で何かあったのか、悩みがあるなら聞かせてほしいと言うと、ソウはこの日初めてまともに目を合わせてくれた。黒レンズみたいな瞳に光は少なく、すっかり濁り切っていた。生傷みたいな薄いピンクの唇が少し割れて、やや逡巡があってからソルはおずおずと話してくれた。「なあユリ。私たちのこうした時間はとても楽しい物だったし(そう、確かにだったと口にした)、お互いに喜びを与え合えた幸せはかけがえのないものだとも思ってる。この関係は素晴らしいもので捨てるには惜しい。だから、なあ、ユリ、私と一緒にゲヘナで暮らさないか」
あまりに突然の話で私も驚いて「そんな、すごく嬉しいわ。でも今すぐじゃないと駄目なの?それぞれの学校のこともあるし、私が高等部を卒業するまで待ってからじゃいけないの?」
「実は、少し問題が起こったんだ。それでもしかしたら今までみたく気安く会えなくなるかもしれない。私たち二人が何のわだかまりもなく顔を合わせられるのは、今日しかないかもしれないんだ。だから急で悪いとは思うけど今決めてほしい」
「でも、急すぎる。私はソルを嫌いになったりしないし、だから今までのままで待っててほしい」
私なりに勇気を振り絞っての返事だった。ソルに何があったかは分からなかったし、この一言で何か大切なものが壊れてしまうかもしれない。それでもその時の私には、全てを投げ捨てても愛を選ぶような覚悟はなかった。
ソルは驚いたが、すぐにはにかんでから肩を優しく抱き寄せた。まるで今世の別れのような仕草にひどく気を揉んだのを覚えている。こうして想起するだけでも、彼女が肩に触れてくれた感触が蘇ってくるからだ。私はとにかく彼女の腕の中に縮こまって、この終生大切にしなければならない思い出を不意にしないよう努めた。
ところがここで悪夢のような出来事が起こった!
だしぬけに草が乱暴にかき分けられ、私たちの背後の方から怒鳴り声が飛んだ。「もう良いだろソル、誘いを断るようなやつにこれ以上暇をかけることはねえよ。さあ、立て!」
誇張抜きで心臓が飛び出してしまいそうだった。錆びたねじのように首をやっとのことで回すと、ゲヘナ学園の制服を着崩したいかにも不良と呼べる連中が五人も集まっていた。ソルも同じく振り返って、声の正体を確かめる。それから私を安心させるためか、一度強く肩を抱いてからゆっくりと体を起こした。
五人の中心にいた黒髪の少女がマスク越しにどすを効かせた声を響かせた。「トリニティのお嬢様、平和ボケした羊が狼の住処に飛び込んでくるなんてな」
私はすっかり怯えきって、本当に言葉が何も出てこなかった。何も言えぬまま、殺されるのを待つ。五人とも銃を手にしていて、誰が撃ってきてもおかしくなかった。
五人の影は敵愾心をあらわにして、私とソルを睨みつけた。「ソル、お前がさっさとひっかけてこないからだ!」それから私をじろじろ見て、その間に他の四人が私たちを円形に取り囲んだ。「ぽわぽわしたトリニティさんよお。お前がソルをたぶらかしたせいで、私たちがどんなに割を食ってきたか想像もつかないだろうな。ちょっとしたカモのくせに!とりあえず荷物を置け。それから金になりそうなものもだ」女は再びソルに目を向けた。「返事は聞いた通りだ。もうやっちまってもいいはずだぜ?」たぶん前に聞いたソルの友人というやつなのだろうか。ソルはぽつぽつと話した。「待ってくれよ、なあ、こんなに時間をかけてすまないと思ってる。だけどこの子は見逃してくれ。頼むから」女は顔をのぞきこんだ。「お前だってその女をカモ呼ばわりしてたじゃねえか。今更泣き言を並べても無駄だぞ」ソルは意地を張った。「この子はそんなんじゃない。とにかくここは引き下がってくれよ」それから本当に小さく──私にしか聞こえないくらいにつぶやいた。「本当に大切になったんだから」
だが女は馬鹿にしたような目つきを向けるだけだった。何か嫌な予感がして、私はふらつきながらも立ち上がった。それから逃げ道がないか周りに目を走らせたが、背後から素早く腕が伸びると私の腕を掴み、口を塞いでしまった。誰かに聞こえれば良いという一心で声を上げようとしたが、小鳥みたいな一鳴きだけが橋下に虚しく響く。
「よせ!」ソルが怒鳴った。だがこめかみに拳銃が付きつけられる。歯噛みして、小さく悪態をついた。
女はせせら笑いながら、トリガーに指をかける。「ソル、骨抜きにされたお前はもう仲間でもなんでもねえ、射撃部で少し腕が良いだけの女だ。ゲヘナにはゲヘナの流儀ってやつがあるんだよ。これからそのお嬢さんにたっぷり教えてやらねえとな」
後ろから私を押さえつけている奴の鼻息がうなじの辺りに繰り返しかかる。本当に狼か、ハイエナに近い連中だった。私は言われたように抵抗する術を持たない羊で、腹をすかした肉食獣の刃物みたいな牙が喉元まで食いかかる寸前だったのだ。体が芯から冷えて、ただ頭の中は不思議と冷静になっていた。ああ、私はこういう形で失うことになってしまうのか!
ソルはこちらを見つめて動かず、口も開かなかった。何か打開する策があるのか、私には彼女だけが頼りだった。例え騙されていたとしても──いや、本当に騙されていたのだ。ソルは初めて会った晩、私を腹に金を詰め込んだカモとしか思っていなかったのだ。不良たちの話しぶりを聞いて、もはやそう思うしかなかった。つまり彼女たちは仲間で、ソルは私の信用を買ってから仲間の元へ誘い込んで、それからゆっくりと食らう腹積もりだったのだ。あの晩にトリニティと反対の方へ誘ったソルの狙いがようやく分かった。それと同時に血の気がさっと引いた。私ったらなんて馬鹿なことをしたのだろう!鏡なんて見たくもなかった。きっと相当ひどい顔だったろう。
ソルは肩を落として、それからこちらを見た。あの二つの黒レンズは何も物語ってはいなかった。これから随分ひどい目にあうかもしれないが、そういう運命だから……たかが痛みの一つだから……。私は怖くなった。だがソルはほとんど口を開けず、独り言をこぼした。「そうだな、ゲヘナにはゲヘナのやり方があるし、それにもう仲間なんかじゃない」
ソルのこめかみに拳銃を向ける女の他に、三人の不良が取り囲むように立っていた。ソルがいきなり体をひねり、右手は抜く手も見せずに拳銃を抜くと、つけつけられた銃を殴りながら火を吐く。ガーンという銃声。三人のうち一人がぐいと橋を見上げて、そのまま仰向けに倒れ込む。すぐさま自分の拳銃を他の奴に投げつけ、振り向きざまに殴った手を掴むと不良の銃で次々に仲間だった連中を早撃ちした。私が目で追えたのはそこまでだった。何発目かの銃声が轟くと、耳のすぐ横を銃弾が横切りざまに甲高い音。頭の後ろで呻き声が上がり、私を押さえつけていた不良に引っ張られて地面へ転がった。
耳が何も聞こえなくなったような静寂の後で、ソルが掴んでいた拳銃から空の薬莢が砂利にカチンと音を立てて落ちた。私は何が何だか分からず、しばらく茫然としてしまっていた。ソルはこちらに振り向き、それから私の手を取ると引き立たせた。周りには先ほどまで獰猛だった獣五匹が力なく転がっている。「行こう」ソルはそれだけ言うと、私の手を取って駆け出した。通り過ぎる時に自分の銃を拾い上げ、私たちは草むらを夢中で掻き分けて街灯の灯る道路へ出た。
しばらく走る間、二人は一言も交わさなかった。日はかなり傾いて、雲を茜色に染めている。そのまま何分か走り続けて、太陽が完全に隠れる前には初めて会ったあの境界線の近くまでたどり着いた。ふう、とソルは一息ついて、私の手を離した。「間一髪だった。怪我はない?」
「怖かったわ」
あまりに感情を隠さずにそのまま口にしたらしく、ソルは口を横につぐんでしまった。だがいつまでもこうしていられないと思ったらしく、私の名を呼んで正面に向き合う。ずっと濁っていた黒い瞳は、今しがたの試練で生気を取り戻していた。なんだか急に彼女が冷たくなり、遠くへ行ってしまうような気がした。「まず謝らせてほしい。あいつらの言ったように、私は初めの頃には君を騙していた。あいつらの元へ連れ込んで、それから金品を攫ってしまう手筈だった」
私はただ黙って、ソルの話を聞いていた。「ただ私にはできなかった。私は本当に君を大切に思うようになって、あんな連中の餌にしたくなくなったんだ。これまでの時間は素晴らしかったし、君の事は忘れないだろう。しかし私と君の住む世界は全然違うし、生活だって違う。奴らは何も知らない君みたいな良い子から物をむしり取るような連中だし、私と君が仲良くしているのに反対だったんだ。でも私が君の事を心から大切に思っていることだけは知っていてほしい。あいつらの話をしなかったのは私の落ち度だし、こんなことを話して君に幻滅されたくなかったんだ。とにかく君とは楽しく遊べたし、色々な思い出も作ることができた。でもこれ以上は付き合えない。私の周りにはゲヘナのやり方を心得た奴らが多いし、いつまた今日のようなことが起こるとも分からない。君をこんな汚い世界に巻き込みたくないし、君は私なんかにはもったいないくらいの素晴らしい女性だよ。そういうことだから……」
それ以上のことは覚えてない。後はほとんどが耳から流れ出てしまっていただろう。私はただ「そう、そうね。でもまたどこかで会えるわよ。連絡を待ってるから」と返した。ソルから返事はなかった。
私は最後にソルの手を取って、彼女を抱きしめた。ソルの方から反応は返ってこなかった。
ソルはぽつりと言った。「さよなら、愛しいユリ」何ともつかぬ笑顔を作り、私が境界線を踏み越えたのを確認すると、踵を返して暗くなった街の奥へ歩いて行った。
雲は広がって夜空を覆い、月も光をわずかにのぞかせるばかりでしかない。店内にはすっかり影が落ちて、カウンター奥には静かで寂しい世界があった。部屋の一角を占めていた影のテリトリーはこれまでの悲哀を思い出すにつれて、じりじりと私の足元まで侵食してきていた。
あの後も何度かソルにメッセージを送ったが、返事は来ていない。電話をしても、決まって感情のない呼び出し音が耳に入ってくるだけだった。彼女は私の世界から忽然と消えてしまった。そう理解するのに一週間かかったが、悲しみは現在までまだ癒えていない。私に危害が及ぶのを防ぐために、彼女はどことも分からぬ場所へ行ってしまったのだ。ベッドの中で毎晩神様の元に膝をついて、どうかソルを返してくださいと祈りをささげているが、まだ聞き入れてくれてはいない。もし自分を守れるくらい強かったりすれば、また違った未来があったのだろうか?いや、その場合には、多分ソルとあんなに親しくなることはなかった。私が非力でひどい世間知らずで、おまけに他人の善性に期待するしかできない人間だから、ソルもあの晩私に声をかけたんだ。つまりあの悲劇も起こるべくして起こったものだ。これは避けようのない運命だったと自分に言い聞かせて、そう納得させなければならない。私にも自分の人生があるし、ほんの一部分のイベントだけで人生は悲しみに満ちたものだとするのは早計だろう。人は失恋を重ねて、良い顔と人格になっていくとある先輩は話してくれたのだ。そう何度も繰り返したが、一皮むいた心の中の乙女はいつまでも泣き止むことはなかった。
私はどうしてもソルを諦めることができなかった。たとえソルの言ったことが本当で──私を初めに都合の良い女としか見てなかったとしても、私はどうしようもなくソルの心の底に沈殿していた僅かな善性に期待したいと思うようになった。つまりゲヘナの人にも少なからず良心というものが存在していて、またソルのような人物が現れるかもしれないという拙い期待だ。彼女の心に期待して、そんな自分にも期待している。これもまた聖人病の厄介なところだった。
もちろんソル本人と再会できるのが一番だ。もしかしたらどこかでひょっこり再開できるかもしれない。そんな淡い期待を手放せず、こうしてゲヘナに時々出入りするようになったのだ。あの劇的な晩を何度も再演するみたいに、決まって夜に寮を抜け出すという真似をしでかしている。こういうのはそう何度も成功するものじゃないし、誰かは既に私の脱走癖に勘づいているかもしれない。それに次に出会うゲヘナの誰かが、善の心を持ち合わせているとも限らない。危ないという自覚はあるし、客観的に見てなんて馬鹿なことをしているのだろうと思う。もし最初の晩に出会ったのがソルじゃなければ、私はとっくにひどい目に遭わされていたかもしれないんだぞ!そう頭で言い聞かせても、聖人病を患った以上は性善説に期待してしまうのだ。こんなことならいっそ、一度ひどく痛い目に遭うしかないのかもしれない。それが薬になって、やめることができればもう幻影を追うような真似を繰り返さなくて済む。それならいい!ただしそっと、修復不可な傷を負わない程度で済ませてほしい。できれば口頭で厳しく言って、それで見逃してくれるお医者様との問診みたいならなお良い。
ところで果たして今夜の相手にそれが期待できるだろうか?時刻は午後の十一時をまわった。寮の消灯時刻ならとっくに過ぎている。もしかしたら今頃に私がいないことがばれて、必死の捜索が始まってしまうだろうか?それは考えられない。あれにはまったく手の込んだ仕事をしてきたし、ちょっとやそっとじゃバレることはない。つまり毛布を使って人間の格好みたいな替え玉を作り、枕の辺りに髪を被せてやらなきゃいけないのだ。最初はどのようにやるか迷ったがシーツを顔の辺りまでかけて、拾った発色の良いススキが少しだけ出るように細工をした。これまでもバレたことはないし、おそらくこのまま戻らなくても朝になって皆が起き出すまでは大丈夫だ。
いつまでもこんなことを続けるつもりはない。だがまだ当分はやめられると思えない。学園など関係なく善人はいるはずだし、再び彼女か──もしくは彼女に近い高潔な精神の持ち主が現れるかもしれない。そしてそれが今夜現れてくれることを祈りながら、私は再びお茶に口をつけ始めた。
扉が開け放たれる音がしたのは、その時だった。
心臓が跳ね上がるような衝撃で、思わず体がすくんでしまった。反射的に扉へ目を向けると、古い扉が開け放たれたところには黒いチェスターコートを羽織った人物が立っていた。黒いテンガロン帽を被り、その下から黒髪の束が何本も飛び出している。暗いので顔は良く見えず、黒色の布で作ったてるてる坊主みたいな風貌だった。「ユリさん、で会ってるかな?」低い声が丁寧に聞いてきた。
「そうですけど……」
「そうか、そうか。こんな時間によく来てくれた。私がヘキラだ」
そう言うと、女は唾をくいと上げた。気味悪いくらい色白の肌に黒い爬虫類のような目が二つついていた。先が尖った形の耳がぼさぼさの髪の間から顔を出している。嫌に背が高く、痩身の人物だった。肩パッドの形がコートの上からでもしっかり浮き出ており、ネクタイはつけずに黒いシングルのスーツを着ていた。黒い手袋に黒いブーツ。一目見ただけで、私はこの場から逃げ出したいくらいの不安に襲われてしまった。
ヘキラと名乗った彼女は部屋をざっと見回して、それからこちらへ近づいてくる。品定めでもするように、じろじろと角度を変えて私の容姿を子細に観察していた。幸い学園の制服ではなかったので、私はトリニティの出身だとばれないように振舞おうと決心した。見た目で判断してはいけないが、できることなら本当の私に関するような情報は一切与えずに済ませたいと思うようになっていた。荒事になれば、私に勝ち目はまったくない。とにかく穏便に、そしてなるべく早くこの場を去るのだ。そのためにはソルやこれまでのゲヘナ生を思い出して、彼女たちのようになりきって一筋縄ではいかないように見せなければならない。
ヘキラはにやりと笑った。「今日はついてるな。ちょっとしたカモだ」
目の前の私に向かって、遠慮もせずに言ってのけた。だから私も声を張って、なるべく恐怖を見せないようにした。「いきなり何なの?どういうこと?何を考えたか知らないけど、私に手を出そうなんて思わない方が良いわ。じゃないと明日の朝には、あなたはひどい目を見ることになるわよ」
「明日?そんな先の話をしてもしょうがない。お前が心配すべきなのは今日、この後のことだよ」
せせら笑いながら、彼女は私が座るボックス席の向かいに腰を下ろした。両手を机の下に置く。私は負けじと返した。「私もゲヘナの人間よ。たぶん、あなたもそうでしょ?ならお互いに芝居はなしにして、早いところ目的だけ済ませましょ。こんな埃っぽいところにずっといることもないわ」
「ああ、言う通りだ。だがお嬢さん、早いところ済ませたいなら嘘はついちゃいけないな。いつもお祈りしてる神様が不道徳だと腹を立てるかもしれないし、私だって同じく感心しない。試しに私がどこから来たか話せば、少しは態度を改めてくれるかもな。私は強いんだ。ヴァルキューレって場所で長いこと幅を利かせていた。聞いたことはあるか?だから私に舐めた態度を取ったりしてはいけないな。さもなくば……」
だしぬけに耳も潰れんばかりの銃声が轟いた。至近距離で破裂音がして、私のすぐ右脇の背もたれから黄色いスポンジがぱっと飛び散る。肩首が自動的にすくみ、小さく驚きの声が漏れて心の中の私はすっかり委縮してしまった。机の下から火薬の臭いがする青い小さい煙が昇ってくる。ヘキラは緊張しきった私と反対に落ち着き払い、今しがたの爆音も意に介さない様子だった。気が付けば固く結んだ手が凍えるようにぶるぶる震えて納まらない。脚も震えてしまっていた。それから視線を机に落として、今も木の板一枚を挟んだ下でこちらのお腹に狙いをつけているだろう凶器を想像した。今の分かりやすい脅しの後で、あいつは次にどこを狙ってくるだろう?左か、それとも足の間か、もしくは私を?トリガーに指はかかっているだろうか?おそらくそうだろう。こんな近距離だろうと、あいつは躊躇なく発砲する。軽い脅しのつもりか分からないが、私には充分すぎる効果があった。心の中の私はすっかりべそをかいて、もうまともに顔を上げる勇気も抜け落ちてしまった。先ほどまでの薄っぺらい虚勢の仮面もぼろぼろと音をたてて崩れていく。
こちらがすっかり青ざめたのを確認して、向かいに座るヘキラは満足そうに笑った。「おいおい、随分可愛らしい反応をしてくれるな!ちょっとばかし驚かせすぎたか?すまないなお嬢さん、だが悪いのは変に強がったそっちなんだぞ。あんまり自分の立場が分からないようなら、次はそのきれいな肌に痣を作ることになるだろうな。なに、キヴォトス人には神秘があるから、心配しなくても死にはしないさ」そして冷静な声に戻る。「さあお嬢さん、無事にお家に帰りたければ大人しくすることだな。助けを呼んだり、嘘や変に抵抗なんてしたら、その分この後の展開が辛いものになるだけだぞ。ようし、始めようか!まずはボディチェックからだ。大人しく立ちなよ、まだ悪くはしないからな」
私は言われるままに席を離れて、通路に立ち上がるとへキラを見た。席から腰を上げて、こちらを見下ろす。立って並ぶと彼女は思っていたよりも図体が大きく、黒い大きな影に一点だけ銀色の煌めきがあった。銃身を切り詰めたソードオフショットガンには二本のバレルが眼鏡のように並び、私を静かに睨みつけている。トリガーに指はかかったまま、いつでもこいつをぶっ放せるんだぞと言いたげだった。
私が恐ろしい長物から目を離せないでいると、「おい、こういう時にどうするかお前の仲間は教えてくれなかったのか?ぐずぐずしてないで、両手を挙げたらどうだ」焦ったそうに銃口で腕を突いてきた。慌てて両手をだらしなく挙げる。皮膚の固い手があちこちを乱暴にまさぐり持ち物を丹念に確認する間も、私の頭は絶えず逃走の計画を巡らせていた。トリニティとの境界線さえ越えてしまえば、向こうに私を追跡する手段はなくなる。それが最終的なゴールだ。問題はどうやってニキロメートルも離れた境界線まで無事に辿り着くかにある。走って?問題外にも思えるが、今はそれ以外の方法が見つからない。こんな日に限って革のローファーを履いてきてしまったことを激しく後悔した。ひどい靴擦れ痕が残るだろう。しばらくは歩くのも苦痛になるかもしれないが、目の前の恐怖の対象に比べれば何でもないと考えるようになっていた。
骨が薄ら浮き出た手が内ポケットの固いものに触れると、それの正体に気づいたへキラは手を忍び込ませてベレッタを抜き取った。銃を観察して、感心したようにひゅうと口を鳴らす。「丁寧に整備しているな。動きも悪くなさそうだ。だが威力は婦人用だし、それでもお嬢さんの手に余るだろ」
「軽くて使いやすいから持ってるだけ」ボディチェックの時間が延びれば、そのぶんだけ先ほどの脅しの緊張がほぐれてきて、幾分か冷静さを取り戻すと私は素っ気なく返事をした。
へキラは私から奪った拳銃を片手で弄び、それから腰の革ベルトに差し込んだ。もう武器がないことを確認して、それからゆったりと席に戻ると顎で座るよう指図する。私は手を落とさずゆっくりとした動きで席についた。相変わらず向こうの銃はこちらから目を離さないままだ。
「これで安心して話せるな。それじゃいくつか質問をするから、お嬢さんはそれに正直に答えるんだ。変に誤魔化したりすれば、この指が我慢ならなくなるかもしれないからな」銃口で軽く円を描く。「まず二択だ。お嬢さんはトリニティから来たんだな?間違いないな?」顔に落ちる影の奥で、二つの目玉がぎらりと光る。
「ええ、間違いないわ」
「連れはいないな?もっとも今まで出てこないから大丈夫だろうが」
無言で頷いた。根っこの方でどうにか扉へ逃げ込むタイミングを伺いながら、上部では素直に返事をすることにした。こいつの狙いはまだ掴めないが、とにかく欲しいものはさっさと与えて機嫌を損ねないようにするのが最善の策だ。だが与える情報の線引きだけはしっかりしなければならない!特に個人が特定できるようなものとか、無事に逃げおおせてもこれまでの関係や立場を壊せるだけの糸口まで与えてはいけない。
「年は?」
「十五よ」
「そりゃいい、若いやつは好きだ。抵抗する術を持っていないからな」にべもなく言う。それから左手をゆっくり動かして、卓上にずんぐりとしたハードルのようなものを置く。「これまでにこういう奴を触ったことはあるか?トリニティの授業で習ったことは?」
緩やかな弧を描いて歪曲した設置型の機械で、小さい薄型テレビによく似ている。四本の足で支え、てっぺんには先の丸い銀色のアンテナがついている。一目見て、すぐにそれが指向性地雷だと分かった。幸いセンサーは起動していない。
短く返す。「見た事はあるわ。それがどうしたの?」
「使い方は分かるな?」
キヴォトスは超銃器社会。多数の生徒を抱えるトリニティ総合学園の教育課程で扱われない訳がない。だが私はとっさに、ちょっと頭のない女みたいなふりをすることに決めた。まるで骨董品を見つめる子どもみたいにじろじろ見回す。「いや……」へキラの顔に陰りが生じた。そんな訳がない、前屈姿勢で垂れた黒髪の隙間から、じろりと疑いの目がこちらを見上げた。「ごめんなさい、本当に分からないの。教科書でもまだやってないから」
必死にそれっぽい言い訳を並べて、相手の出方を伺う。ちょっと間があってから、卓上の地雷が退けられた。「手間のかかるやつだ。大したことはないだろう。まず……」カウンター椅子の近くの床にしゃがみ、自立する地雷の背面に視線を落とす。私も向こうと同時に腰を上げた。胸が高鳴った。散弾銃が手を離れて、床に置かれた。
目線の先に出口となる扉が映る。へキラはぶつぶつと喋っていたが、何も耳に入らなかった。丸くつばがついた帽子と丸まったコート姿。一歩踏み込んだ先の床に散弾銃。逃げるのは今だ!私はぱっと足を出すと、散弾銃を蹴飛ばしてから扉の方へ走り出した。
立て続けに三発の銃声が響き、三度衝撃が襲った。把手に触ろうとした瞬間、背中と肩に一発ずつ固いものがめり込んだ。小さいぶん一点集中の威力は凄まじく、背面がたちまち強張り肺から空気が漏れる。手に金属製の把手の冷たい感触があったが、激痛で痺れてすぐにひねることができなかった。
猛烈に怖い予感がぴりっと走る。最後の一撃は後頭部を寸分の狂いもなく捉えた。私は無様にも扉に額を強く打ち、気も激しく動転してしまった。重心がよれて、足元もおぼつかず、終いには扉の目前でへたり込んでしまった。
ヘキラの左手に握られたベレッタの銃口が煙を立ち昇らせ、足元には二つの薬莢が転がっていた。三つ目がカチンと落下音を立てると、革靴の足音が近づいてくる。とても顔を上げる気になどなれない。きっと相当恐ろしい表情だろう。脱走を図った愚か者がこれからどんな罰を受けるかは明らかだ。じわじわと恐怖の対象が迫り来るのに、私は白黒のリバーシブル柄タイルの欠けた一点をじっと見つめるしかできなかった。心の中にあるシェルター室みたく頑丈な部屋に隠れるようなものだ。ある一点にのみ集中して、なるべく他の嫌な想像を頭から追い出そうとする。現実逃避に違いないが、そう認めたくはなかった。どこからそんな気力が湧いてくるのか分からないが──おそらくトリニティ生まれに共通する一種のプライドのようなものかもしれない──目先の地獄よりもはるかにちっぽけな事に対して、雫ほどの反抗精神を絶えず絞り出してしまう。自分でも嫌になる癖だった。
靴音はほとんど真隣まで来て止まる。怒っているに違いない。縮こまる私を見下ろしている気配は恐竜のように大きく、今にも押しつぶされてしまいそうだ。大人しく従っていればまだ良かったものを、どうしてこんな勝ち目のない賭けをしてしまったのだろう?なぜこんなやつから本気で逃げられると信じて疑わなかったのだろう?視界の端に黒く尖った爪先が映る。「人の話を最後まで聞かないのはいただけないな。これからお前をどうするかは私次第だ。行き先とその道のりを最悪なものにしても良いんだぞ」
「ごめんなさい。悪かったから、撃たないで」慌てて四つんばいになり、上を見上げた。顔の端で月明かりを受けて、でこぼこの三日月と影みたいになっている。「そうだな、こんな近くじゃ弾がもったいない」
影の中で唇が割れ、剥き出しになった歯列がちらりとのぞいた。右足を素早く跳ね上げ、固い先端を脇腹に鋭くめり込ませてきた。銃撃より深くまで威力が貫き、口から勝手に空気が吐き出る。たちまち体から出尽くすと、代わりに短くうめき声をあげた。軽い体はすぐ壁まで達し、激しくぶつかると床にくずれる。衝突の痛みはなかった。それを飛び越える苦痛の荒波が押し寄せ、どれが何の痛みなのか分からなくしている。目から自然に涙が溢れてきた。臓物が玉突き事故を起こして麻痺し、しばらく満足に呼吸ができなくなった。
ヘキラは床で喘ぐような息をする私を冷ややかに見下ろしていた。「まだ時間ならたっぷり残ってる。一仕事の前に、お前を全身余すところなく可愛がって、そのままじゃお友達の前に出られないようにしてやる」
混乱の最中であっても、ある単語が私の注意を喚起した。お友達、確かにそう言った。私は別の意味の恐怖を覚えた。聖人病患者にとって──これは全人類が共通すると信じたかった──他人からの印象や評価は金貨の山にも等しく重要に思えたからだ。他人から良く思われたり、高い評価を得ることが人生の至上の喜びのように思えてしまって、言い換えれば他人から嫌われたり、低く評価されることへの免疫が不完全なのだ。生傷のついた顔や体なんか見られてしまえば、たちまち不審に見られるに違いない。私が夜な夜な抜け出してゲヘナに来ていた事実まで明るみに出れば、周囲からの視線がどうなるか考えただけでもたまらなく怖い。それだけは耐えられなかった。
嘔吐感を堪えながら、なんとか口にした。「それだけは、やめて」それしか言えなかった。こんな仕打ちを受けてもなお、今の我が身より世間体を優先して考えてしまう自分がどうしようもない愚か者のように映る。
無理やり引き立たされると、置かれたままの地雷の足元へ投げ出された。まだ腹部の苦痛が取れず、自力で立ち上がれない。うつぶせから起き上がろうとしていると、今度は後頭部を踏みつけられた。固い靴底が繰り返し捩じられ、頭が削り取られるような痛みに襲われる。加えて捩じるたびヘキラに体重をかけられて、頭蓋骨など易々と割られてしまいそうな感覚に陥る。ヘキラは明らかに暴行を楽しんでいた。こいつはヴァルキューレ──連邦矯正局にいたと話した。どうあがいてもまともな感性の持ち主ではない。こんな奴と鉢合わせした自分の不運を呪うしかなかった。
そうやって数分もてあそばれ──私には永遠に続くように感じられたが、実際は一分もなかったのかもしれない──ようやく靴底が離れた時には、頭骨の中まで痛みが到達していた。特に後頭部や頬はずきずきするだけでなく、擦り切れてひりひりとした痛みが加わっている。
ヘキラは満足そうだった。「良い声で鳴いてくれるじゃないか。傷は残るだろうが急所は避けたから、仕事をするには問題ないさ。お前にはこれから私のために素晴らしい一役を請け負ってもらう」
「……なにをやらせるつもりなの」
「それはこれから分かることさ。なあ、夜はまだまだ長いんだぜ?あまり私の機嫌を損ねても不利になるのはそっちなんだ。お前のためにさんざ忠告してやってるんだから、そっちも少しは素直に聞き入れてくれなきゃ公平じゃないよな。平和ボケした頭じゃ分からないってなら、裏側も気の済むまでぶっ叩くぞ」
骨ばった手が私の襟元に伸びると、鋭い目つきで脅かしてきた。反射的に私は目をそらした。どうしてこいつはすぐ暴力に訴えるのだろう?これまでの環境がそうさせてしまったのだろうか。ゲヘナ学園の環境──自由と混沌を謳うこの世界に、本当にまともな人などいないのかもしれない。
痛みに呻くたび、心のどこかでソルに助けを求めてしまっている自分がいた。だが藁にも縋りつくようだった思いが揺らいでいる。ソルだって、最初は欺いて餌食にする肚づもりだった。周りの不良たちもそうだった。性善説がここでも通用するなど、私の思い上がりに過ぎなかったのかもしれない。これまでの支えだったはずの、昔のほろ苦い愛の遍歴までも信じられなくなりつつある。価値観を強制的に上書きしようとする力に迫られ、しかも自分にどうにもできないのがこの上なく歯がゆい。他人を信じなくなれば、私にあと何が残っているというのだろう。
私は半ばやけを起こした。「悪かったわ。でも、今だって公平とは言えないんじゃないの。どうしてそんな風に脅してくるの。どうして私があなたにここまでひどいことをされなきゃいけないの。私、もうこれ以上はいや。お金ならあげるから、私を逃がしてくれない?あなたの事は誰にも言わないと誓う。本当に誓うから……ねえ、お願いだから」
ヘキラは少し肩をすくめたが、優しさは全くなかった。「なんだ、お金か?お嬢さん、それはとんだ勘違いってやつさ。トリニティでは通用するかもしれないが、ゲヘナで金が必要になることなんてないね。欲しいものがあれば、力ずくで奪うのがゲヘナの流儀なんだよ」溺れそうな小動物を憐れみ見るようにせせら笑った。
とうとう万策尽きてしまうと私はすっかり打ちひしがれて、次の瞬間には猛烈な感情がわき上がってきた。これまでの人生で信じてきたものが音を立てて崩れていき、僅かばかりの思い出も瓦礫の下に埋まってしまった。信じられなくなろうとも、なかったことにはしたくなかった。痛みでのぼせあがった頭では冷静な判断ができず、気が付けば私はヘキラの頬をひっぱたく寸前で腕を掴まれてしまった。最後の抵抗は虚しい結果で終わった。手首を強く掴まれ、軋むほどの握力が加えられるとすぐに、馬鹿なことをしてしまったと後悔した。ヘキラはにやりと歪めた顔を変えず、むしろ反骨心をみせたことでまだ餌食にする値打ちがあると思わせてしまった。
これまでの人生の常識が何も通用しない相手に、私の心は葦の茎みたいにぽっきりと折れてしまった。真の恐怖からの涙がこぼれて、顎の下を垂れる。とっさに謝るべきか迷ったが、いずれにせよ言葉が喉につっかえてただ怯えているだけだった。
やめて、の三文字を辛うじて絞り出しかけた。だが右手がシャツの襟から離れるや言いかけた顔面を横から殴りつけた。しかも一発だけじゃなく、あとからあとから飛んでくる。平手、握り拳。何らかの高ぶる欲を満足させるため、ひたすら道具のようになぶり続けた。初めは腕で覆ったり、じたばたしたり、足で体をどけようとしたが、体格と力の差には通じなかった。一定の間隔で頬や体に拳が飛んでくる。そのうちただ苦痛に呻くしかなくなった。帽子の下から冷ややかな目つきがのぞく。終わりの見えない痛みへ溺れていく。
段々と声を上げる力もなくなり、押し出された空気が声帯を震えさせるだけになる。目の前に紅い靄がかかってくると、ようやく殴打が止まった。両手首がようやく自由になり、だらしなく脇へ垂らす。ヘキラは外科手術中の難しい患者を見下ろすようにしていたが、悲鳴が気に入ったのか口元を歪めていた。私はなんとか体をよじって、顔を横に向けた。浅い呼吸で必死に息をしていた。半開きのまま動かない口から唾液が伝い落ちる。血の味がした。みっともない姿だという自覚はあったが、唾を飲み込む気力もなかった。
呼吸がしゃくりあげるようになり、ようやく自分がべそをかいていることを自覚した。体中の神経が鈍麻して、痛さより熱さを感じる。癪に障ればまたいたぶられると思って止めようとしたが、涙も何一つ止められない。勝手にあふれ出て、拭おうにも指一本動かす気になれない。トリニティに帰るだとか、外聞だとかもうどうでもよくなって、このまま朝まで床に突っ伏して時間が慰めてくれるに任せたかった。もちろんヘキラが見逃してくれるはずがないが、それでも一秒でも長くこうしていたかった。だから実際以上に痛むように見せかけて、ヘキラの追撃の手が少しでも遅くなるのを願ってばかりいた。
それから五分ぐらいの短い時間だけ、ヘキラは幸運にも私を放っていてくれた。もっともずっと監視の目は向けていたが、席に座って散弾銃に弾を込め直して、時々視線をこちらに移すを繰り返していた。私は私で五分では痛みも熱も引くわけではなく、それでも一人で泣きじゃくり続けるうちに少しだけ生きたいという気持ちが湧いてきた。暗いあんず色の天井を見上げながら、まだ命があるというだけのことに心の中で深く感謝した。まだ危機が去ったわけではなく──むしろここからが本番かもしれないが、痛みの放物線でも一番高い地点を越えたことで、ゆっくりと正常な感覚を取り戻しつつある体にもほんの一さじ程度だが慰められた。手を動かす力が出てくると、袖で目元を拭う。金髪の髪は血混じりの唾液でべしゃべしゃになってしまっていた。顔や服の中も痣だらけだろう。だが本能のまま泣いたことで、心は妙に軽くなっていた。一時だけだが、周りの事など頭からなくなって自分のために涙を流せた。初めて自分の体を大切に思う事ができた。これでこの状況から日常へ無事に帰れたら、私はこの出来事を感情までも生涯忘れないだろう。それだけでなく、毎晩ベッドの上で神様に感謝の言葉を捧げても良い。(神様ありがとう!もうこんな馬鹿なことはしません)
服の袖で顔を拭うと、呼吸も落ち着いてきた。それを見たヘキラは腰を上げて、また私の側に片膝立ちで見下ろす。手には散弾銃を構えていた。「これでもう抵抗する度胸もなくなったろう。あまりに反応が良いから、こっちも少し興が乗ってやりすぎちまったかもしれないがな。しかし、どうだ。ゲヘナの奴らは強情だし、抵抗はするし、言葉だって汚らしい。その点、お嬢さんは私の理想にぴったりだ。今晩限りの出会いなのが惜しいくらいにな。どうだ、私と一緒に来ないか?そして今見たく鳴き声を聞かせてくれれば、それこそ私の理想に叶うんだがな」
私が冗談じゃないと言いたげな顔をすると、向こうはすぐに汲み取った。「まあ、いいさ。トリニティの娘なんていつまでもゲヘナで隠し通せるわけじゃないからな。今晩だけでも楽しませてもらおうか」そう言うと散弾銃の銃口がゆっくりと近づいてきた。また、始まる。たまらず目をつむると、ヘキラの左手が再び首筋に伸びた。
ちょうどその時、扉が乱暴に開け放たれ、私もヘキラも思わずびくっとしてしまった。
スナックの扉にはヘキラが鍵をかけていたはずだが、闖入者は強引にも鍵を破壊して押し入ってきた。警察やもしくはそれに近い人物を期待したが、首をもたげて姿を確認するとはっとした。また似たような人だった!濃い紫色の瞳は凶暴な色をたたえ、刺々しい散弾銃を携えている。それにシングル衿付き型のベストにズボンという映画のマフィアの制服のようなものを着ていた。だが少女の背丈は私より五センチメートルほど高いくらいで、ややあどけなさの残る顔立ちだった。たぶん年齢も私とそう変わらないだろう。紫の髪は後ろで一纏めにしている。
少女は銃口をヘキラに向けていたが、こちらの様子を見て少し戸惑っていた。だがすぐに建物の外から、割れ気味の声が鋭く響く。「便利屋68よ!依頼であなたを捕まえにきたわ、蛭川ヘキラ!」
著しく気分が高揚する。声の主が誰かも分からないが、すでに私はその人物に希望を抱いていた。暗く混沌とした世界に突然、救いの糸が垂れ下がったのだ。私は迷わず糸を掴む方に舵を切った。なんとしても助かってやろう!「お願い、助けてください!私、この人に……」紫髪の少女に助けを求めるが、すかさずヘキラは左腕を首に絡ませ、私を盾のようにして引き立たせた。
少女もはっとしていた。ヘキラの右手がぱっと上がり、耳元で鼓膜が割れんばかりの銃声。驚き叫んでしまった私と反対に、少女は冷静にボックス席の影に隠れてやり過ごす。再び姿を見せるが、加害範囲の広い散弾銃では狙いを定めきれず攻撃を躊躇してしまっている。その隙にヘキラは片手でリロードを済ませ、再度銃火を閃かせた。今度はカウンターに身を隠すが、そのうちにヘキラは私を引きずりながら店の奥へ後退していく。
私はなんとか活路を開こうとして、無我夢中で手足をばたつかせた。だが大型の獣を相手にしているみたいにまるで効果がない。ヘキラが紫髪の少女をせせら笑った。「どうした、これじゃ撃てないよな?まさか卑怯だとは言うまい、我々に卑怯もラッキョウもありゃしないからな」
自分が足手まといになっている事実に辛くなり、やけになって暴れた。
正面へ躍り出た紫髪の少女が散弾銃を構えて叫んだ。「目を閉じてください!」反射的に目をつむる瞬間、少女の銃が仰角を向くのが見えた。重い銃声が響くと、天井面が割れて破片が勢いよく降ってくる。細かいものが私の頭上にも当たった。だがほとんどは天井にぶつかりそうなほど長身のヘキラを容赦なく襲い、拘束の手が少し緩んだ。
少女は迷わず突っ込んでくる。ヘキラは悪態をつきつつ、自分に向かって来る姿を確認するや、人質だったはずの私を突き飛ばした。危うく正面からぶつかるところだったが、少女が急停止して私の体を抱きとめる。その瞬間も重心は少しもぶれなかった。少女の腕や胴は細かったが、かなり筋肉質で固い。地中深くに根を張った巨木に張り付いたような感じだった。華奢な見た目からは想像もできない力を、彼女は内に秘めている。とても頼もしく、心強かった。
頭上で少女が息を飲むと、私を庇うようにヘキラに背を向ける。次の瞬間、ヘキラの銃が咆えた。少女は片膝立ちになり、私を抱いたまま背中で弾を受け続けた。着弾の衝撃が体を抜けて、密着している私にまで伝わってくる。ヘキラは二、三秒置きに何度も執拗に銃撃を続けた。少女の肩の辺りから向こうをのぞいた私は、息つく間もない銃撃の真意を見た。
ヘキラは片手で繰り返し銃を操りながら、空いた方の手で卓上の地雷を操作していた。背面をぱちぱちやって、ダイヤルのような突起を捩じる。それから地雷をボックス席の机下に忍び込ませようとした。
私が驚いている間に、紫髪の少女が間隙を縫って振り向きざまに一発やり返した。血も凍るような唸りをあげ、ヘキラはもんどりうって転がる。だが銃は手放さなかった。地雷を起動したからか、四つん這いになりながら奥へ逃走を始めると、上体を起こしてすぐに加速した。角を曲がれば、すぐにでも見失う。
少女が再び発砲した。背面に命中したが、ヘキラは歩を緩めない。私は慌てて机の下から地雷を引き抜いた。ずっしりと重量がある。少女は地雷を受け取るや右手で持ち、頭の近くに引き寄せる。砲丸投げのグライド投法のような要領で、体を捻り押し出すように投げ出した。
地雷は角を曲がろうとブレーキをかけたヘキラの頭に命中した。ガンと音を立てて、帽子が飛ぶとぼさぼさの黒髪が見えた。すぐによろめき倒れる。
失礼します、と短い断りが耳に入った瞬間、少女はいきなり私の膝に腕を滑らせて軽々と横向きに持ち上げた。私は何かを言おうにも言えず、ただ流されるまま彼女の逞しい体にしがみつく。少女は一飛びで机に脚を掛け、さらに薄い板が割れんばかりに蹴りだすと窓から飛び出した。直後に恐ろしい爆発音が響き、熱風が二人を吹きつける。少女の背後から火の手が膨れ上がり、一瞬だけ真昼のように辺りが照らされた。それからすぐに壁面が崩れ始める。騒がしくぐしゃぐしゃと音を上げて、二階建ての建造物はあっという間に半分が吹き飛んでしまった。
私たちは外の往来へ着地した。彼女に顔色を近くで確認されてから、そっと地面に降ろしてもらう。ふらつくと、さっと抱き留めてくれた。「だ、大丈夫ですか?」心配そうな表情からは既に凶暴性は鳴りを潜めて、年相応のあどけない少女の顔になっていた。
先ほどまで散々泣き腫らしたはずだが、今度は安堵の涙が出そうになった。だが堪えた。代わりにこくりと首を縦に動かす。では、私は助かったんだ!
半壊した建造物は立体断面図のようなたたずまいになっていた。ゴーゴーと火の手があがり、あちこちでオレンジ色の葉みたいな火が揺れている。先ほどまでいた二階のスナックはカウンター裏の棚まで破壊が到達し、床は出入口付近に僅かに残るだけになっている。ヘキラの姿はどこにも見当たらなかった。火の海の中で、あの黒帽子が燃え上がっているのを見つけた。本当ならきちんと倒せたかどうか確認すべきだろうが、もうあの悪魔のような女は倒された、と考えるようになっていた。この人の側にいれば問題ないとも信じられた。
彼女の肩の辺りに手を沿える。ベストの背面が破れていた。別の靴音が近づくと、私はそちらを振り向いた。ダブル二つボタンのスーツに短いパンツ姿の少女が近づいてくる。屈託のない笑みを浮かべる白髪の彼女は、私を窮地から救い出してくれた人とお揃いのネクタイを締めていた。「お疲れハルカちゃん。一人で大丈夫だった?」
ハルカと呼ばれた彼女が返す。「は、はい、ムツキ室長。ご命令通りにぶっ飛ばしてきました」
「ずいぶん派手にやったねー。あれ、その子……」顔をのぞきこんだムツキは驚きの表情を浮かべた。「ありゃ、どうしたの?かわいい顔なのに」
やっぱり顔は痣ができているらしい。鏡を見るのが嫌に思えたが、何かが違えば二度と鏡を見る事すらできなくなるところだった。
「ありがとうございます」うわ言みたいに口をついて出た。「あなたたちが来てくれて、本当に助かりました。もう駄目かと思って」
「うんうん、何か訳ありみたいだね。にしてもハルカちゃんが飛び出したとこ、映画みたいでかっこよかったよ!」
そこへ二人の人物がさらに合流してきた。前を行くのは立派な二本の角を生やした女性。スタイルの良さを強調する赤いドレス姿は大人びて、とても生徒とは思えない。桃色の髪をなびかせながら歩く姿は優雅と言わざるを得なかった。角があるからにはゲヘナ生に違いないが、立ち姿や所作はトリニティでも十分通用するだけのものだった。
もう一人も角を生やした女性だった。前に立つ彼女と同じく、白黒の髪に似合うドレスで着飾っている。独特の赤い瞳や、すっきり通った鼻筋から、大人の艶やかな雰囲気を纏ってものにしていた。手には拳銃を持っている。銃口にはサイレンサーも装着していた。
拳銃を持った方の女性が聞いた。「社長、どうする?ヴァルキューレに連絡して、来てもらうべきだと思うけど」
「そうするべきね」リーダー格らしきもう一人の女性が頷いた。「さっさと引き渡して、皆で美味しいものでも食べましょう。ところであなたは見たところトリニティ生みたいね。こんな時間にどうしたの?」
午前零時を回っていた。天幕のようにかかっていた雲は晴れて、月が淡く光っている。爆発と火災の現場から離れて、深夜でも営業しているコンビニエンスストアに落ち着いていた。
この場所に馴染めていない自覚はあった。お嬢様学校という校風からも使用を控える雰囲気があったし、ましてや深夜に入るなどまずないことだからだ。私はあの悪夢のような現場から救い出され、駐車場の一角に座って夜風に当たっている。隣にはずっとハルカさんがついてくれていた。
ヴァルキューレに連絡を入れた後、便利屋68と名乗る彼女たちはここへたどり着くまでに仕事の話を聞かせてくれた。ゲヘナ学園の陸八魔アルさんが社長を務める企業で、裏社会でも指折りのアウトロー(私はそれまでこういった人は映画でしか見た事がなかった)らしい。そして今晩引き受けた仕事というのが、連邦矯正局を脱走してきたヘキラの捕獲だった。
蛭川ヘキラは暴力に快楽を感じるという異常人格の持ち主で、これまでも傷害沙汰をたびたび引き起こしていた。見かねたヴァルキューレ警察学校が彼女を以前に逮捕して矯正局送りとなるが、どうやったのか分からないが抜け出してしまったらしい。ヴァルキューレは彼女に懸賞金をかけていて、便利屋68はその金欲しさに追っていた。そして遂に潜伏地点を特定した。あるダンスホールの会場で、ヘキラはダンサーの一人とすり替わって身を隠していた。スナックに現れたヘキラや彼女たちがドレスコードだった理由はこれだった。だがヘキラは追手の気配に敏感で、わずかに監視が外れた隙をついて逃げ出した。彼女たちも追跡を開始して、先ほどのスナックに逃げ込んだのを見つけてから襲撃にかかった。
これまでヘキラが捕まらなかったのにも理由があった。それがあの地雷に関係するらしく、私のような人質をたびたび引っかけては地雷を掴ませ、追手が到達する頃合いを見計らって身代わりに爆破させていた。追手もろとも捜査を攪乱する非道なやり口で、危うく私もその餌食にされてしまうところだったのだ。
こうして二人で並んでいる間、ハルカさんはずっと静かだった。スナックで銃を手にしていた姿とまるで別人だ。一度に色々なことを経験してしまった私を気遣ってくれてるが、あれこれ言葉をかけたりはしてこない。程よい距離感を作ってくれるのが有難く思えた。
カヨコさんが氷の入った袋を買って出てきた。渡してくれたのを受け取り、頬に当てる。自分の顔がずっと気がかりだった。
「ひどい目にあったね」カヨコさんは遠くでサイレンが唸っている方を眺める。「私たちがホールで取り逃がしたばかりに」
「いえ、いいんです」知らないところで何があったかは問題じゃなかった。「危険も顧みずにゲヘナへ来た罰が当たっただけです」
「ヘキラは特に最悪なやつだったけど、トリニティとゲヘナが互いに良い印象を持ってないのもある。今後はこんな時間に一人での外出は控えた方がいいよ」
「わかってます」今では本当によく分かっていた。彼女の言うことも的を射ている。ゲヘナの人たちは表に見せないだけで、皆が心のどこかに獣みたいな部分を飼っているのだ。目の前にいるカヨコさんも、隣にいるハルカさんだって同じことだ。ソルだってそうだったのだろう。ただ素性を上手く隠しているに過ぎない。
だが一方で救われたような気もする。彼女たち──ゲヘナの人間でも野生の獣の部分以外に優しさもまた持っているのが分かったからだ。ヘキラに散々もてあそばれ、信じることができなくなりかけた過去は再び輝きを持ち始めている。ソルがくれた思い出と信念は彼女たちが守ってくれた。
涼しい夜風が吹くと、生傷がひりひりと染みる。ハルカさんが氷の袋を側頭部に当てた。ヘキラに踏みつけられた場所だった。確かにそこが冷やされると、いくらかましになる。
「ありがとう」袋を自分の手で押さえる。いえ、と短く言うと、ハルカさんは視線をもうそらしていた。さりげない優しさが心地よい。
自動ドアが再び開いて、アルさんとムツキさんが出てきた。ペットボトルの飲み物をそれぞれ手渡し、私にも一本を渡す。一口含んで、それからアルさんが言った。「なにはともあれ一件落着ね。あいつもまた矯正局送りになれば、少しはまともな感性を取り戻すわよ」遠慮がちにペットボトルを持つ私を見る。「ああ、お代なら気にしないでちょうだい。あいつの懸賞金が入るし、あなただけ放っても良い気持ちじゃないもの」
凄みのある笑みをのぞかせる。アウトローという名にふさわしい雰囲気を纏う彼女へ、いつしか隣のハルカさんが羨望の眼差しを向けていた。「さすがアル様です」
ハルカさんはここへ来るまでに、自分を平社員だと名乗っていた。企業という体裁上の役職かと思いきや、彼女は心から社長であるアルさんを尊崇して、役に立つためについているという。昔いじめられていたところ(私にはとても信じられなかった。だってこんなに強いのに!)アルさんに助けられて以来ずっと慕っていると語ってくれた。敬う対象を持ち、そのために尽くそうとする姿になんとなく親近感を覚えた。
ムツキさんがネクタイを少し緩める。「それじゃ夜も遅いし、迷い猫ちゃんも送ってあげるよ。境界線の辺りまで行けば大丈夫かな?」
「はい。あの、色々とありがとうございます」
ハルカさんが先に立ち、手を差し伸べる。私は迷わず取った。絹みたいな肌の感触。とても戦士とは思えない。何か優しいことを言ってくれるわけでもないが、私は無性に心臓が高鳴るのを感じた。
それまでに覚えのない感情だった。いや、一度だけ覚えがある。ソルとの別れの日に、手を取り夢中で走った後の感覚に似ていた。ソルの甘さと冷たい感覚、この二つを頼りにこれまで生きていた。だが今度のは違う性質のものだ。鉢に水を得た金魚のような生きている実感と、それから情熱的な力だった。
なぜ出会ってほんの一時間しかない彼女にこんな感情を抱けるのだろう?自分でも不思議だと思ったが、なんとなく分かった気がした。確かに彼女は逞しいし、スーツに包まれる引き締まった細身など魅力がある。素っ気ないところも、ひとたび戦闘になれば人が変わったような表情を見せるところなども明らかだ。だがそれ以外に、彼女はどこからともなく現れて、私を悪い竜の危険から救ってくれたおとぎ話の王子様みたいなものなのだ。彼女が来てくれなければ、私はもっと悲惨な目に遭っていたのは間違いない。彼女たちが懸賞金を狙わなければ、こうして出会うこともなかったはずだ。だが彼女はお金など抜きして、私を助け出してくれた。人質に取られた私を巻き込まないようにして、我が身を犠牲にして戦ってくれたのだ。どうして好意の一つも持てない訳があるだろう。しかし別れは近づいている。あの時──ソルと別離した晩みたいに、再び別れの時間が迫ってくる。別れたら最後、もう会うことはなくなってしまうかもしれない。
切なさが胸にこみ上げてくる。こうして手を繋ぐと感じる甘美な時間を求めて、私はまたゲヘナに来てしまうのだろうか。ひとたび花の蜜の味を覚えた虫が何度も同じ花畑と巣を往復するように、これまでの習慣を改善することはできないだろう。もっとひどくなるかもしれない。取り上げられたとびきり甘い味に狂わされ続ける。もちろんあれだけの仕打ちを受けたのだから明日や明後日ということはないが、痛みが引いて忘れてしまったらどうだろう?これまでソルに抱いていたような夢を、今度は彼女たちを対象として見てしまうかもしれない。
救ってもらった人物に特別な感情を抱くのはおかしいことではない。私も、そして彼女だって一緒だ。だがハルカさんにとっては、社長と呼ぶ人物こそ唯一の人物である。二人は固い信頼で結ばれており、繋がりはとても強固なものだ。入り込む余地などない。私がどれだけハルカさんを心の底から思っていたとしても、この熱情が実ることなど決してないのだ。だから手放すしかない。私は身を引いて、彼女たちの自由にさせるしかない。これからも、今日私に対してしたように、彼女たちは他の誰かに同じことをするだろう。誰かがまた私と同じような気持ちを抱くだろう。だがそういった人々の誰も、彼女たちの信頼の間に入り込むことはできないのだ。そして誰もハルカさんを手に入れることもできない。なぜなら彼女の眼中にあるのは社長だけだから。だから平気だった。それだけで良かった。
私はふと横を見た。ハルカさんはこちらに目もくれず、先だけを見ている。右手は常に私の左手を握ってくれていた。月の光が明るくなる。横顔の明暗がはっきり分かれて、髪は落ち着きのある紫と黒の二色に染まる。あまり見つめると変なやつだと思われるかもしれないが、さよならの前に彼女の一枚を心のカメラに収めておきたかった。彼女にもっと触れておきたくて、そっと握る手に指を絡ませる。目線は合わないが、そっと握り返してくれた。
明かりの灯る大通りはゲヘナとトリニティを一直線に結んでいる。気が付けば、境界線のそばまで来てしまっていた。
私には良い思い出のある場所ではなかった。ソルの何ともつかぬ顔や最後の一言ばかりが思い浮かぶ。だが悪いことばかりでもなかった。痛みを受けて、そして新しい思い出を作ることができた。
境界線の側で立ち止まると、先頭にいたアルさんが振り返った。こちらを見る。いよいよ来てしまったのだ。「さあ、気を付けて帰るのよ。見送りはここまでだわ」それを合図にハルカさんの手が緩んだ。名残惜しくて、私は一度握る手を強めようとしてしまったが、すぐに反省して手を離した。
ふとムツキさんがにやにやしながら、こちらを見ているのに気づいた。窮地を救われた女性がどんな感情を持つか、想像がついているらしい。ムツキさんの視線はハルカさんに向いた。ハルカさんはきょとんとして、いまいち笑みの意味を掴みかねているようだった。ハルカさんの視線がこちらに向く。道中であれだけ凝視していたのに、私は思わず目を背けてしまった。
ムツキさんはそれ以上茶化すようなことはせず、代わりに親切そうな目になった。「うーん、それじゃあさ、最後に個人的なお話をしてもいいかな?こうして会ったのも何かの縁だしね」クフフ、と楽しそうに笑う。
「はい、何でも聞かせてください」
ムツキさんは腕を後ろで組んだ。「今晩は本当にひどい目にあったかもしれないけど、それをあまり気に病んだり怖がっちゃ駄目だよ。そうちょくちょくあることじゃないし、ユリちゃんはひどい自動車事故に巻き込まれたようなものなんだよ。それも運悪く、ブラックマーケットだとか裏社会だとか、アルちゃんが好きそうな悪党同士の戦いにね」(後ろでアルさんが愕然としていた。「どうして私が出てくるのよ!」)「そして戦いに巻き込まれたお姫様を王子様が救い出す」ムツキさんは私の考えを的確に命中させてみせた。
「私の推理が間違ってたら悪いけど、たいていそういう経験をした人っていうのは、救い出してくれた人を英雄みたいに祭り上げたりしちゃうんだ。その人にもっと近づきたいとか、役に立ちたいなんて思ったりする。まあ、自然な成り行きだよね」ムツキさんはちらりとハルカさんを見た。そして私に視線を戻す。「別にそれを悪いとか言ったりはしないよ?映画なんかだと、最後は固く結ばれてハッピーエンド。どうしてそれが現実でもいけないか?」次々に当ててくる。心の全てを見透かされているようで、怖さと恥ずかしさで真っ赤になりそうだった。「ちょっと回りくどいかな?夜も遅いし、急いで結論に入ろうか。愉快な話じゃないかもしれないけど、これもいわゆるアフターケアってやつだよ。(便利屋68は事後保証サービスも充実しております)それにあなたがまた怖い目に遭わないための教訓でもあるんだよ」
表情こそ楽しげだが、話は至って真面目なものだった。彼女は一番内側を表出させない術に長けた人物に違いない。私にも分かりやすく嚙み砕いて話してくれる親切に応えて、こちらも真剣に耳を傾ける。
「今話したみたいに、私たち悪党の戦いは常に起こってるんだよ。今日みたいに警察と悪党の戦いがあれば、悪党同士の戦いもある。こうした生活が日常になると、その世界の人たちは段々普通じゃなくなっていく。言い換えれば、普通の世界の人たちと一緒にいることに満足ができなくなっちゃうんだ。スリルと危険を求めて、常に底の深い穴を目指し続けるの。環境はどんどん過酷になるし、そうなれば地上で生きる多くの一般市民みたいな人達は生きることができない。悪党っていうのは冷酷で残忍でひどい奴らってだけじゃなく、すごくしぶとい奴らでもあるんだ。そうじゃなきゃ裏社会っていうアングラでは生き残れない。分かるね?」私はただ頷いた。「これが私の伝えたかったことだよ。まあ簡単にまとめると、私たちは住む世界が違うってこと。ユリちゃんは普通じゃたどり着けないような深穴に偶然はまって、怖い地底の住人たちの争いに巻き込まれて、命からがら日の差す地上へ逃げ延びたみたいなものなんだよ。だからもうこちら側の住人に甘い夢を持ったり、おびえてうなされたりしちゃ駄目だよ?私たちは違う人種──違う世界の人間なんだから。だから今晩のことはすっぱり忘れちゃいなよ。分かった?」
好意のお話はここで切れた。私は無言で頷いたが──言いにくいが、それでも名残惜しいものがあった。彼女たちとの繋がりもここで切れてしまうと思うと、急に胸にこみ上げるものがある。向こうもそれを承知して、社長のアルさんに目線を向けた。アルさんは私の顔をのぞき、それから社員に目くばせをする。誰かの静かなため息が聞こえた。
「ムツキの言う通りね。もうこんなところに近づいちゃ駄目よ。それから変なことも考えないようにしなさい。あまりムツキの話と被るといけないから、私からはそれだけ」アルさんは私に近づくと、鞄から名刺を一枚取り出した。「でも、どうしても助けが必要になったら、この番号で連絡がつく。私たち便利屋68はいつでも力になってあげるわ」それから思いついたように付け加える。「だけど依頼料は高くつくわよ!それも覚えておいて」
私は思わず笑ってしまった。悪党らしい気遣いだ。だが今の説教も含めて、全て残らず持ち帰ろうと心に決めた。
アルさん達にお礼と別れの挨拶を言う。それからもう一度だけ、できるだけ自然な流れでハルカさんに握手をした。それから赤くなった顔を見られるのが恥ずかしく思えて、小走りで一気に境界線を踏み越えた。少し距離を取ってから、振り返ってさよならと手を振る。先ほどまで身を置いていた世界で、四人の悪党たちが手を振った。それからさっと背を向け、暗がりの夜の中へ溶け込んでいく。
私はそれ以上見ず、明るい街灯の並ぶ街中を走った。温もりを感じる明かりが、私の生還を喜んで迎え入れてくれている。
確かに生還だ。生きて、そして帰る。だがそれだけじゃない。何重に生を受けてきたのだ。一つは命のこと。もう一つはあの悪党たちに生き方を教えてもらったこと。そしてあの人、寡黙な仮面に本性を潜める悪党、平社員でしかない彼女に狂わされ生かされたこと。
狂う?彼女は真っ当に私を救ってくれた。命を救い、心を救う。これのどこが狂っているというのだろう。もう聖人病を単なる病理とも思わない。あの土地に未練もない。私から彼女たちに連絡することもないだろう。私はただ、あの人たちのことを分かっているだけで構わない。それにあの人が見せた全てが、生涯ずっと私の心に刻まれるに違いない。