この世界はウマ娘に優しくない。
走れば走るほど、人間離れしていく脚力。
馬力換算される人知を超えたパワー。
努力すればするほど、レースで勝利を掴めば掴むほど、一般人から離れた存在となっていく。
重賞を総なめにし、栄光と名誉と莫大な賞金を手にしたウマ娘を誰もが成功者と呼ぶが、それはあくまで競走の上に限った話だ。
いかに容姿に優れていても、いかに速くても
誰もがワンパンで病院送りにする存在とお付き合いしたいとは思わなかった。
この絶望的な状況に更に拍車をかけたのは
極端に偏った男女の出生率であった。
出生比率は男1 女100という、数字で見てもバグっているとしか思えないレベルの統計の歪み。
女性が百歩歩いても、男性を見掛けない。
犬は棒に当たるのに、女性は棒(意味深)にも当たらない。
「この世界、どっか壊れてるよね」と笑うヒトミミもいたがマジで笑えなかった。
ちなみに、この話をウマ娘の前ですると真顔になる。
ウマ娘が理想の女性像と呼ばれていた頃がまだよかったが、
とある事件がきっかけで、ウマ娘の立場が追いやられてからは肩身が狭くなる一方である。
些細な口論、ほんの軽い諍いでも命とりと言われる近年。
ウマ娘の握力は鉄球をも潰し、全力疾走すれば、装甲車よりも速く走る。
人の形をした人型決戦兵器。
怒らせた奴は死ぬ。
ウマ娘と男性の間に横たわる壁は厚く、高く聳え立っていた。
これ即ち、この世界で
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サイレンススズカの幼い頃の夢は
『先頭で自分だけの景色を見て、ゴール板で男性トレーナーさんに抱きしめてもらうこと』
である。
だが、その夢は、現実の荒波に呑まれて直ぐに消え去った。
ウマ娘が男性と関わることは、社会的リスクとみなされる昨今に
仮にデート現場を目撃されれば、即SNSで炎上する。
「ウマ娘が男を襲う気だ」「また事件が起きる」と騒がれる。
だから、スズカは恋愛小説に逃げた。
アグネスデジタルの描く恋愛漫画。
どぼめじろう先生の純愛小説。
寮の自室の本棚に隠されたその一冊一冊が、スズカの心の避難所だった。
「NTRは邪道。ナリタトップロードさんも邪道。純愛こそが正義」
それが、彼女の格言である。
地位も財産も名声も容姿も全てを兼ね備えた彼女だったが、唯一、男性との出会いだけは存在しなかった。
彼女としても、美男子と結婚したいとか、高望みしているわけではない。
誰でもいいから嫁に貰って欲しいというのが、彼女の本音である
「……妾でもいいから……誰か、私と結婚してくれないかしら」
清楚な笑顔の裏に隠された、乙女心。
スポンサー契約を結び、幼いウマ娘の憧れとなっても、心の中はからっぽであった。
だが、現実はいつまで経っても変わらない。
周りは女性だらけで男性の影すらない。
彼女の担当トレーナーも女性で
そして、周囲の誰もがそうだった。
夢を見る歳はとうに終わったのだ。
そう自分に言い聞かせながら、今日もスズカは走る。
汗を拭い、シャワーを浴び、髪を整え、女性トレーナーに報告する。
「はい、明日の調整も問題ありません」
「そう、じゃあ明日は軽めでお願い」
淡々と、職務的なやり取り。
それだけの関係。
それだけの距離。
だが、ある日。
その“猛暑”の日だけは、運命がいたずらに笑っていた。
練習を終えたスズカは、ふと気づいた。
「あっ……ロッカーにシューズを置きっぱなしにしていたわ……」
汗を拭きながら、トレーナー室へ戻ったスズカ。
夕刻のトレセン学園は静まり返り、廊下の照明がオレンジ色に染まる時間帯。
いつもは誰もいないというのに
扉の向こうから響く、微かな衣擦れの音。
(あれ……誰かいるのかしら?)
軽くノックし、反応がなかったので、そっとドアを開けた。
──その瞬間。
彼女の世界は、ひっくり返った。
トレーナーが、腰のコルセットを外していた。
そして、胸から胸パッドを取り外していたシーンを目撃してしまった。
蒸れた服を脱ぎ、シャツを半分までめくったその体。
そのシルエットは、どう見ても──
男性
あまりの衝撃に、スズカは左旋回した。
脳が理解を拒否していた。
(……う、うそ、トレーナーさんが……男性……!? ど、ど、ど、どうしよう…)
視界が白くなり、心拍数が天元突破する。
そんな彼女の挙動不審っぷりは、当然のようにトレーナーに気づかれた。
「……はあ、しくじってしまいましたか」
その声は、いつもの柔らかな女性の声ではなかった。
低く、落ち着いたトーンの“男の声”だった。
トレーナーは一瞬の沈黙ののち、息を整え、淡々と告げた。
「サイレンススズカさん。
貴方にはお話があります。
今夜──こちらの住所にお越しください」
「え……えっ……!?」
脳の処理速度が追いつかず、心臓がバクバクを通り越してエンストを起こしていたスズカ。
トレーナーは汗を拭きながら、軽く笑った。
「安心してください。
叱るわけではありません。ただ、説明が必要ですので」
そして、甘い声で
「ちゃんと来てくださいね」
そう囁かれ、彼女は『……は、はひ』としか答える事ができなかった。