トレセン学園は、阿鼻叫喚の渦に包まれていた。
それは、ひっそりと学内掲示板へ貼られた一枚の紙から始まった。
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【告示】
サイレンススズカ、ナリタブライアン、ゴールドシップ、カレンチャン、シンボリルドルフの五名は
“寿退学”いたします。
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その一文を見た者から順に、足元の世界が崩落していった。
トレセン学園における“寿退学”とは、いわば伝説のワードである。
男性と正式に婚姻を結び、ウマ娘としての学園生活を円満に終える――。
その確率は、育成で温泉旅行券を二十回連続で当て続けるのと同程度。
そんな夢物語をまさか現実に実現する者が現れるとは、誰しも思っていなかった。
「す、スズカさぁぁぁん! レース外でも大逃げするとか聞いてませんよぉぉぉ!!」
「ルドルフかいちょおおおおおおおッ!!!」
私と交わした独身同盟はどうしたんですかぁぁぁ!
この野郎おおお、戻ってきやがれぇぇぇぇぇッ!!」
1人部屋と化した寮の自室で、枕を抱えて咽び泣く者
閑散とした生徒会室でまさかの裏切りに遭った者
学園各所で、怨嗟と絶望の叫びが木霊していた。
今後の学園生活を投げ捨ててまで
或いは、かわいい後輩を置き去りにしてまで――
全力疾走で“結婚”という名のゴールへ駆け抜けた、異次元の逃亡者 “たち”
気づけば五人全員が大逃げの脚質に変貌していたとは、誰も予想していなかった。
スズカはともかくとして、ブライアン、ゴルシ、カレンチャン、ルドルフ――。
彼女たちはいつの間にか未知の距離適性を獲得していた。
変幻自在の脚質の持ち主が、密かに隠れていた証拠でもあった。
そして――当の本人たちは、幸福を享受していた。
余りにも幸せを噛みしめすぎて
掲示板の片隅に“寄せ書き”を残すという悪ノリまで見せる始末。
添えられた卒業の花びらが、なおさら罪深い。
「先頭の景色のその先へ――行ってくるわ♡」――サイレンススズカ
「三冠制覇、人生も完全制覇 私こそが勝者!!!」――ナリタブライアン
「いやぁ〜まさかの結婚イベントとはね!やっほい!」――ゴルシちゃん
「バズっちゃった☆」――カレンチャン
「Eclipse first, the rest nowhere」――シンボリルドルフ
幸せのお裾分けという名目で、残された者たちの心を深々と抉り取る。
これを読んだ瞬間に理性を捨て去り、衝動のまま掲示板を叩き割る者も中にはいた。
『あの五人でさえ結婚できるなら……私たちは何なんだ……?』
カフェテリアでは、独身ウマ娘たちが集団でプリンをすくいながら無言で虚空を見つめる光景も確認された。
だが、それだけでは終わらなかった。
五人の“寿退学”は確かに悲報だったが、
同時に、多くのウマ娘たちの新たなスイッチを入れた。
「……ふっ、見せてくれたね、スズカさん。
私も逃げ切ってみせるよ……人生のレースで!」
校庭のベンチで、セイウンスカイがスマホを握りしめる。
その隣ではニシノフラワーが真っ赤な顔でうなずいていた。
そしてなぜか翌週、二人は連名で婚姻届を提出した。
緋色のティアラを被ったウマ娘は相手の同意も得ぬまま、勢いで籍を入れ
幼い身体をコンプレックスとしていたウマ娘は、憧れの背中に新たな希望を見出した。
そんな混沌の波は、ついにあの場所にも到達した。
――理事長室
高級ソファの上で、トレセン学園のドン 秋川やよいが泣き崩れていた。
「うわあああああん!! たずなああああっ!!」
「り、理事長!? 落ち着いてくださいっ!」
「落ち着けるかああああ!! あの男を射止めていれば、未来永劫安泰だったのにぃぃ!!
なんでだ! どうして逃げられたのだあああ!!!」
彼女はテーブルを叩きながら絶叫する。
数少ないトレーナーの秘密を知る者でありながら
己が手中に収められなかった悔しさに、滂沱の涙を流す。
彼女の傍らで、緑の事務服に身を包んだたずなが優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、理事長。
人生、まだまだ長いんですから。
これからきっと……出会いがありますよ」
その声は優しいが、どこか含みを孕んでいた。
理事長はぐすんと鼻をすすると、かすかに笑った。
「……そうだな。チャンスのあった私が取り乱すのも恥ずかしい話だ。
たづなの言う通り、これから伴侶を掴み取ればいい……」
気を取り直した秋川やよいは、両手で頬を叩いて気合いを入れた。
「もしかしたら、幼い身体が好きなニッチな男性もいるかもしれんしな!」
その結論に辿り着いた瞬間、ようやく心の均衡を取り戻した。
正常運転に戻ったちびっこ理事長を見て、たづなは柔らかく微笑んだ。
だが――その笑みの裏で、そっとポケットに触れる。
そこには、“誰か”とお揃いの指輪が
ひっそりと輝いていた。
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外ではまだ誰かの絶叫が響いている。
阿鼻叫喚、混沌一如、狂喜乱舞
しかし、それでも人生は続いていく。
そして今日も、トレセン学園のどこかでは――
「次はあたしの番だぁぁぁぁッ!!」
そんな雄叫びが、空に響いていた。
これにてラストです。
最後まで閲覧して下さった方に最大限の感謝をm(__)m