野蛮なエルフの国はいかにしてただしいオークの国を撃退するに至ったか【完結】 作:只野夢窮
最後の予言、あるいはカーテンコール
その牝は王の図書室にいた。毎日そこに通い詰めては、何もするでもなく本をめくったりしては日がな一日過ごしていた。彼女の身体はもうすっかり治っていて、彼女の牡のところに行こうと思えば、まず何の不自由もなかった。けれども、自分の牡がまったく歴史に残るような大仕事をやり遂げようとしているうちに、自分のことでわずかなりとも心配をさせたくなかったのだ。
果たしてその牡は、四月も半ばになってから、ようやく帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
そして牡は、牝の身体を気遣うようにそっと抱きしめた。
「もう身体は十分にいいんだ」
「大けがをしたと聞いたんだ、とても心配した……」
「あなたが守ってくれたの」
牝は懐から、血まみれの本を取り出した。腰鞄に入るほどの小さな本だ。この広い図書室のどこかには、この本が入るべき欠落がある。それだけで伝わった。
「そうか……よかった」
「あなたには、本当に感謝してもしきれない。黒エルフの亡命を受け入れてくれただけではなく、白銀樹まで守ってくれた。なんとお礼を言えばいいか」
「自治領までねじ込むのは、本当にギリギリだったけどね」
「条約の修正案を見た時には、本当にびっくりしたし、妹たちを抑えるのは大変だったのよ。これだけ命がけで戦ったのに、我らの白銀樹はエルフィンド領内のままなのか、ってね。いったいどうやったの?」
「エルフィンドの女王と、一対一で会ってきた」
牝は息を呑んだ。
「死んだんじゃなかったの?」
「偽装だったんだ。敵の策略だよ」
「それで……どんな女だったのかしら」
姐さん女房のじっとりとした目つきに、牡は苦笑する。敵国の女王に手を出すほど好き者ではない。
「……私と同じ、
「……」
「もう終わりだ。彼女が私たちに危害を加えることはもうない」
「そう……それならよかった」
潮時だろう。目の前の牡は偉大な王だ。同族と番って血脈を残すべき者である。胎無しの牝にこれ以上かまけるべきではない。
「さて、本も返せたし……私は帰るわ。オルクセンに残る者も、自治領に帰る者もいる。私はなんだかんだ氏族長だし、故郷に戻る準備をしなきゃ」
「待ってくれ」
「……どうしたの?」
「……これは私の我儘だ。しかし、そうだとしても……君と離れたくない」
「……あなた……」
オークの中でも群を抜く巨体が、ひざまづき、折りたたまれる。
「アンダリエル・ディネルース殿。私と結婚してくれないか」
牝の脳内の、理屈っぽい言い訳は、一瞬で全て吹き飛んだ。
「喜んで!」
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デュートネ三世は、この戦争で『予言』よりも大きく得をした人間のうちの一人だろう。実際に戦争を起こさず、部分動員と仲介だけでオルクセンの膝を屈させることに成功した皇帝の名声は一気に天に昇り、翌年にデュートネ三世が死亡した時、その後継者はすんなりとデュートネ四世に決まった。
そのような経緯もあって、二度の世界大戦と民主化を過ぎてもなお、グロワールの外交は親エルフィンド的である。
一方で、オルクセン王国外務大臣クレメンス・ビューローは大きく損をした側だ。彼は対エルフィンドの和平条約が発効した一年後、おもむろに辞表を提出した。戦争時にロヴァルナとグロワールに挟まれる形になったこと、和平条約で大きく譲歩を強いられたことに責任を感じたのである。グスタフ王は再三慰留をしたが、彼の決意は固かった。現役を続ければ、後年に民主主義改革を行ったオルクセンの初代首相にもなれた器だと多くの人物に残念がられたのだが、だからこそ彼の高潔さは自分の落ち度が許せなかったのだろう。彼はその後、執筆業と年金でささやかに暮らしたという。
「なあ……シュヴェーリンの奴は逝っちまって、ゼーベックの奴も責任をとって辞めるだなんて、わしのような老骨が最後まで残ってしまった……わしはこの先どうすれば……」
オルクセン王国陸軍、最後の上級大将。そう呼ばれるアウグスト・ツィーテンは、憂鬱な日々を過ごしていた。『予言』ではシュヴェーリンではなくツィーテンが死んでいたのだが、そんなことは当然知る由もない。ある日、彼のもとに差出人不明の手紙が届く。
「ツィーテン殿に置かれましては、ノグロストを人道的に占領し、長期間白エルフの民と共に過ごされました稀有なオークであるがゆえ、我らの芸術をご理解いただけるものと信じて、不躾ながら招待させていただきます」
挟まれていた演劇のチケット、舞台は懐かしのノグロスト。
「どうせ暇じゃし、行ってみるかの」
その舞台で号泣した彼がエルフィンド文化の後援者になるとは、いったい誰が予見していたのだろうか。
「たかだか『エルフィンドの全土占領と無条件降伏以外認めるべきではない』と新聞に書かせたぐらいで、わたくしを首にするなどっ、あの無能の取締役どもは恩義というものを知らないのかしらっ!」
ファーレンス商会は経営が傾きつつあった。稀代の大商人イザベラ・ファーレンスを失ったコングロマリットは、あちらの事業が傾き、それをなんとかしようとして金や人を回すと、引き抜かれた側の事業が沈むという悪循環に陥っていた。これは何も残された取締役たちがイザベラの言うような無能だった、というわけではない。各部門のトップとしては、十分に有能であった。しかし複雑に絡み合い、依存し、時には利害対立さえしている各部門を有機的にまとめて全体最適を追求するというのは、この時代には体系的に学べる知識などではなく、ある種の天才の個人的芸術であった。
「生きていれば……生きていれば何度でもやり直せますわっ! 手元に残った個人資産を元にもう一度起業してっ! 次こそはエルフィンドを滅ぼす!」
質量ともに圧倒的に勝るオルクセン陸軍に最後まで抵抗した英雄として、エルフィンド王国陸軍ダリエンド・マルリアン大将の名声は国内外で高まった。彼女は目的のためにそれを十二分に利用した。彼女の号令一下、エルフィンド軍は近代化への試みを一気に開始した。兵にまで下士官教育を施し、戦時には戦時昇進をさせて動員兵を率いさせる。銃砲を最新のものに更新する。彼のオルクセン王の描いた絵通りなのは気に入らないが、それは和平条約で兵数を縛られたエルフィンド陸軍に必要なことであった。
黄金樹旅団長たるアノールリアン・イヴァメネル中将は、毀誉褒貶に晒された。黄金樹旅団が、
サエルウェン・クーランディア元帥の扱いは、部下に比べるとやや地味であった。アルトリア市での決戦では後方を固めるばかりであったからだ。それが重要事だというのは、地図を見て戦争したことがあるものでないとわからないものだ。この世界の軍オタクたちが気取って言うには、「初心者はイヴァメネルを語る、中級者はマルリアンを語る、そして上級者はクーランディアを語る」と。
事実として示せることは一つ。エルフィンド王国は第一次大戦にも、第二次大戦にも巻き込まれずに、独立を保つことに成功した。それはエルフィンド陸軍が反省し、生まれ変わったことを何よりも雄弁に語っている。
しかし陸軍の友人たちに対して、トゥイリン・ファラサール海軍大将の名声は輪をかけて圧倒的であり、眩いばかりであった。新兵器を惜しげもなく投入し完璧な奇襲に成功したオルクセン海軍を激戦の末に撃破し、そのままの勢いで敵軍港に殴り込みをかけて完全に破壊することに成功する――――まさに戦史に燦然と輝く大勝利であり、敗戦の中にあっても「海軍は負けてない」ことを国民は心の支えとした。彼女は部下の「少将」の見事な心意気を語り継ぎ、「新任少将さんの戦い」はエルフィンド王国の義務教育の教科書に載るようにすらなった。そしてエルフィンド王国の首相が選挙によって選ばれるようになった時、彼女は国民の圧倒的な支持を受けて当選、初代民選首相となった。
そのファラサール首相にバトンを渡した「最後の女王の首相」たるウィンディミア前首相は、おおよそ国民にも支持されていた。戦争に負けはしたし、負けた直後は世論が沸騰もした。けれども前線の悲惨さが戻ってきた兵士たちから伝わるにつれて、仕方のないことだとみな思うようになった。どの道、「白エルフの国土」は侵されていないのだ。奪われたのはもとからドワーフやコボルドから奪った国境沿いの都市に、わざわざ殺そうとしていた黒エルフの土地。そりゃあれば嬉しいが、いらないといえば要らない。精神的勝利法と言わば言え、オルクセンに勝って取り戻すことなどできないからには、そう思わざるを得なかったのだ。
「どうしても辞めるんですか? 予備役編入にして、好きな時に戻ってきてもいいって国王陛下も仰ってましたよ」
「うるせえ! 俺が納得いかねえンだよ」
グレーベン中将は、参謀本部を去ることにした。自分で自分が許せなかった。自他ともに天才と任ずる自分が、国力十分の一のエルフィンド王国に翻弄された。それだけで理由としては十分だった。
「責任だったらゼーベック上級大将が取ることになったじゃないですか。それに陛下も『P・P』というイレギュラーがあったせいだから仕方ないって」
「俺の考えた作戦だろ。それをケツ吹きまで親父にさせるわけにはいかねえ。それに敵サンが強かったから仕方ありませんでした、で戦争がやってられっか」
「……しかし、生活はどうするんですか? 亡くなられたシュヴェーリン上級大将殿の娘さんを、路頭に迷わせるおつもりで?」
「……ケッ! 俺の年金があらぁな。それに働く伝手がねえわけじゃねえよ。まだ好景気なんだ、食っていくぐらいなんとかなる」
「……意固地にならないでください」
「はあ? どういう意味だ」
「しばらく軍を離れるのも、あるいはグレーベン閣下の見聞を広めるためにはよいことかもしれません。でも祖国が危機に陥った際に、もし少しでも力になれると思うなら、必ず戻ってきてください。今更とか、恥ずかしいとか思わずに。それをシュヴェーリン上級大将殿も望まれていると思います」
「……お前に何がわかるんだよ」
参謀本部はその性質上機密が多い。ゆえに、大戦の際にグレーベンが本当に参謀本部に戻ったかどうかは知られていない。
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「プレンディル、これまで本当にありがとう。あなたにはよく働いてもらったと思うわ。その上あんな”遺言”まで出して申し訳ないわね」
「本当ですよ、全く……」
戦争が終わった年の夏。プレンディルと女王は、ノアトゥンのホテルの一室にいた。比較的波が穏やかな季節には、この港からキャメロット行きの民間航路があるのだ。
「しかし、大胆なことですね。死んだはずの人間が国外で遊びたいだなんて」
「まあ、国外にはほとんど白エルフがいないから、かえって安全よ。わたくしの顔を知っている人間なんてそうはいないわ」
「そりゃあ、そうですがね……」
「まあそれは言ってしまえば建前。本音はね、せっかく異世界に転生したのだもの。知らないものを見て、聞いて、楽しみたいわ。時間はいくらでもあるのだし、エレントリ館に引きこもるのなんてもったいないわ。リュテスの宮殿にボトルキープしてあるワインも飲まなきゃ」
「……まあ、あなたは祖国を救った英雄。王室の財産を少しばかり持ち出して、よその国でバカンスというのも大目に見ましょう」
「恩に着ますわ、秘密警察長官殿」
二人して顔を見合わせて笑う。
「でもまあ、危ないことはしないでくださいよ。他所の国で死んだはずの女王様が捕まった、なんてことになったら大ごとになりますから」
「わたくしだって死んだり痛かったりは嫌ですもの、そこまで危ないところにはいきませんわ。まあせいぜいグロワール文化を満喫してから、キャメロットに飛んで盗品博物館と王立図書館にでも籠りましょうか。それでも危険になったら大使館に駆け込むわよ。できたんでしょう、ウィンディミアのおかげで」
「はい、列商国には例外なく我が国の大使館ができました。あのオルクセンにすら。数十年前までの我が国の閉鎖性を考えれば、驚くべきことです」
「もう私がいなくても大丈夫ね、白エルフは」
「そう願っていますよ、しかし……あなたには散々無茶ぶりをされましたが。また会いたいと思っています」
「ええ、あなたがエルフィンドで……失脚して刑務所に入れられたりしなければ、また会えるでしょう」
また笑う。遠くで汽笛が乗船時間を知らせる。もう出なければ。
「では、また会いましょう。その時までには『我が最後の予言』に従って、わが国を豊かで平和な国にしておくように」
「御意」
もはや振り返ることなく、
戦争という悲劇の幕が下り、登場人物はみな各々の道を行く。未来予知というバカげた喜劇のカーテンコール。
エルフィンド王国女王は、最後の予言を祖国に残した。それは戦後しばらくしてから、「前線に赴く際に、万が一に備えて書いた遺書」という形で国民に公開された。
一つ、農奴制を止めること。エルフは女王の元に平等である。
一つ、三圃制をやめること。古の女王の時代には素晴らしい農法だったが、現状にはそぐわない。
一つ、秘密警察は段階的に縮小すること。平和なエルフの国にはそぐわない。ただし、対オルクセン戦争中は必要であったしまたその功績は大きかったから、秘密警察であった人物には軍人と同等の恩給を給付すること。ましてや逮捕するなど言語道断である。
ここまでは、賛否両論はあれど残された民たちにも理解はできた。しかし、最後の一つについてはその時に真意を理解したものは誰もいなかった。百年以上たってから、もしかしてあのことだろうかと思い当たる者がいた。そして皆、女王の先見の明に驚愕した。後世に「女王の未来予知」と言えば、一般にはこのことを指して呼ぶのである。
一つ、高等数学を奨励すること。いずれ白エルフの芸術と結びつき、国をより富ませる基礎となるであろうから。
なぜ高等数学が芸術と結びついて金になるのか、当時は誰にもわからなかった。しかしとりあえず、「女王が最期に仰ったことであるから」というので、みんなして数学に取り組み、しぜん国の教育も数学に注力したものとなった。戦争で賠償金を払い、国土が荒廃し、稼ぎ頭が戦死して国全体が貧乏になった中でも、紙と鉛筆があれば数学はできた。それ一本でエルフィンド国立大学の教授にまで成り上がる者も出た。勉強すれば貧乏な家でも成り上がれるというのは、当時の国民の希望となった。しかしそんなことは女王の意図したことではなかった。