▽前回のあらすじ
額へのキスの余韻に浸る間もなく、花梨からの既読スルーに翻弄されるコナン。数日間の沈黙の末に届いたのは、いつもの白猫スタンプと「快斗とのデート」の報告だった。安堵と激しい嫉妬。翻弄される探偵の心は、解けない謎を抱えたまま、更なる深淵へと近づいていく。
第154話
心の準備ができていないと……。
◇
……木曜日の夕方。
花梨は一人、家に帰宅するとスマホが震えた。
相手先は“快斗”と表示されている。
「……もしもし」
『あ、花梨?』
「どしたの? もうコウちゃんとの打ち合わせ、終わったの?」
『いや、今週さ、忙しくて全然一緒に帰れてねーなって思って。もうちょっとしたら、また打ち合わせなんだけど、少しだけでも声聞けたらなーって』
「そう……ふふ。電話ありがと。私も快斗の声が聞けてうれしいよ♡」
『っ……へへっ♡』
……二人はそのまま、しばし無言になってしまった。
スマホの向こうでわずかに息遣いだけが聞こえて、快斗が照れてるのがわかる。
なぜなら、花梨も胸がいっぱいでそう思ったからだ。
そうして甘い沈黙のあと、再び快斗が話し出す。
『――あ、そうだ。今夜遅く、そっち行ってもいいか? 十時半過ぎになると思うけど……』
「ん? ずいぶん遅いんだね。うん……今日は早く寝るつもりだったけど……待ってるね?」
金曜の、ロイヤル・エクスプレス潜入の準備がそんなに大変なのだろうか。
今週は、まだ一度も快斗と下校できていない。
快斗は夜遅くに少しだけ顔を見せに来るが、食事をして、名残惜しそうにしながら帰っていく。
そして朝、また迎えに来てくれる――そんな日がもう四日も続いていた。
『悪いな。オレも花梨と一緒に帰ったり、ずっとそばにいたいんだけど、どうしても今週は難しくてさ』
「え? 今週は難しいってどういうこと……?」
『あっ! い、いや? ちょーっと準備に手間取ってるだけだっ!』
「ふぅん……?」
快斗の声が一瞬、上擦った気がする。
何か隠しているのはわかったが、詮索されたくなさそうな気がして、花梨は特に問い詰めることはしない。
『そろそろ切るな……あとでお邪魔させていただきますよ。私の花梨嬢』
チュッ――と、スマホ越しにリップ音が聞こえた。
「っ……では、お待ちしておりますね。私のキッドさま?」
『っ、“私のキッドさま”とか!! その呼び方やっばっ♡♡』
突然ぷつり。快斗から一方的に通話が切られた。
いつもなら花梨が切るまで待つ彼だが、動揺して通話終了ボタンに触れてしまったのだろうか……。
切れる寸前“チュッ、チュッ、チュッ”というリップ音がしていたが、それは途中で途絶えた。
“ピコン”
すぐにメッセージが送られてくる。
『ごめん、勝手に切れた。また、夜にな~♡』
通話終了ボタンに触れてしまうことくらい、誰だってあるだろうに。
詫びなど必要ないというのに、快斗はマメだ。
「……ふふっ♡ 快斗ってば可愛い♡」
花梨はスマホを見下ろし、白猫が笑っているスタンプを送っておく。
それから部屋は静かになった。
「……新ちゃん、何時頃、電話してくるんだろ……?」
今夜はコナンから電話がかかってくる予定だ。
快斗の訪問と被ることはないとは思うが、被った場合はどうしたものか――。
「ん、その時はその時だね」
――もう話す勇気はなくなっちゃったし、ね……。
月曜に問い詰められていたら、もしかしたら彼を頼っていたかもしれない。
けれど、木曜を迎えた今、その選択肢は消えてしまった。
「もう誰も、巻き込まない」
ぽつり。しんとした静寂の中、花梨は静かに呟く。
五月の終わりまであと少し。
終わりが近づいているとはいえ、花梨はいまさら慌てたりはしない。
今日も丁寧に過ごそう……ということで、自分のために肉じゃがを作ることにした。
くつくつと煮える、醤油とざらめの芳しい香りが、キッチンから部屋全体に漂う。
花梨は、上手く味付けできているか、
「ん……おいしい……? こんなもんかな……」
味付けは上々。
快斗が夜遅くに来るから、食べていってくれればいいな――と、少し多めに作った。
……これがこの家で作る、最後の料理になるのだと思うと、感慨深い。
肉じゃがは伯母の家でよく作った。
伯母の作る肉じゃがは豚肉を使用するが、花梨は牛肉を使う。
伯母の元夫は「味が違う」と文句を言っていたが、全部平らげ「また作れ」と命令していた。
結局、どちらの肉を使おうと、どちらもおいしいわけで。
「ふふっ。今日はいいお肉、奮発しちゃったっ♡」
――快斗、喜んでくれるといいな……。
普段はあまり金を使わない花梨だが、今日は少々奮発して質の良い肉を選んだ。
伯母にも食べさせてやりたかったなと思いながら、煮込みを終えると火を止めた。
そうして一人静かに食事の準備を整え、手を合わせる。
「いただきます……」
しばし、食卓に並んだ食材たちに感謝をし、静かに食べ始めた。
小鉢の中には、諸伏から教えてもらったアスパラのクリームチーズ和えもあり、一口。
「おいしい……ヒロお兄ちゃんさすが……!」
口の中に濃厚なクリームチーズがとろけ、アスパラのシャキッとした食感が心地よく絡む。
花梨は小さく目を閉じて、ひと息つく。
静かな部屋に、箸の音と自分の呼吸だけが響く。
外の世界の喧騒や、巻き込んでしまった人たちのことを思い出すと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「おいしい……」
感傷に浸っても、しょうがない。
今ならまだ、間に合う。
……後悔はしない。
自分にそう言い聞かせながら、炊き立てのご飯を一口。
味噌汁の温かさが、ほんの少しだけ心をほぐした。
肉じゃがの甘辛い香りと、アスパラのクリームチーズのまろやかさ。
小さな幸せに、花梨はそっと笑みを零す。
今日という日、ひとりで食べる最後の料理も、きっと大事な思い出になる――そんな気がした。
箸を休め、窓の外に目を移すと、街の灯りが夜を彩っている。
ゆっくりと、静かに、時間は流れていく。
「ごちそうさまでした……」
食事を終えると、花梨はそっと箸を置いて手を合わせた。
……食べ終えたら、さあ後片付けだ。
静かに席を立ち、食卓に残った器を一つひとつ丁寧に片付け始める。
いつもは食洗機に並べる皿も、今夜は手洗いをしたい気分だった。
空になった味噌汁の椀も、肉じゃがの皿も、使った小鉢も、丁寧に水で洗い流し、ふきんで水気を拭き取る。
その手つきは、どこか儀式のように慎重で、無駄な動きは一切ない。
「……ありがとう、今日のご飯」と、静かに心の中で呟きながら、食卓を片付けていった。
スポンジに泡を立てる手の感触や、器を拭くたびに響く小さな音に耳を傾ける。
自分の動作に集中することで、残された時間を静かに意識しながらも、心を落ち着けていく。
ふと窓の外を見ると、街の灯りが夜に溶け込む。
その景色を見つめながら、花梨はゆっくりと深呼吸をした。
今日一日の小さな幸福と、静かに流れる時間に感謝をしながら、片付けを終えた花梨の心は、どこか満たされていた。
すべてを整え終えた食卓を最後に振り返り、彼女は小さく微笑む。
「これでよし……と――」
にこっと一人微笑んだ、その時だった。
ピピピピピ……。
コナンからの着信に、静かな部屋の中で震える。
画面に“新一”の名前が浮かび、花梨の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
(……あ、新ちゃん……)
胸が、どくん、と小さく鳴る。
逃げることも、見ないふりをすることもできたはずなのに。
それでも――待っていたのは、自分だ。
(……大丈夫)
深呼吸をひとつして、スマホを耳に当てる。
さっきまで部屋を満たしていた、甘辛い肉じゃがの温かな湯気が、耳元に押し当てた機械の冷たさで一瞬にして掻き消されたような気がした。
幸せな夕食の余韻が、音もなく、冷徹な現実へと冷え固まっていく。
電話口で聞こえた声は、一声目からいつもより少し硬く、重く響いた。
『花梨……落ち着いて聞いてほしいんだ』