※164話の裏側・花梨視点(一人称)のお話です。
164.5話
甘いひと時の裏側で。
◇
乗降口から扉が閉まる音が聞こえた。
大きく響いていた走行音が少し小さくなる。
――快斗が戻ってきたんだ。
外から吹き込む風の冷たさに、デッキから這うように洗面所まで辿り着き、影に隠れて座り込んでいたけれど、私の気配に気づいたのか快斗が大きな声を上げた。
「……花梨ちゃん!」
慌てた声に、凍えていた心臓がどくりと跳ねる。
(無事に戻ってきてくれた……よかった……)
私は、震える唇で精一杯の笑みを浮かべる。
列車の揺れに合わせて、髪がふわりと揺れた。
快斗は駆け寄って、私を支え、立たせてくれる。
そして、抱き寄せた。
頭に頬を寄せられて、小さく「つめてぇ」なんて聞こえて。
風で冷えた身体が、快斗の胸の熱に触れて、じんわり温まっていく。
その温かさに、少しだけ安心する。
けれど、私はこのひとときが長くは続かないことを知っている。
「身体が冷たい……」
「快斗、温かいね……」
「バーロ……だから、席に戻れって言ったのに」
「ん……なんか、心配で戻れなくて……」
私は、震える身体を彼に預けた。
――こんなに甘えてしまっていいのかな……でも、温かくて、離れたくない……。
心の声は正直だ。
このまま快斗とずっと一緒にいたい。
……けれど、それが叶わないことは、自分が一番よくわかっている。
腕にすっぽりと収まった私を、快斗がぎゅうっと強く抱きしめる。
私は冷え切った指先を、彼の背中に回して抱き返した。
快斗が心配してくれていること、そして彼の胸に触れて安心していること。
こうしてくっついていると、よくわかる。
胸が熱くなるのを感じた。
「……戻ったよ。心配かけたな」
優しい快斗の声に、私は小さく頷く。
――この人といると、世界が少し静かになるみたい。
吹き荒れる風の音も、列車の轟音も消えて、彼の鼓動だけが響く。
そんな、凪のような安らぎ。
快斗といるときは、いつもそう感じる。
けれど、思わず顔を背ける瞬間もある。
もうすぐ、お別れが待っているから。
「……もう少し、このままでいてもいい?」
「ん? いいけど……ここ寒いし、席に戻ったほうが――」
私は彼をじっと見上げる。
……目が潤んでなければいいけれど。
私の些細な変化に、快斗はすぐ気づくから……。
心の奥で、少し寂しさが混じって、すぐに俯く。
――でも……今は、もう少しだけ……くっついていてもいい……?
「快斗、温かくて、すき」
「っっ――!! はいっ、オレも好きっ!!」
(ああ……快斗、あなたって――大好き……)
私が甘えると、ぎゅっと腕に力が込められ、心が跳ねた。
……いつでも彼は私を甘やかしてくれる。
始めはどうしてそんなに甘やかしてくれるのか――よくわからなかったけれど、彼が私を好きだからなのだと最近わかってきた。
それが“愛”というものなんだろうってこと、鈍い私でも、ようやくわかったの。
今はそれに少し慣れてきた頃だと思う。
……でも、慣れてはいけなかったんだ。
この温もりは、本当は触れちゃいけないものだった。
私には身に余る幸福で。
――でも、もう少しだけ、享受させてね。
ふと手を引かれ、快斗がトイレの扉を開ける。
内部は豪華列車のため広く、鏡付きのフィッティングボードも備え付けられていた。
「ちょっ、ここトイレ――」
「いいから。寒いだろ?」
扉を閉められ、鍵がかかる。さらに壁を背に抱き寄せられ、私の心臓は小刻みに跳ねた。
外より暖かい空気が漂い、でもそれ以上に、快斗の胸の熱に包まれて、身体の芯まで温まっていく。
(……あったかい……すごくドキドキする……)
「……あっためるから、じっとして」
彼の囁きは低く、優しくて、甘い。
私の頬は自然と赤くなり、耳まで熱を帯びた。
「っ……」
「……はぁ……あったけぇ……最高……♡」
私の胸の奥がじんわり熱くなり、快斗に抱かれながら自分でも驚くほど体温が上がっていくのを感じた。
(……こんなに近くにいると……どうしよう、心がふわふわして……何も考えられない……)
距離が近づけば、空気が甘くなるのは自然なことで。
でも、胸の奥では別れの予感が常につきまとっていて――。
(……もうすぐお別れだけど……でも、今は……今だけ……ごめんね)
「……か、快斗……?」
「……うん」
快斗の“うん”という声に、私は少し首をかしげる。
“素早くあっためる方法”はたぶん、ハグじゃないと思うの。
これでも温かいからこのままでも……と、彼の優しさに胸が熱くなった。
「? ね、早くしてみてくれる?」
小さな声でそう言ってみる。
すると快斗の瞳が揺れた気がした。熱い眼差しで見下ろされ、私の心臓がどくんと大きく高鳴る。
内心では、まだまだ甘えたい気持ちと、これ以上はだめかもという遠慮が混ざって。
(……ドキドキする……でも、快斗なら……信じていいよね……)
「――ンッ!」
快斗の顔がそっと耳に近づく。耳を食まれて私の肩は勝手に震えて、甘い声がもれた。
「花梨は……オレが触れると、すぐ熱くなるって知ってる……?」
「んん……っ、し、知らない……ふ……ぁぅっ、くすぐったぃ……!」
ぺろっと耳に彼の舌が滑り、ぞくりとする。
耳や首筋にキスが落ちるたび、身体が熱を帯び、心まで熱くなっていく。
でも、席で待つ青子のことや、この後のお別れを思い、胸が締め付けられた。
(……快斗……ずっとこうしていてくれたらいいのに……)
息が上がり、唇を重ねる瞬間、甘さと少しの切なさで胸がいっぱいになる。
トイレという密室で、二人だけの時間が少し長く感じられて――でも、終わりが近づいていることもわかってしまって……。
(……快斗……もう少しだけ……ううん、ずっとこうしていられたら……)
「ンン……」
「はぁ……ここでしちゃう?」
見上げると、私の腰を支える快斗の目が優しく揺れている。
でも私は、人差し指をクロスさせて×印を作った。
「ン……それはちょっと……。トイレは嫌だよ。それに、そろそろ戻らないと青子ちゃん、心配してるんじゃないかな?」
「う……だ、だよな……!」
私の言葉に、快斗は気まずそうに苦笑する。
……この人は、私が嫌だと言うと止めてくれる。
そんな、優しいひと。
私は胸の奥でほっとしつつ、少しだけ寂しさを覚えた。
(……これが最後だけど、でも快斗とこうしていられる時間……すごく幸せだな……♡)
じっと見上げると、快斗の瞳が満足げに、でもどこか切なそうに揺れる。
鏡を見るまでもなく、自分の首筋が熱い。
彼が刻んだ痕跡が、火を灯したように脈打っている。
……本当はしたかったのかもしれないな……。
快斗は、いつでも私とくっついていたいみたいだから。
昨日もそうだったし……
それでも彼は私を見下ろし、口角を上げる。
なにかに満足したように目を細めた。
席に戻ったとき、青子ちゃんに何て言われるだろう……頬がまだ熱い。
快斗の唇がゆっくりと近づいてきて――私は、そっと目を閉じた。