デッキで震えながら自分を待っていた花梨の姿に、快斗は愛おしさを募らせる。冷えた身体を「温める」という口実で彼女を連れ込んだのは、二人きりの密室。走行音に消される甘い吐息と、加速する独占欲の行方は――。
第165話
便秘て……。
◇
列車の揺れに身体を預けながら、快斗はゆっくりと通路を進む。
向かう先はサロン車だ。
前を歩く青子と花梨は、キャッキャッと楽しそうに会話をしている。
なぜ、サロン車に向かっているかというと、ことの発端は十数分前――。
*
「あ~、おっそ~い。二人してトイレに行って戻ってこないんだから~! 何してたのよ~。青子、花梨ちゃんといっぱいお話したかったのに」
席に戻った快斗と花梨に、青子は頬を膨らませてプリプリしている。
一人だけ席に座ったままで、つまらなかったらしい。
「わりぃ、わりぃ。ちょーっと便秘してて、難産で! 花梨が心配して待っててくれてさー。な~、花梨?」
「え? あ、う、うん……」
快斗が腹を撫でながら明るく大きな声で告げると、乗客たちの何人かが彼に注目した。
事の内容があまりに品性下劣な嘘であること、そして実際の“遅れた理由”は、もっと濃密なものだったことへの罪悪感で、花梨は居ても立ってもいられない心地になり、上気した顔を伏せて小さく頷く。
そんな花梨を、快斗はさっきの余韻もあってか、嬉しそうに見つめた。
「ちょ、便秘って……下品! そんなこと大きな声で言わないでくれる!? ほら、他の人たちが見てるでしょうが! 花梨ちゃんも、快斗なんて放っておけばよかったのに」
「あははは……」
「でも、花梨ちゃんはそういうことできないタイプだよね~。お腹とか腰とか擦ってあげてそう」
「そ、そうかなぁ……」
……快斗の腹や腰を擦ってはいない。
むしろ、快斗に擦られていたのは自分の方……なんて、口が裂けても言えない花梨は、気まずさで顔を伏せ、苦笑しながら席に着く。
「お腹ナデナデかぁ~、それいいな♪ 今度、腹痛くなったらお願いしよっかな♪」
「っ……」
快斗も席に着き、片目をぱちんと閉じて、花梨の返事を待たず、背もたれに身を預けた。
「甘えん坊かっ!! ったく、花梨ちゃんにあんまり迷惑かけないのよ!? 迷惑かけて嫌われても、青子知らないからね!」
「へーいへい、わーってるよ! オレの花梨はそれくらいでオレのこと嫌ったりしねーの! な~?」
花梨を間に挟み、青子と快斗の言葉の応酬が始まる。
快斗から同意を求められた花梨は、口元に両手を添えてくすくすと笑った。
「ふふっ(また始まっちゃった。幼なじみだと、こうなりやすいよね)」
自分も新一と、たまにこうなることがあるなと、ふと思い出す。
どこでも言い合いが始まってしまうのは、幼なじみゆえなのかもしれない。
二人のやり取りは続き、花梨は聞いているだけだったが、楽しくて止める気になれなかった。
「――だいたい、あんたはねぇ~!」
「青子ストップ! 他のお客さんに迷惑だぜ。オレ、ちょっと寝るから静かにしろよ。……花梨ちゃん、おやすみ♡」
いつの間にか怒りだし、声が大きくなっていた青子に、快斗は「しー」と口元に人差し指を持ってくる。
そして花梨にウインクを飛ばして目を閉じた。
「ちょっと、バ快斗ォ! まだ話は終わってな――って、寝たぁーー!?」
青子は思わず立ち上がり、快斗が腕組みして俯く様子に憤慨する。
「あ、青子ちゃん……」
「ん? ――あっ……す、すみません……」
花梨はヒートアップした青子の袖を、そっと引く。
彼女の制止に、青子は自分に周りの視線が集まっていることにやっと気づき、おとなしく席に腰を下ろした。
「ごめんね、花梨ちゃん。うるさかったよね? それもこれも快斗のせいなんだけど……」
「ふふふ、大丈夫だよ。青子ちゃんの声、好きだから。少し音量は控えめで、お話たくさん聞かせて?」
「うんうん! 花梨ちゃん……♡ ね、ね、このカタログにあった小物なんだけどね……」
優しく微笑む花梨に、青子の頬はぽっと赤く色づく。
青子は、花梨たち不在時に見つけた小物を教えるべく、車内カタログを広げた。
(……あーあ、花梨にちょーっと褒めてもらったからって、青子のやつ、現金だなぁ……)
……寝たと思われた快斗だったが、実は眠ってはいない。
快斗は花梨たちをちらっと見て、片耳に青子のウキウキと弾む声を捉えつつ、もう片方は装着したイヤホンの音声を聞き取っていた。
先ほど、女王の個室で仕込んできた盗聴器の調子はばっちりだ。
快斗は、イヤホンから流れる声に集中した。
『――怪盗キッドという、盗賊の事ですわ!!!』
偽物のクリスタル・マザーに仕込んだ盗聴器から、セリザベス女王の声が聞こえる。
その周囲で話す者たちの声も拾い、「お気に召しましたか? 女王陛下……」と、最初は豪華列車ロイヤル・エクスプレスの話をしていたのだが、話題はキッドのことに発展していた。
『ええっ、キッドと会われたのですか!?』
『ほ、本当ですか陛下!!!』
『な、中森君』
女王の声に混ざり、見知らぬ男の声と、中森警部の声を拾う。
中森警部が近づいたのだろう、声が大きく聞こえた。
その直後、何かしらの金属音がカチャカチャと一斉に鳴る。音声のみのため、何が起こっているのかはわからない。
「っ!(青子のオヤジ、声デケー……)」
中森警部の声に驚き、快斗の肩がわずかに揺れた。
女王が「下がりなさい!」と言っていたので、SPたちが中森警部に向けて銃を構えたのかもしれない。
彼女のSPは日本だというのに、外交官特権で許可を得ているようだ。
そういえば女王の個室から逃げる時、銃を構えていたなと思い出した。
『あ、あのだからキッドはそのぉ……』
中森警部の声が少し小さくなった。
『ええ……我がイングラム公国の宝を盗みに参られましたの……。ヨーロッパ最大のトパーズである……この“クリスタル・マザー”をね!!!』
セリザベス女王の話に「なんという事だ! やはり大使館に届いた予告状は本物――」と、嘆く男の声と、「なぜ奴はその宝石を持ち去らなかったんですか?」という中森警部の声が聞こえる。
女王の声に含まれる緊張、警部の慌てた声、周囲の金属音――情報のひとつひとつが、宝の位置や警備の手順を示す手がかりだ。
『フフフ……一目見てきっと彼にもわかったんですわ……。これが偽物だと……』
「フ(……その通り)」
快斗は女王の見解にうんうんと深く頷く。
大使館にあった物は偽物だった。女王の個室の物も偽物。
二度、悔しい思いをしているのだ。
……今夜こそ、本物と対面してみせる。
『に、偽物!?』
『ええ……本物は別のところに隠してありますわ……』
『ど、どこに?』
快斗は、女王に尋ねる中森警部が、まるで自分の代弁者のように思えた。
「……くくっ(青子のオヤジ、ナイスだぜ♡)」
これで、女王が本物の在り処を教えてくれれば、それを狙うだけでいい。
目標の位置さえわかれば、盗むことは容易い。
そう思ったが、続く女王の言葉でそれが叶わないことがわかった。
『それは警部さんにもお教えできませんわ……この列車のどこかで
当たり前だが、本物の在り処は警察にも知らされていない。
……さすがは二度も偽物を掴まそうとした人物である。
(まぁ、そうだよなぁ……)
快斗は「ふぅ」と小さく息を吐く。
その間に中森警部が、警官たちに乗客のチェックを指示したが、女王がそれを制した。
イングラム公国のために、他の乗客たちに迷惑をかけることを良しとしていないようだ。
『これは彼と私の勝負……この列車が大阪に着くまであと二時間半……それまでに――』
“国の名誉を賭けた一騎打ちですわ!!”
女王の凛とした声に、快斗は不敵な笑みを深くした。
(受けて立ってやるぜ、女王陛下……!)
……大阪到着まで、残り二時間半。
運命の歯車が、静かに加速を始めていた。