▽前回のあらすじ
事件後の個室で、快斗は花梨の首の痕を魔法(メイク)で消し、一か月記念のシトリンのネックレスを贈る。「絶対守る、なんでも解決してやる」と震えながら誓う快斗。その熱い言葉と献身的な愛に、花梨は救われながらも、彼を守るために独り去る決意を深めていく。交わらない二人の祈りが、夜の静寂に溶けていく。
第175話
ニンニン。
◇
「はぁ……ン、も、もう、サロン車に戻らなきゃ……」
身体の痛みも、涙も凪いで、花梨は快斗の腕から逃れるように胸を押す。
いつの間にか、ちゅ、ちゅっ、と小さな水音を立て、互いの唇が触れていた。
想いは交わらなかったが、触れ合う唇だけは磁石のように自然と重なって……。
「ん……もう少し……♡」
「もぅ……快斗ってば……ンン……」
快斗とのキスは心地いい。
この瞬間だけは、なにもかも忘れられて、幸せな気分に浸っていられるから。
花梨は未だ別れを言い出せず、快斗にされるがままだ。
……そんなとき。
“ドンドン!!”
誰かが部屋の扉をノックした。
「チッ」と、快斗が舌打ちをする。
扉の向こうで「カーリーン!!」と、花梨を呼ぶフィリップの声が聞こえた。
「あーあ……。王子が来ちまったかぁ~」
「フィリップさま?」
「そ。ここ、王子の個室だからな」
快斗はつまらなそうに、下ろしかけた花梨の背中のファスナーを元に戻した。
「あ。そういえばそうだったね」
「歩けそうか? キスして腰、砕けてない?」
「へ……? んもぅ! えっち!」
「へへへっ♡ だぁ~って、花梨ちゃん、キスしてるとすぐ力抜けちゃうじゃん?」
花梨がぷくっと頬を膨らませるのを、快斗は嬉しそうにからかう。
けれど、ふと指先が彼女の首元で跳ねる小さな光――自身が贈ったシトリンに触れたとき、快斗の瞳から茶化すような色が消えた。
(……似合ってる。世界中のどんなビッグジュエルより、今の花梨にはそれが一番だよ)
その目といったら優しげで、うっとりしているようで……。
まるで、世界でたった一つの宝物を見つめるコレクターのような、それでいて、ただ一人の少女を愛おしむ少年のようだった。
「そういうこと言わないの~っ! フィリップさまに聞こえたらどうするの……!?」
「聞かせといたほうがいいだろ?」
「えぇ~?? ダメだよ。そういうの、情操教育によくないよ?」
「情操教育って……真面目か! あいつ、お前のこと妃にするって言ってんだぞ? 子どもは何人がいいかって言ってたの、花梨も聞いただろ? 最近のガキは、はえーんだよ……」
「そんなこと言ってたかなぁ……? って、未成年に変なこと教えちゃダメ」
「オレらも一応、まだ未成年だけどな……」
「そうだけどっっ!!」
快斗と言い合っていると、再び“ドンドン、ドンドン!!”と扉を叩く音――。
『ちょっと兄ちゃん! ボクのカリンに変なことしないでよ!?』
こもった声が扉の向こうで聞こえた。
「ほらな? ってか、オレの花梨だっつーの!!」
快斗は立ち上がり、扉へ。
扉を開けると不機嫌なフィリップが入ってくる。
二人はそのまま言い合いを始めてしまった。
「……二人ともなに言い争って……あ! フィ、フィリップ様!!」
「だーかーら! 兄ちゃんはカリンのことなにもシラ……ん? なにカリン?」
快斗と言い争うフィリップに花梨は慌てて声をかける。
……親戚のことは、快斗には秘密だ。
フィリップも女王のように、頼めばきっと、黙っておいてくれるはず。
けれど、快斗の目の前で説明するのは難しい。
それでもどうにか伝えてみよう。
花梨は自分を見る快斗を横目に、フィリップに続けた。
「あの……私……」
「……
花梨は、快斗に悟られないよう、安堵のため息を喉の奥で飲み込んだ。
「あ……ありがとうございます……」
ありがたいことに、フィリップは女王から花梨の事情を聞いて、黙っていてくれるらしい。
花梨は頭を深々と下げた。
「なぁ、花梨ちゃん。今、王子、なんて言ったの?」
にこにこと、快斗は不機嫌な笑みで尋ねる。
……目が笑っていない。怪盗としての「目利き」が、二人の間の隠し事に敏感に反応していた。
「え? あ、んと……」
「喧嘩してるわけじゃないから大丈夫だよっ、て言ったの!」
気まずさに、ぱっと目を逸らす花梨。
そんな彼女に助け船を出すように、フィリップがズイッと花梨と快斗の間に身体を滑り込ませた。
「は? 日本語で言えるなら、はじめから言えよ。ってかお母さんに、なに聞いたんだよ? ぜってえ違うだろ」
「っ、お国言葉はとっさに出ちゃうものじゃん! それより、青子さんだっけ? 彼女のグラスに宝石返しとくなら言っといてよね! 彼女、起きて宝石があったらびっくりするよ!?」
フィリップは、ここに戻るとき、眠る青子の横を通り、グラスに不自然に大きな氷が入っているのを見て、おかしいと思っていた。
違和感を覚えつつ、自分の個室の前まできてやっと、“あれはクリスタル・マザーだ!!”と気がついたのだ。
「しゃーねーだろ。オレが女王に近づいたらおかしいだろうが」
「他にもっとスマートな返却方法とかないの!?」
再び始まる言い争い。
なんだか仲がよさそうに見えるのは気のせいだろうか。
花梨は目をぱちぱちと瞬かせ、様子を見守る。
「るせーなぁー! 返してやったんだから文句言うな」
「泥棒のくせに、生意気だよ! ボクが兄ちゃんの命綱、握ってるってわかってんの?」
「へーへー。そいつはすんませんでしたー! 言いたきゃ言えばいーだろ?」
快斗は頭の後ろで手を組みながらベッドに戻ってきて、どっかりと腰を下ろすと、足を組む。
すぐにフィリップも駆け寄り、ぴょんと跳ねて、隣に腰かけた。快斗と同じように頭の後ろに手を組み、足も組む。
そして、にこっと快斗を見上げた。
「言わないよ……!」
「な、なんでだよ」
「兄ちゃんは、お母様とボクを繋いでくれたし、カリンの大事な人だから……」
“癪だけどね……!”そう付け加えて、フィリップは花梨をチラリ。
花梨は一人、まだ立ったまま、ただ目を瞬かせている。
「お前……わかってんじゃん……」
「ところで、キッド! キッドはニンジャみたいな動きをするよね! 手裏剣とか持ってたりするの?」
王子の無邪気な問いかけに、快斗の顔が引きつった。
すでにモノクルもシルクハットも脱ぎ捨て、黒羽快斗としての姿に戻っているというのに、この王子は火に油を注ぐようなことばかり言う。
「……持ってねーよ。っつーか、その名前で呼ぶんじゃねえっ!! いいか、オメー。外でそんなこと一言でも言ってみろ! 煙に巻いて即刻“どろん”すっからな!?」
「えーっ! やっぱりニンジャじゃん! 忍術で消えるんでしょ!?」
「ちげえっっつーの!! オレはマジシャンだっ!!」
必死に否定すればするほど、フィリップは目を輝かせて快斗の袖を引っ張っている。
さっきまでの緊迫感はどこへやら。
まるで懐いている弟をあしらう兄のような快斗の姿に、花梨は思わず「ふふっ」と声を漏らして笑った。
「あはは……。仲良しだね、二人とも」
「どこがだよっ! 花梨、お前からも言ってやってくれ。こいつ、マジで外でバラしそうなんだよ……」
快斗が助けを求めるように視線を送るが、花梨は優しく首を振った。
心身ともにボロボロだったはずなのに、この賑やかな喧騒が、今は何よりも心地いい。
「ううん、大丈夫だよ。フィリップさまは言わないよ。……それじゃ、私は一足先にサロン車に戻ってるね。青子ちゃんも心配してるだろうし」
「……ああ。気をつけてな。もうなんもないと思うけど、変な奴がいたらすぐ叫べよ?」
快斗はフィリップに袖を引かれながらも、花梨に向かってだけは、もう一度あの真っ直ぐで優しい瞳を向けた。
「うん。……また後でね、快斗。フィリップさまも、また後で!」
花梨はネックレスにそっと触れ、二人に手を振って個室を後にする。
扉が閉まる直前まで、『ニンジャ! ニンニン!』『マジシャンだっつーの!』という賑やかな言い争いが聞こえていた。
(……よかった。快斗も、笑ってる)
一人になった通路で、花梨は深く息を吐いた。
首元の痕は、快斗の魔法できれいに隠されている。
けれど、彼が贈ってくれたシトリンの温もりだけは、隠しようもなく花梨の胸を温め続けていた。