▽前回のあらすじ
水曜日、花梨は東雲セキュリティを訪れ、警護契約の解除を申し出ていた。引き止められながらも静かな想いで周囲を動かし、ついに“盾”を手放した。その決断の裏にあるのは、大切な人々を守るための覚悟――彼女は孤独な一歩を踏み出した。
第180話
ストーカーであることは、間違いないんだよね…。
頼もしい盾を失った水曜日を思い出していた花梨に、快斗は眉を寄せる。
「どこに!? それらしい人、全然見なかったんだけど!?」
「えと、今は見えないけど、近くにいると思う。快斗がそばにいるから、安心してさぼっちゃってる……とか?」
「はぁ? それ、プロ失格だろ」
「あははは……だね……」
乾いた笑いを返しつつ、花梨の心拍数は跳ね上がっていた。
快斗の鋭さには、思わず参ってしまう。
早く彼から離れないといけないというのに、こうしてついてくるなんて想定外だった。
スーツケースも快斗が持っている。
花梨は彼の手によって、ガラガラと音を立てて引かれるそれが、自分を現世に繋ぎ止めようとする鎖の音に聞こえた。
(スーツケースは……置いていってもいっか……)
本当は、快斗の元に荷物を残すことが心苦しくて堪らない。
中に入っているのは、彼と一緒に過ごすはずだった“明日”のための着替えと、わずかな荷物。
快斗の目を誤魔化すためもあるけれど、一緒に過ごすことができたなら……。
そうなったらいいなと思って詰めたもの。
(ごめんね、快斗。……あなたの手から、それを奪う勇気は私にはないや……)
今の花梨にとって、命より大切な彼との「未来」を切り捨てることに比べれば、鞄一つ失うことなど、些細なことだった。
来た通路を戻り、すでに閉まっている案内所の前を通り過ぎる。
視線の先にトイレの表示が見えて、そこに向かった。
「……じゃあ、ちょっと行ってくるね」
トイレ前に着き、花梨は快斗の腕に軽く触れ、微笑む。それから彼の手の中にある鞄の持ち手を、愛おしそうに一度だけ撫でた。
「快斗も行っておいたら?」
「ん? そうだな。先に出たらちゃんと待ってろよ?」
「うん、そこで待ってればいいかな?」
花梨はトイレを出た正面のガラス壁を指差す。
「……おう。けど、花梨は目立つから、トイレの中のほうが安全だ。女子トイレの中にいて。終わったらスマホで呼ぶ」
「わかった! あ、荷物」
「ははっ、いーよ。オレが預かっとく」
「……ありがと」
二人同時にトイレに向かう。
やはり、快斗はスーツケースを手放さなかった。
花梨は、快斗が男子トイレに入ったのを確認してすぐ、女子トイレから飛び出す。
早くこの場から逃げなければ――。
花梨に迷いはなかった。
全速力で振り返らず、走った。
(……快斗、ごめんね。私と関わったばかりに、家の事情に巻き込んでしまって。でも、もう大丈夫だからね)
快斗に気づかれたらすぐに追いつかれてしまう。
いつも追ってくる知らない“誰か”とは違って、今は皮肉にも、彼が一番恐ろしい追っ手のように思えてくる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
どっちへ走ればいいのだろう。
花梨が住んでいた頃と、大阪駅もすっかり変わってしまって、ただでさえ方向音痴だというのに、さっぱりわからない。
ひとまず駅から出て、待ち合わせ場所に行かなければ――。
改札に近づくにつれて、人の流れが多くなってきた。
家路を急ぐ人、スマホを見ながら歩く人、電車の時刻を気にする人。
誰も彼も、走ってきた花梨を気にする様子はない。
そこにすっと紛れ込めば……。
これなら快斗が気づいたとしても、すぐに自分を見つけ出すのは難しい。
「はぁっ、はぁっ……」
走るのをやめ、人混みに合わせて歩きへと変える。
“連絡橋出口”まで来たそのときだった。
『花梨ーー!!』
離れた場所から、快斗の声が聞こえた気がした。
それは怒鳴り声というより、迷子を捜す悲痛な叫びに似ていた。
振り返りそうになる首を、溢れそうな涙ごと前方に固定する。
心臓が、早鐘のように肋骨を叩く。それが恐怖なのか、それとも彼に応えたい本能なのか、自分でもわからない。
走っていたときは気づかなかったが、さっきから、スマホのバイブレーションが止まらない。
ポシェットの中で震え続けるそれは、快斗の叫びそのもののようで、逃げる彼女の足取りを、重い
「っ! ごめんね。ごめんなさい……!!」
花梨は眉をしかめて再び走り出す。
(このままじゃ、捕まっちゃう! そしたら、快斗が。青子ちゃんが……!)
……改札を抜けて、いったんホームに下りてしまえば。
慌てて交通系ICカードを取り出そうと、ポシェットに手を突っ込んだ。
そちらに気を取られた拍子に――。
“ドンッ!!”
急に大きな壁――いや、人にぶつかってしまった。
「あ、スマン。大丈夫か?」
「いたっ……いえ、こちらこそ、よそ見しててすみま……あ。うそぉ……平……ちゃん?」
花梨は思い切りぶつけた鼻を擦り、頭を下げてから、大きな瞳を一際大きく丸くした。
相手も同じように目を大きく見開いている。
「え? …………ウソやろ……その声……か、花梨か……!? いや、けど、花梨は黒髪やったやろ……けど、こんな綺麗な目ぇしとるやつ、花梨くらいしか知らんし……声も……」
懐かしい顔に、絶望の淵で掴んだ蜘蛛の糸を見るように、花梨の口角が震えながら上がった。
ぶつかった彼は、小学校時代に世話になった【服部平次】――西の高校生探偵と呼ばれる、新一とはまた違う幼なじみだ。
平次はほんのり頬を赤くして花梨をぼうっと見下ろした。
固まる平次の袖を花梨はぐっと強く掴む。
「っ、平ちゃん! お願いっ! うち、ストーカーに追われてんねん!」
「っ!? やっぱ花梨か! また追われとるんか!? よっしゃ任しとけ! これとこれ、貸したるから着とき!」
大阪にいた時も、花梨は何度かストーカー行為を受けている。
和葉とともに家まで送り届けたこともある平次は、すぐに着ていたジャケットを脱いで花梨に渡し、帽子を外して被せた。
(昔もそこそこ可愛かったけど……変わりすぎやろ……あんながりがりで貧相やったのに、なんや、肌艶も良うなって……ええ匂いするし、めっっっ――ちゃっ可愛くなっとるやんけ……!!)
くるりと身を翻し、自分の背に花梨を隠しながら、その変わりように胸を高鳴らせる平次。
平次の前には複数の駅員と、床に身体を伏せ、取り押さえられている男の姿がある。
どうやら平次は何かの事件と遭遇し、その場に出くわしていたらしかった。
「服部君、ご協力感謝やで。警察呼んだからもう行ってもらってええで」
「あ~、すんません。この子、ちょっと匿ったってくれへんか? なんや男に追われとるらしいねん」
「はぁ……綺麗な子やな。ええよ、追ってきた男から隠せばええんやな?」
「おおきに!」
駅員の一人が平次の元にやって来て、状況を説明するが、平次は花梨を匿うように手を合わせて頼みこむ。
駅員は花梨をちらっと見て目を瞬かせ、すぐ納得したように二つ返事で了承した。
「ほな、あの中にしばらくおったらええわ。お嬢さん、行こか」
警察が到着するまで、駅員たちは犯人を取り囲んだまま待機するらしい。
野次馬も多いし、その中へどうぞ……ということのようだ。
「花梨、駅員さんたちの中に隠れとき。オレもおるし、ちゃんと守ったるから、顔、伏せときや?」
「へ? あ、う、うん……!」
花梨はにっこりと微笑む平次に促され、駅員たちの中へと紛れ込ませてもらった。
駅員たちの背中が、花梨をぐるりと取り囲む。それは温かい善意の壁のはずなのに、なぜか花梨には、自分を快斗から永遠に分断する、冷たい檻のように感じられた。