白月の君といつまでも   作:はすみく

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-- Spring, about 17 years old

▽前回のあらすじ
必死に自分を捜す快斗を間近でやり過ごした花梨は、平次にその「嘘」と「愛」を見抜かれる。快斗の絶望的な形相に違和感を覚える平次に対し、花梨は偽りの留学を告げ、彼をこれ以上巻き込まないために独り孤独な決別を誓っていた。

第182話
届かないのです……。


182:断絶 ― 届かぬ声と一メートルの距離 ―

 

 

 

 

 ピピピピ……。

 静かなカフェの店内に、無機質なアラーム音が響く。

 

 花梨は慌てて鞄からスマホを取り出した。

 手の中のスマホには、快斗からの着信履歴が“50件”という恐ろしい数字で表示されている。

 今は落ち着いているようだが、いつまた振動するかわからない。

 

 震える指でアラームを止め、通知を確認する。画面には、『22時、大阪駅桜橋口』と書かれていた。

 花梨には、それが運命のカウントダウンのように見えた。

 

 

「ん……? 時間か?」

 

 

 向かいに座る平次が、そのメッセージを盗み見る。予定されていた“コーディネーター”との待ち合わせ時間だと思い込んだ平次は、もう時間なのかと眉を下げた。

 

 

「あ、うん……」

 

 

 花梨は平次に見つからないように、そっと、スマホの電源を長押しする。

 電源が切れた途端、辛うじて繋がっていた、快斗の温もりが途絶えた気がした。

 

 

「そうか……ほな、出よか。元気でやるんやで?」

 

「うん、平ちゃんも元気でな」

 

 

 店を出て、人混みが流れる駅のコンコース。快斗の声は聞こえない。

 花梨が静かに背を向けて去ろうとしたその時、平次がたまらず彼女の背中を呼び止めた。

 

 

「……なあ、花梨っ」

 

「ん……?」

 

「は、は……」

 

 

 振り返った花梨を前に、平次は何かを言いかけては飲み込み、くしゃみが出そうで出ないような、ひどく複雑で不格好な表情を浮かべる。

 

 

「ん? くしゃみ?」

 

「ちゃうわボケェ! ……あいつとは、その、きっぱり別れたっちゅーことやろ!? 景気づけや! ハグしてもええか!?」

 

「ハグっ!?」

 

 

 予想外の提案に花梨は目を丸くしたが、すぐにふわりと、この日一番の柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

「……ふふっ、ええよ? はい」

 

 

 花梨が子供のように、大きく両腕を広げる。

 平次は一瞬たじろぎながらも、意を決してその細い体を腕の中に閉じ込めた。

 

 昔も小さかったが、今もやっぱり小さい。

 けれど、かつての“鶏がら”のようだった貧相な感触はなくなり、確かな命の温もりがそこにあることに、平次は心の底から安堵した。

 

 

「っ……おおきに! ……頑張りや? しんどなっても、絶対に諦めたらあかんで?」

 

「ん、平ちゃん…………おおきに。最後に会えてよかった。ほんまに感謝してる」

 

 

 平次の腕の中で、花梨は吸い込まれるように彼の胸に額を預ける。

 いつも、ひもじい時に食事を分けてくれた、頼もしい幼なじみ。

 時に厳しく、だが誰よりも真っ直ぐで優しい彼。

 

 

(どうか、平ちゃんと和葉ちゃんが、いつまでも元気で……幸せに暮らせますように)

 

 

 言葉には出せない、届くはずのない“遺言”を、抱きしめる腕の力に込める。

 それが自分にできる、この世界への最後の恩返しだと言わんばかりに。

 

 

「っ……っ……ちょ、か、花梨……お前っ……!」

 

 

 不意に花梨からも強く抱きしめ返され、平次の思考は真っ白に弾け飛んだ。

 顔が沸騰しそうなほど赤く染まり、動くこともできずにその場に固まる。

 

 

(あかん、これはあかんやつやろ……いや、オレからハグしよう言うたんやけども……!)

 

 

 平次が一人でパニックに陥っている間に、花梨は静かに腕を解いた。

 その瞳には、未練も恐怖も消え、ただ透き通った決意だけが宿っている。

 

 

「ほなね、平ちゃん」

 

 

 ひらひらと手を振り、彼女は笑顔を見せて雑踏の中へと消えていく。

 背を向けようとした一瞬、垣間見たその笑顔が、平次にはなぜか儚く見えた。

 

 

(花梨……? なんや、その諦めたような顔……留学……楽しみなんとちゃうんか……?)

 

 

 花梨の背を見送る平次は、このまま彼女を行かせていいのか、躊躇う。

 

 ……最初から違和感はあった。

 彼氏から逃げ、これからコーディネーターと会って、そのまま出国する。

 

 花梨の荷物は、元カレが持っているのに……?

 

 カフェで、ふと気になった平次が尋ねてみれば――

 

 

『花梨、お前の荷物、あいつが持っとったけど、ええんか?』

 

『うん、大したものは入ってへんねん……現地で調達したらええかなと思て』

 

『ふーん……』

 

 

 父親を亡くした花梨は、母方の親戚に引き取られていったと聞いている平次。

 小学時代の花梨は、いつもヨレヨレで汚れた服を着て、たまに匂いも酷かった。今はずいぶん経済状況がよくなったのだなと、彼女の汚れのないコートと、甘く良い芳香に改めてそう思った。

 

 荷物は、快斗に捕まると厄介だからなのだろう。

 あえて手放した……ということか。

 

 そこまでして、あの彼氏と別れたいと思っていたのか……だが、さっき一瞬見せた笑顔は、あまりにも悲壮感が漂っていた気がする。

 

 ……彼女は「留学が楽しみ」だと言っていたのだ。

 

 

「オレは……花梨、お前を信じとるからな……」

 

 

 平次には、花梨の門出を見送ることしかできない。

 

 いつか、このときのことを後悔する日がくるなんて思いもしないまま、平次は、自分の胸に残った温もりを噛み締め、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 背中に感じる平次の視線を振り切るように、花梨は桜橋口へと向かう。

 

 

「快斗は今、改札の外だから、ここを通らないよね……」

 

 

 言葉を発しながら思う。胸に残る温もりと、耳の奥でリフレインする「諦めたらあかんで」という励まし。

 

 

(……うん。諦めないよ、平ちゃん。私が、私でいられるように。快斗の未来を守り抜くために)

 

 

 人混みを縫うようにして、花梨は駅の西端にある桜橋口へと向かった。

 改札を抜け、高架下へと続く階段を下りると、そこには独特の湿り気を帯びた夜風が吹き抜けていた。

 

 目の前には、延々と列をなすタクシーの赤いテールランプ。

 ガード下で走り去る電車の轟音が頭上で響き、コンクリートの壁を震わせている。

 

 花梨は、タクシー乗り場に背を向け、高架下の横断歩道へと向かった。

 

 信号は赤。

 だが、花梨が横断歩道の前に立ったと同時に、路面に描かれた、剥げかけた白い自転車の標示を塗りつぶすように停車していた車から、二度、パッシングが放たれた。

 

 

(パッシング……?)

 

 

 三車線ある広い通りの左端、街灯の光を吸い込むような、艶やかな漆黒のボディ。

 後続車のクラクションを無視し、重厚な質量をもってそこに鎮座するその黒い影は、まるですでにそこにあることが決定事項であったかのように、音もなく横付けされていた。

 

 アスファルトを叩く自分の足音だけが、やけに鮮明に鼓膜を揺らす。

 黒塗りの車体の前で足を止めると、重厚な機械音と共に、後部座席の窓が静かに滑り落ちた。

 

 

「……時間通りやなぁ。感心したでぇ、花梨」

 

 

 安物の香水とヤニの臭いが、窓の隙間からねっとりと漏れ出した。

 そこに座っていたのは、かつて伯母を殴り飛ばし、幼い花梨にもその汚れた手を上げた男――【長谷部(はせべ)竜哉(りゅうや)】だ。

 

 彼は、高級そうなスーツを身に着けてはいるが、着崩して……ワインでも飲んでいたのか、シャツに黒い染みがついている。“着せられている”といった言葉が似合うほどに浮いていて、似合っていない。

 髪も、ぺったりとワックスで固めて後ろに流し、揃えていない無精ひげ。指で持ち上げたサングラスには、宝石が埋め込まれている。

 

 小さく切れ長な瞳が、花梨を冷たく射抜く。

 

 同居していたとき、彼はラフなシャツに短パン姿。

 髪型は無造作ヘアだったが、初めて出会ったときは、人当たりの良さそうな笑顔を見せていた。

 

 彼が捕まって、離れたときから……少し痩せたような気がする。

 

 

「……約束、守ってくれるよね。私が行けば、快斗たちには手を出さないって」

 

 

 花梨の声は震えていたが、その瞳は平次の「諦めたらあかんで」という言葉に裏打ちされた、消えそうな、けれど確かな光を宿していた。

 竜哉は黄色く濁った歯を剥き出しにして、愉悦に肩を揺らす。

 

 

「あぁ? ……あんなガキども、ワシの知ったこっちゃあるかい。お前が『商品』としてちゃんと役に立ってくれりゃあな」

 

 

 バタン、と重々しい音を立ててドアが開く。

 竜哉は革張りのシートを軽く叩きながら、花梨を中へ促した。

 

 

「ほれ、乗りぃな。ええ車やろぉ? お前の親父――朔太郎が死んで、ワシに苦労かけさせた分、娘のお前が埋め合わせせんとなぁ……ひっひっ!」

 

 

 その下卑た笑い声が、夜の乾いた駅前に嫌らしく響く。

 花梨は吐き気を堪え、死地へ向かう覚悟でその漆黒の車内へと足を踏み入れた。

 

 革の匂いと竜哉の体臭が混ざり合う閉塞感。

 肺の奥まで侵食してくるような不快な臭いが、かつて味わった暴力の記憶を無理やり引きずり出してきた。

 

 ドアが閉まる直前――。

 

 

『花梨ーーーーーっっ!!!!!』

 

 

 遠く、駅のコンコースの方から、喉を引き裂くような叫びが夜空に響いた。

 聞き間違うはずのない、大好きな人の声。

 

 

「……っ!(快斗!)」

 

 

 反射的に外へ飛び出そうとした花梨の肩を、竜哉の太い腕が強引に座席へと引き戻す。

 

 バタンッ。

 

 無慈悲な音が響き、ロックがかかる。

 

 

「あぁ? 何や、まだ未練があるんか。往生際が悪いなぁ……」

 

 

 竜哉は鼻で笑い、パワーウィンドウのスイッチを入れた。

 ウィィィィ……と、冷淡な機械音と共に上がっていく分厚い防音ガラス。

 

 その向こう側で、人混みをかき分け、狂ったように自分を捜す快斗の姿が、一瞬だけ視界をよぎった。

 けれど、彼がこちらに気づくより早く、ガラスは完全に閉ざされる。

 

 彼の絶叫も、街の喧騒も、すべてはぷつりと途絶えた。

 

 残ったのは、気密性の高い車内に充満する、竜哉のヤニの臭いと――。

 もう二度と、あの日々には戻れないという、冷徹な静寂だけだった。

 

 

「かい、と……」

 

 

 愛しい人の声が遮断され、花梨の瞳から静かに一粒、落ちた。

 そのとき、ふと列車内で快斗が言っていた言葉を思い出す。

 

 

『オレが……! 絶対、守ってやるから……なんかあったら相談しろよっ!! なんでも解決してやるからさぁ!!』

 

 

 快斗に慎重に、かつ力強く抱きしめられて、花梨はあのとき、“仕方ない”と思っていた。

 何もせず、すべて受け入れるしかないと思っていた。

 

 けれど、快斗は。

 

 ……あれからもう、一時間は経っているというのに、ずっと走って自分を捜し続けている。

 どうしようもない、嘘つきの自分を。

 

 これまで快斗は、いつも、そばで守ってくれた。

 有言実行の人――。

 

 きっと、言葉の通り“守って”“なんでも解決”してくれるんだろう……。

 

 ならば、花梨は?

 自分はどうしたい……?

 

 考え始めてすぐ、車はゆっくりと走り出し、すぐに赤信号で停まった。

 

 

「っ、快斗……!」

 

 

 花梨は覚醒したかのように目を見開き、ドアノブへと手を伸ばした。

 平次が言ってくれた「諦めたらあかんで」は、きっと、快斗のことだ。

 

 彼を信じて頼ること――。

 

 生い立ちをつまびらかにし、それでも彼が、自分を選んでくれるのなら、すべてを話し、運命に立ち向かってもいいかもしれない。

 

 

『花梨ーーーーっっ!!!』

 

 

 ドアの向こうで聞こえなくなったはずの彼の声がかすかに聞こえる。

 

 

『花梨ーーっ! 花梨ーーっ!』

 

 

 快斗は何度も諦めずに名前を叫んでいる。

 

 

「かぃ……快斗……! か――」

 

 

 声が近くなって、花梨はドアノブに手を掛けたが、開かなかった。

 すぐにパワーウィンドウのスイッチに手を掛ける。窓がわずかに開いたものの、一センチもない。これでは出ることができない。

 ならば……と、返事をするように大きく口を開こうとしたが――。

 

 

「ン――っ!!!」

 

 

 横からぬっと伸びてきた手が強引に口を押さえ、片腕を捻り上げる。声を出すことすら阻まれてしまった。

 

 花梨は諦めずに、片手でもう一度ドアノブに手を掛け、今度は指先に力を込め、必死にノブを引いてみる。けれど、カチリと無機質な電子音が響き、内側からの自由は無残に奪い去られていた。

 

 

「あー、ハイハイ。暴れたら可愛いお顔が潰れるでぇ?」

 

 

 竜哉の太い指が花梨の頬に食い込む。その指に嵌められた、成金趣味な金の指輪と、埋め込まれた大粒のダイヤの角が、花梨の柔らかな肌を容赦なく抉った。

 暴力で手に入れた富の象徴が、今まさに彼女の自由を奪っている――その事実に、花梨は生理的な嫌悪感で吐き気を覚える。

 

 

「……っ、……っ!!」

 

「……何や、王子様に助けてもらうつもりやったか? 悪いなぁ、ここはお前の『家』や。外の世界の理屈は通じへんで」

 

 

 視界の端、夜の高架下で、必死に自分の名前を叫んでいる快斗の姿が見えた。

 彼はすぐそこにいる。手を伸ばせば届くはずの距離にいる。

 

 今まさに、横を通り過ぎようとしているというのに。

 

 声さえ上げれば、彼はきっと――。

 

 

『花梨ーーっ!』

 

 

 彼との距離は一メートルもない。

 黒いスモーク越しに、必死な形相で走る快斗の姿が歪んで見える。

 

 花梨は無我夢中でガラスに指を立てたが、冷たい硝子は彼女の悲鳴も、震える指先も、すべてを無慈悲に跳ね返した。

 この一センチの壁は、今の彼女には世界の果てよりも遠い断絶だった。

 

 刹那、花梨を拘束していた竜哉の手が離れたのも束の間、今度は強引に、座席のシートに上から頭を押さえつけられた。

 

 シートに埋まった花梨は頭を起こそうとするが、竜哉の力で顔を上げることができない。息が、苦しい。

 

 

「っ……! っ……!(快斗っ! 快斗っ!)」

 

 

 掌から漂う、むせ返るような安物の香水と、染み付いた重いヤニの臭い。それが花梨の鼻腔と喉の奥にねっとりと張り付き、酸素を奪っていく。

 かつて、この男に無理やり食事を口に押し込まれた時の絶望的な感覚が、鮮明なフラッシュバックとなって花梨を襲った。

 

 

「ふはははは!! そやそや、懐かしなぁ! お前、殴るより窒息させる方がおもろい動きしよったわ!! ほれっ、バタバタ~って暴れてみぃ!」

 

 

 シートに顔を押し付けられ、視界が火花の散るような赤色に染まる。後頭部を押さえつける竜哉の指が、まるでリズムを取るように小刻みに動いているのがわかった。

 彼は、花梨が苦しんでいる時間を楽しんでいる。一分一秒、彼女の命が削られていく感覚を、まるで上質なエンターテインメントでも鑑賞するように味わっているのだ。

 

 

「っ……(息が……)」

 

 

 強い力で押さえつけられた花梨は、呼吸を止められ、手をばたつかせる。

 

 昔――殴ることもあったが、殴る場所は大抵見えない場所。そして、眠っているときによくされたのは、鼻と口を塞ぐ嫌がらせ……。

 

 

「がははははっ!! 昔はカラス言うとったけど、今は白い髪やからか、ハトみたいやんけ!!」

 

 

 不意に、竜哉が花梨の髪を掴んで引っ張り上げた。

 

 

「っ……あぅっ……!」

 

「お別れ、しときや♡ ほな、さいなら~ってな?」

 

 

 強引に前を向かされ、花梨を捜し回る快斗が横断歩道を走っていくのが見える。

 信号が変わり、車は無情にも速度を上げ、愛しい人の背中を夜の闇へと置き去りにしていった。

 

 

(快斗…………さようなら……)

 

 

 花梨の瞳からまた一滴、涙が零れ落ちた。

 

 

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