白月の君といつまでも   作:はすみく

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-- Spring, about 17 years old

▽前回のあらすじ
絶望に沈む大阪の夜、快斗はプライドを捨て宿敵・工藤新一に電話をかける。自分と同じ声の主へ花梨の消失を訴える快斗と、その悲痛な叫びに変声機のダイヤルを回し、探偵として応じる新一。一人の少女の絶望を暴き出すため、離れた地にいる二人の「自分」が静かに共鳴し、反撃を開始する。

第185話
東京へ帰るよ…!


185:独りきりのスイートルーム

 

 

 

 

 大阪駅の喧騒が引き始めた一時間後。

 街灯の光がアスファルトに長く伸びる中、快斗は桜橋口の周辺を、亡霊のように彷徨っていた。

 

 

「花梨……どこだよ……。……嘘だろ……? オレを置いていくなよ……」

 

 

 俯き、焦点の合わない瞳で地面を見つめながら、彼は擦り切れたレコードのように同じ言葉を呟き続ける。

 その肩を、必死に探し回っていた青子が掴んだ。

 

 

「快斗っ! ……もう、こんなところで何してるの!?」

 

「…………青子。……花梨が、いない。……どこにも、いないんだよ……」

 

 

 快斗の生気のない声に、青子は胸を締め付けられた。

 中森警部たちとの合流を後回しにして、青子はフラフラと崩れそうな快斗を支え、彼が予約しているホテルへと半ば引きずるようにして連れて行った。

 

 本来なら、今頃はチェックインを済ませ、花梨と二人で“明日の予定”を笑いながら話し合っていたはずの時間。

 フロントで、花梨が手配したはずの予約内容を確認した瞬間――快斗の心臓は、氷を飲み込んだように冷えきった。

 

 

「……予約が、一件……? ……オレの分、だけ……?」

 

 

 花梨が「予約しておくね」と言っていたはずの部屋。

 だが、記録にあるのは黒羽快斗の名前で取られた一室のみ。葵花梨の名前は、宿泊者リストのどこにも存在しなかった。

 

 

「……あいつ、最初から……泊まるつもりなんて……なかったんだ……」

 

 

 チェックインカウンターの前で、快斗はその場に崩れ落ちそうになった。

 彼女が丁寧に畳んでいた着替えも、あの旅行ガイドブックも、すべては自分を安心させるための、精巧な“偽装”だった。

 

 「なんでも解決してやる」と豪語した自分を、彼女はどんな気持ちで見ていたのだろう。

 消える準備を完璧に整えながら、隣で笑っていた彼女の絶望を、自分は一ミリも理解できていなかった。

 

 

「快斗、しっかりして! ……花梨ちゃん、コーディネーターさんと会って、そのまま明日出発だって言ってたじゃない。だから、自分の部屋は取らなかったんだよ、きっと……!」

 

 

 青子が快斗の背中をさすり、必死に言葉を紡ぐ。

 

 

「……戻ってきたときに、また笑顔で会えるよ。……ね? 花梨ちゃん、頑張って勉強してくるんだから……快斗も信じて待ってなきゃ」

 

 

 青子の真っ直ぐで優しい励まし。

 けれど、その言葉は今の快斗の鼓膜を通り過ぎ、虚空へと消えていく。

 

 

(……信じる? 何を……? あいつは、オレを『明日』に入れてくれなかったんだぞ……?)

 

 

 ホテルのロビーの華やかな照明が、今の快斗には、自分をあざ笑うスポットライトのように感じられた。

 

 青子に支えられ、誘導されるままに辿り着いた部屋。

 カードキーをかざして開いた扉の向こうには、高校生が一人で泊まるにはあまりに不釣り合いな、広大なリビングと大阪の街を一望できるパノラマウィンドウが広がっていた。

 

 

「うわぁ……! すごぉい、快斗! 見て、これっ!! すっごい眺めだよっ!!」

 

 

 窓の外に広がる、宝石を撒き散らしたような大阪の夜景。

 青子が声を弾ませて窓に駆け寄るが、快斗の耳には、その興奮した声すら水中の泡のように遠く響く。

 

 

(……何言ってんだ、青子。……眺めなんて、どうでもいいんだよ。……あいつが、いないんだ……)

 

 

 茫然自失としたまま、豪華なソファの隅に腰を下ろす。

 フィリップの個室で彼女が見せていた、あの寂しそうな、けれど決意に満ちた微笑み。

 この贅沢な部屋も、夜景も、すべては彼女が“最後に自分に贈ろうとしたプレゼント”だったのだと、今の快斗には呪いのように感じられた。

 

 

「快斗、今日はもうお休み。……電気、消しておくね? 明日、駅で待ち合わせだから忘れないようにね」

 

 

 青子の優しい気遣いで、小さなフットライトだけ残して、部屋が深い闇に包まれる。

 パタンと静かに扉の音がして、青子は部屋から出て行った。

 青子に休むよう促されたものの、快斗の目は冴え切っていた。

 

 一睡もできない。

 ただ、窓の外で煌めく明かりを眺め続ける。

 

 あの明かりのどこかに、花梨がきっといるのだ。

 そう思ったら、眠ることなんてできなかった。

 

 

「……っ……」

 

 

 朝焼けが空を白く染める頃、快斗は糸が切れたように意識を失った。

 それは眠りというより、精神が限界を迎えた末の気絶に近かった。

 

 ……数時間後。

 

 重い瞼を開けた快斗は、改めて自分が、信じられないほど豪華なスイートルームに寝かされていることを把握する。

 昨夜は気づかなかった調度品の数々が並び、一泊いくらするのかも想像がつかない。

 

 

(……払えるわけねーだろ、こんなの。……あいつ、何考えてんだ……)

 

 

 重い足取りでチェックアウトに向かう。

 財布の中身を確認しながらフロントに立った快斗を、スタッフは丁寧な、けれどどこか憐れみを含んだ微笑みで迎えた。

 

 

「お会計は、すでに済んでおります」

 

「……は? いったい誰が……」

 

「ご予約者様の、葵花梨様より、事前にお支払いいただいております」

 

「…………っ」

 

 

 その名前を聞いた瞬間、快斗の喉の奥から乾いた音が漏れた。

 

 こんなことしてくれなんて、頼んでいない。

 一泊数千円の安宿だって、壁の薄いビジネスホテルだってよかったんだ。ただ、隣で一緒に笑っていたかっただけなのに。

 

 チェックアウトを済ませようとした快斗に、フロントの女性が申し訳なさそうに一通の小さな封筒を差し出す。

 

 

「……あ、あともう一つ。葵様から、こちらをお預かりしております。黒羽快斗様へ、と」

 

「…………っ」

 

 

 快斗の手が、微かに震える。

 受け取った封筒は、驚くほど軽かった。

 中から引き出した一枚のメッセージカード。そこには、ただ一行。

 

 

『快斗、いままでありがとう』

 

 

 迷いも震えも、一滴の涙の跡すらない、あまりにも整いすぎた筆跡。

 

 

「………………は」

 

 

 乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。

 

 昨日まで、隣で笑っていた。

 おまじないをかけ合って、ずっと一緒にいようって……そんな空気だったはずなのに。

 

 彼女が書いたのは「これからもよろしく」でも、「待ってて」でもない。

 自分の存在を、これまでの時間を、すべて“過去”へと押し流す、あまりにも残酷な決別の言葉。

 

 

(……なんだよ、それ。……ふざけんなよ!!)

 

 

 彼女は、快斗に助けを求めることすら選ばなかった。

 何度見ても、手の中にあるカードに綴られた文字が、彼女がどれほど強固な意志で自分を切り捨てたかを証明しているようで……快斗は猛烈な吐き気を覚えた。

 

 豪華なロビーに流れる優雅なBGMが、今は快斗をあざ笑う葬送曲のように響く。

 

 

「……勝手に……終わらせんじゃねーよ……花梨っっ!!」

 

 

 快斗は手紙を握りしめ、そのままロビーを飛び出した。

 眩しすぎる大阪の朝の光が、網膜を刺す。

 

 どこへ行けばいいのか。

 何をすれば、彼女を“今”に引き戻せるのか。

 

 手の中にある、彼女の「ありがとう」という言葉だけが、快斗の心に消えない呪いとして刻み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時速285キロで疾走する新幹線の車内。

 窓の外、初夏のやけに明るい日差しを浴びる富士山が、滑るように遠ざかっていく。けれど、その雄大な景色も、快斗の濁った瞳には色彩を失った砂嵐のようにしか映らなかった。

 

 

「……快斗、お弁当……一口でも食べない?」

 

 

 隣に座る青子が、駅で買った幕の内弁当を差し出す。

 快斗は答えず、ただ膝の上で握りしめた一通のメッセージカードを、穴が開くほど見つめていた。

 

 

『快斗、いままでありがとう』

 

 

 指先の体温で、上質な紙の端がわずかに歪んでいる。

 たった十一文字。

 それだけで、自分たちの積み上げてきた時間が、列車で交わしたあの熱い約束が、すべて「終わったこと」として精算されてしまった。

 

 

(……ふざけんな。……なにが『ありがとう』だ……)

 

 

 もし、彼女が「助けて」と一言でも書いてくれていたなら。

 もし、あの時、自分のプライドなんて捨てて、強引に彼女の秘密を暴いていたら。

 

 後悔という名の毒が、血管を伝って全身を蝕んでいく。

 

 あれほど誇っていた頭脳は、今や“自分がどれほど愚かだったか”を、容赦なく突きつけ続けていた。

 新一の番号を叩いた時の焦燥感。諸伏に通じなかった時の絶望。東雲セキュリティの無機質な自動音声。

 世界中の誰も、自分に花梨を返してはくれない。

 

 

「……快斗?」

 

「…………うるせえな」

 

 

 低く、地を這うような声。

 青子が息を呑むのがわかった。けれど、今の快斗には彼女を気遣う「仮面」を被る力すら残っていない。

 

 “なんでも解決してやる”

 

 そんな傲慢な言葉を口にした自分を、殺してやりたかった。

 

 彼女は、自分が解決できないほどの地獄に独りで立ち向かおうとしている。

 あるいは、もう二度と戻れない場所へ連れ去られた。

 

 快斗は、握りしめたカードをポケットにねじ込むと、深く座席に沈み込み、目をつぶった。

 

 

(桜橋口で、あのとき……変なことがなかったか……? 花梨を捜すのに夢中で、よく見てなかったけど、思い出せ……)

 

 

 高架下の横断歩道を渡って、長い髪の女性を追いかけたとき、桜橋口近くで信号が青になってもしばらく停まっていた車がいた。

 そのときの快斗は彼女を追うのに必死で、特に気にしていなかったが、少しだけ開いた窓から何か聞こえた気がする。

 

 

『ほな、さいなら~ってな?』

 

 

 かすかに聞こえた男の濁った声。

 

 

(……さいならって……まさかな……)

 

 

 彼女が独りで消えた可能性。誘拐された可能性。あるいは、本当に留学した線……どれが本当なのか、今の快斗にはわからない。

 だが、どれを取っても、自分から離れるものばかりだ。

 

 東京に着けば、日常が待っている。

 けれど、その日常のどこを探しても、もう“葵花梨”という光は存在しない。

 

 

(……絶対に、許さねえ。……勝手に消えたお前も。……奪っていった奴らも。……そして、何もできなかったオレも)

 

 

 新幹線が川品を過ぎた頃、快斗の心は、かつてないほど冷たく、鋭い“病み”の底へと完全に沈み込んでいった。

 

 

 

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