▽前回のあらすじ
花梨との甘酸っぱいレモンパイの記憶に浸るコナン。しかし、白河多紀の指先が彼の記憶に触れた瞬間、工藤新一としての正体が暴かれる。多紀は新一の記憶から、花梨に寄り添う「不透明な影」――黒羽快斗の存在を捉えた。白河の魔手は、ついに江古田の少年へと伸びる。
第196話
※暴力・監禁・性的加害の示唆・精神的支配・銃撃描写を含みます。ご注意ください。
◇
花梨が大阪で姿を消して三日目。
今日は六月朔日、月曜日の夕方――。
東京某所、古びた雑居ビルの上階。
窓は目張りされ、部屋には安っぽいタバコの煙と、放置されたコンビニ弁当の匂いが充満していた。
「……おい、いつまでシケた面しとんねん。さっさと飯食えや。お前が死ぬんはええけど、今はあかん。今死なれたら、ワシが困るんや」
テーブルに放り投げられたのは、竜哉の食べ残しの冷え切った弁当。消費期限はすでに切れて、ハエが集っている。
ソファの端で手首にロープを巻かれたまま膝を抱える花梨に、竜哉が苛立ったような声を浴びせる。
「……いらない」
「あぁ!? ガキが贅沢言うなや。データ、消したったやんけ。さっさと沙織の居場所を言わんかい!!」
怒鳴りながら竜哉がソファの脚を蹴り飛ばすと、その振動だけで花梨はビクリと肩を揺らした。
拘束された細い手首には、ロープが食い込んだ真っ赤な跡。そして、めくれた袖口やワンピースの裾からは、この三日間に刻まれたどす黒い痣がいくつも覗いている。
データ消去と引き換えに伯母の居場所を教えろと迫られ、答えないたびに振るわれた暴力の痕跡だった。
竜哉の怒号を聞きながら、花梨は力なく視線を落とす。
……おととい。
この部屋に連れ込まれた直後、花梨は持てる全ての勇気を振り絞って、この男に取引を持ちかけた。
『……そのサイトを消して。快斗たちのデータを消去するなら、伯母さんの居場所を教えるから……!』
本当なら、花梨が竜哉の元へ行くのが削除の条件だったというのに、彼は約束を守らなかった。
伯母の居場所なんて、本当は知らない。
けれど竜哉は、花梨なら知っているはずだと思っている。
それを逆手にとって彼女は交渉した。自分の身を代償に、愛する人たちの命を買い戻すための、必死の嘘を貫き通した。
仮眠している竜哉に、花梨はこっそり触れて、どこまで彼らの情報を掴んでいるのかと探ってみたが、データは他人に丸投げしていて、彼自身は把握していなかった。
その情報が、どの程度まで掴まれていて、どこまで漏れているのかは不透明なまま――それでも、あんな不吉なデータを残しておくわけにはいかない。
竜哉が舌打ちしながらパソコンを叩き、サーバーからデータを削除していくのを、花梨は祈るような思いで見つめていた。
……あの時、コナンたちが目にした『404』という数字は、花梨が自らの自由を捨てて手に入れた、最後の手がかりだったのだ。
「もう時間がないんやで? ほんまに使い道のない女やのう」
約束は果たした。けれど、竜哉は満足していなかった。
「こうなったらもう、あいつらに引き渡すか
竜哉は缶ビールを煽り、花梨を睨みつける。
かつて伯母を苦しめ、今は自分を「商品」として稀華に売り渡そうとしている男。
その汚れた瞳を見るだけで、花梨の心は削られていく。
(……帰りたいな……江古田に、……米花町に……)
最期に一緒に過ごすのが竜哉だと思うと、気分は落ち込んだ。
酷い男だが、花梨は彼を恨んだことはない。
人は誰しも弱さを持ち、それを補うべく、無理な力技を使うものだから。
恨んではいないが、自分の最期に一緒にいるのは正直なところ、あまりうれしいものではない。
けれど、逃げ出そうとすれば、この男はまた、誰かを傷つけるかもしれない。
「……あ、……っ……!?」
なんとなくネックレスのトップに触れて、突然、頭の芯が焼けるような痛みに襲われる。
竜哉の放つ濁った欲望に当てられたのか、あるいは――。
(快斗……? だめ、逃げて……!)
脳裏をよぎる、夜の路地裏。
必死に何かから逃げ回る快斗の姿が、鮮明に視えてしまった。
(なに、今の……?)
未来視は滅多にしない花梨だが、今のは未来視というより――過去視だ。
未来視のようでいて過去視……不思議な感覚。
時はすべて同時で、今しか存在しない――と、どこかで聞いたことがあるが、こんな感じなのだろうか……。
時間の糸が
自分の身に迫る危機よりも、その『視えた痛み』の方が、花梨の胸を深く抉った。
自分が離れたというのに、快斗に危険が迫っているなんて……。
(ごめんね、快斗……。今の私は、あなたになにもしてあげられない……。せめてあなたが無事逃げきれますように……)
花梨は目を閉じて、組んだ手の中で、ネックレスを握りしめて祈った。
「ゴラァああああっ!! なに勝手に寝とんねーーんっ!!」
祈り始めた花梨に向け、竜哉の握りこぶしが白い頭を殴りつける。
「うぁっ!!」
殴られた拍子に、花梨の体がソファに倒れた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……おーまーえーは、おもんないやっちゃで!! せっかく生かしたろー思っとったのに。引き取り人が
「ぅぅ…………?」
不意に、竜哉の視線が止まり、倒れた花梨の脚に向けられ、喉が鳴る。
「花梨、お前……よう見たら、育っとるやないか……」
竜哉は口の両端を吊り上げ、下卑た笑みを浮かべた。
倒れた拍子にめくれたスカートから覗く、花梨の白い太ももを舐めまわすように見下ろしている。
「っ!?」
「……どうせ、
はぁはぁと荒く湿った呼吸を漏らしながら、竜哉の手が花梨に伸び――。
花梨の肩がびくりと震えた。
喉が張りつき、うまく息が吸えない。
それでも震える唇からこぼれたのは、
「っ、竜哉おじさん……! 沙織伯母さんが悲しむよ?」
近づく竜哉を必死に説得しながら、どうにか身体を起こす。
昔から自分を殴ることはあっても、
だから、こんな小娘を相手にする必要なんてないはず。
伯母はかなりの美人で、離婚した今も、執着しているくらい好きなのではなかったのか――と。
「沙織は沙織、お前はお前や。しっかり躾けとかんとなぁ?」
「や、やだ……こ、来ないで……!」
血走った目の竜哉から、花梨は逃げた。
手をロープで拘束されているから走りづらく、部屋はそこまで広くない。部屋の隅まで逃げれば竜哉が迫り、また別の隅へと追いやられる。
扉には鍵がかかっていて、ガチャガチャと回したが、開かない。
背後に竜哉の足音が迫る。
花梨は反射的に離れようとしたが――足が縺れた。
「かーりん、ちゃん♡ 優しいおじさんと遊ぼうや♡」
「ひっ! や、やだぁ……!」
すぐ後に竜哉の影が見えて、ドアノブから手を放す。
竜哉から遠い場所へ――と、壁際へと後ずさった。
……そんな花梨を追いかける竜哉は愉快そうに笑っていた。
「っ、竜哉おじさん……! 嫌……、来ないでってば……!」
雑居ビルの古びた床に、花梨の足が
組まれた両手、ネックレスを握りしめたまま、彼女は無様に転倒した。
「くくっ……。逃げ回る姿も、沙織に似てるやんけ……。さあ、大人しく躾けられてもらおか、花梨……!」
獣のような息を荒げ、竜哉が倒れた花梨にのしかかる。
厭らしい笑み、汚れた手。
(……嫌……、快斗……!! 新ちゃん……ッ!!)
花梨が最後の力を振り絞って目を閉じた、そのときだった。
“ガァアアンッ!!”
鼓膜を裂くような、重厚な破壊音。
目張りされていた古びた鉄の扉が、凄まじい脚力によって内側へ蹴り破られた。
蹴り破られた扉から流れ込んできたのは、夜の冷気ではなく、肺が凍りつくような冷徹な殺気だった。
「……あぁ!?」
竜哉が驚愕して振り返る。
その瞳に映ったのは、逆光の中に佇む、黒衣の長身の男。
風になびく、銀色の長髪。
サングラスの奥から覗く、凍りつくような冷徹な瞳。
「……騒がしいネズミだな。触るな。そいつは俺が回収する」
一瞬だけ、時が止まった。
低く、その場の空気を震わせるような声。
その声には、人間らしい感情が一片も含まれていなかった。
今の状況から逃げ出したい一心だったはずなのに、花梨は本能的な恐怖で身体が動かなくなる。竜哉が撒き散らしていた安っぽい悪意が、この男が放つ“純粋な死の気配”によって押し潰されていく。
その声とともに、火の点いた煙草が竜哉の顔を目掛けて飛んだ。
ジジッと、竜哉の頬を掠める。
黒ずくめの男――ジンは、部屋に充満していたタバコの匂いやコンビニ弁当の臭気を、“死の静寂”で塗り潰した。
「だ、誰やテメーッ!! ここはワシと稀華様の――」
逆上した竜哉は、ジンが花梨の引き取り人だと気がつかなかった。
竜哉が立ち上がろうとした瞬間――。
ジンの懐から、サイレンサー付きのベレッタが音もなく抜き放たれた。
プシュッ――。
撃たれたと気づく前に、意識が途切れていた。
「……え?」
竜哉の額に、小さな紅い穴が空く。
彼は何が起きたのか理解できないまま、膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
「…………っ……」
ソファの傍らで、花梨は喉が凍りついたように声が出なかった。
目の前の脅威は消え去った。
けれど、安堵は訪れなかった。
客観的に見れば危機は去ったはずなのに、花梨は呼吸の仕方を忘れたようにうまく息が吸えない。
竜哉という、かつて自分を苦しめた存在はもういない。
その代わりに現れたのは、それよりも遥かに異質な“何か”だった。
背筋が、氷の刃で撫でられたように震えた。
呼吸が浅くなり、胸の奥がぎゅっと縮む。
ジンはピストルを懐に戻すと、怯える花梨を一瞥することもなく、背後の闇へと視線を向けた。
「……ウォッカ。……回収だ」
「へい、アニキ」
ジンの冷徹な命令を受け、巨漢の男――ウォッカが、闇の中から現れる。
彼が花梨の腕を掴んで強引に引き起こす。その際、竜哉が付けた深い紫色の痣がウォッカの太い指に圧迫され、花梨は短く悲鳴を上げた。
「…………」
ジンは、恐怖に顔を歪める花梨の肌に散る、腫れ上がった痕を一瞥した。
けれど、そこには同情も怒りも存在しない。ただ、納品前の商品に付いた“傷”をチェックするかのような、無機質で乾いた視線。
「チッ……無能なドブネズミが、余計な傷を付けやがって」
ジンが吐き捨てたのは、花梨への憐れみではなく、自分の獲物を汚されたことへの不快感だけだった。
花梨の瞳から大粒の涙が零れ落ち、視界が白く霞んでいく。