▽前回のあらすじ
監禁場所で竜哉の魔手が迫る中、花梨は快斗の危機を予感し祈りを捧げる。絶体絶命の瞬間、扉を蹴り破り現れたのは銀髪の処刑人・ジンだった。救いか新たな悪夢かも分からぬまま銃声が響き、彼の介入によって事態はさらに深い闇へと転がり始める。
第197話
助けて
(快斗……新ちゃん……助けて……)
その瞬間、花梨の視界の端に、動かなくなった竜哉の死体が映り込んだ。
「っ!! ――はっ……っ……!(あ、息が……)」
喉の奥が、ヒュッと鳴った。
幼い頃のトラウマが、フラッシュバックする。
……冷たくなった肉体。動かない瞳。
竜哉の目だけが、花梨を見ている。
「……? おい、どうした」
ウォッカが怪訝そうに手を止める。
「っ……!!(息ができない……!!)」
はくはくと口を開閉しながら、花梨は喉に手を添えて口を動かすが、酸素が肺に届かない。
過呼吸――。
パニックを起こした心臓が早鐘を打ち、全身が痙攣し始めた。
花梨の様子にジンは、ウォッカの手を制すると、眉を寄せて花梨を睨みつける。
(……面倒な真似を……)
すぐさまジンは周囲を見回した。
部屋の床には散らばった竜哉の荷物がある。その中から雑誌を入れていた紙袋を無造作に拾い上げ、中身を捨てた。
「……おい、白いの。これを口に当てて、ゆっくり呼吸しろ」
空になった紙袋を手にして、それを花梨の前に突き出す。
だが、花梨の指先は紙袋に触れることができなかった。彼女は縛られた両手を震わせ、過呼吸のあまり紙袋を掴むことすらできなかったのだ。
視界の端がじわりと暗くなり、音が遠のいていく。
……今にも崩れ落ちそうだ。
「……チッ、面倒な奴だ」
ジンは忌々しげに舌打ちすると、大きな手で紙袋を掴んだまま、花梨の口元を力任せに、だが、確実に覆った。
「……っ、……っ!?」
「騒ぐな。吐き出した空気をもう一度吸い込め……。死にたくなければな」
冷徹な声が紙袋越しに、至近距離で響く。
逃げ場のない恐怖と、生を繋ぎ止めるための強制――。
花梨の瞳に涙があふれ、震える肩をジンの腕が押さえつける形になる。
紙袋が呼吸のたびに不規則に膨らみ、へこむ。紙袋の中の空気が熱く、苦しく、しかし確かに生へと繋ぎ止めた。
至近距離で見下ろすジンのサングラスには、涙でぐちゃぐちゃになった花梨の顔が映っていた。それは救済という名の、抗うことのできない拘束だった。
……スゥ、ハァ……。
スゥ、ハァ……。
自分の吐いた二酸化炭素を再び吸い込むことで、血中の二酸化炭素濃度が安定し始める。
ジンがサングラス越しに向ける冷淡な視線。
その奥にあるのは、憐れみか。
それとも……。
「……アニキ、こいつ、死体を見て過呼吸に……?」
「ふん。……軟弱な神子だ。……だが、殺すわけにはいかねぇ」
だが、その声に情はない。ただ“商品価値”を確認するだけの無機質な響きだった。
……数分後。
紙袋の中で、花梨の荒い呼吸が、ようやく安定したリズムを取り戻した。
全身の力が抜け、強い目眩が彼女を襲う。
(……快斗……新ちゃん……)
花梨の意識は、マジックを得意げに披露する快斗の姿と、自信満々に推理をする新一の残像をたどりながら、深い闇へと落ちていった。
「……。眠ったか」
ジンは気絶した花梨を一瞥すると、ウォッカに顎で指図した。
ウォッカが花梨を軽々と担ぎ上げるのを確認し、彼は懐から一本の煙草を取り出した。
……ゴロワーズ・カポラル。
火を灯した瞬間、独特な、野性味のある強い香りが鼻腔を突く。
ジンはゴロワーズの煙を最後の一服まで深く吸い込むと、手元の携帯灰皿に、吸い殻を静かに押し込んだ。
現場に一切の痕跡を残さない、それは、完璧な“清掃”の一部にすぎない。
指先に残る熱と、青い煙の残り香。
「……ウォッカ、火を放て。……ネズミの死骸ごと、全て無に帰せ」
「へい、アニキ!」
ジンは静かに手袋を嵌めると、床に落ちていた吸い殻を拾い上げた。先ほど竜哉の頬をかすめたものだ。
現場に唯一残るのは、これから放たれる炎だけ。
自分のDNAの一片すらこの場には残さない――それが“処刑人”としての鉄則だ。
……彼らがビルを後にした数分後。
雑居ビルの上階からは、全てを飲み込む紅蓮の炎が立ち上り、竜哉の罪も、花梨のいた形跡も、そしてジンの痕跡も、文字通り灰へと変わる。
そこには、灰だけが静かに降り積もっていた。
音が遠のいて、意識の底に沈んだ花梨は、あたたかな光の中にいた。
大阪へと向かうロイヤル・エクスプレスの車内。緊急停止した静かな世界。窓の外には、遠くに夜の街明かりが優しく輝いている。
(……いつも幸せだったけど……ああ、私、この時が哀しいくらい、一番幸せだったな……)
首筋に残る、冷たいファンデーションの感触。自分の傷を魔法で隠してくれた、快斗の優しい指先。
『本当は大阪に着いてから渡そうと思ってたけど……今、渡しとく』
照れたような快斗の顔と、首元で小さく輝く、サギソウのネックレス。
快斗がバイトをして、自分のために必死に稼いだ時間の証――“太陽の石”シトリン。
『うれしくて。本当にありがとう、快斗……』
夢の中の自分は、贈られたばかりのシトリンに触れて、心から嬉しそうに笑っている。
快斗も優しく微笑み、そこは眩い光であふれていた。
その光は、彼女が生きてきた中で唯一“安全”だと感じた場所だった。
けれど、その幸福は、あまりにも脆かった。眩い光が突如として、不気味な紅蓮の炎へと姿を変えた。
シトリンの黄色が、ジンの持つライターの火に塗り潰され、優しかった列車の揺れは、ビルの爆発による激しい衝撃へと変わる。
(快斗……快斗、助けて……っ!)
叫ぼうとした喉は、黒い煙に塞がれて音にならない。
幸せな記憶は一瞬で、焼け焦げた鉄の匂いと、逃れられない死の予感に覆われていった。
……数時間後。
夜の静寂を切り裂くように、赤色灯の光が雑居ビルの壁面を不気味に撫で回していた。
消防車のサイレンが遠くで鳴り響き、消火活動によって辺りには白く重苦しい水蒸気が立ち込めている。その騒乱の中心で、コナンは、焦げ臭い風に吹かれながら松田と合流していた。
コナンの瞳に映るのは、無残に焼け落ち、骨組みを晒したビルの残骸。
二日前の土曜日、松田と交わしたあの会話が、呪いのように耳の奥で反響する。
コナンの胸の奥で、何かがきしむように痛んだ。