白月の君といつまでも   作:はすみく

200 / 200
-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
監禁場所で竜哉の魔手が迫る中、花梨は快斗の危機を予感し祈りを捧げる。絶体絶命の瞬間、扉を蹴り破り現れたのは銀髪の処刑人・ジンだった。救いか新たな悪夢かも分からぬまま銃声が響き、彼の介入によって事態はさらに深い闇へと転がり始める。

第197話
助けて


197:灰燼(かいじん)に消ゆ

(快斗……新ちゃん……助けて……)

 

 

 その瞬間、花梨の視界の端に、動かなくなった竜哉の死体が映り込んだ。

 

 

「っ!! ――はっ……っ……!(あ、息が……)」

 

 

 喉の奥が、ヒュッと鳴った。

 

 幼い頃のトラウマが、フラッシュバックする。

 ……冷たくなった肉体。動かない瞳。

 

 竜哉の目だけが、花梨を見ている。

 

 

「……? おい、どうした」

 

 

 ウォッカが怪訝そうに手を止める。

 

 

「っ……!!(息ができない……!!)」

 

 

 はくはくと口を開閉しながら、花梨は喉に手を添えて口を動かすが、酸素が肺に届かない。

 

 過呼吸――。

 パニックを起こした心臓が早鐘を打ち、全身が痙攣し始めた。

 

 花梨の様子にジンは、ウォッカの手を制すると、眉を寄せて花梨を睨みつける。

 

 

(……面倒な真似を……)

 

 

 すぐさまジンは周囲を見回した。

 部屋の床には散らばった竜哉の荷物がある。その中から雑誌を入れていた紙袋を無造作に拾い上げ、中身を捨てた。

 

 

「……おい、白いの。これを口に当てて、ゆっくり呼吸しろ」

 

 

 空になった紙袋を手にして、それを花梨の前に突き出す。

 だが、花梨の指先は紙袋に触れることができなかった。彼女は縛られた両手を震わせ、過呼吸のあまり紙袋を掴むことすらできなかったのだ。

 視界の端がじわりと暗くなり、音が遠のいていく。

 

 ……今にも崩れ落ちそうだ。

 

 

「……チッ、面倒な奴だ」

 

 

 ジンは忌々しげに舌打ちすると、大きな手で紙袋を掴んだまま、花梨の口元を力任せに、だが、確実に覆った。

 

 

「……っ、……っ!?」

 

「騒ぐな。吐き出した空気をもう一度吸い込め……。死にたくなければな」

 

 

 冷徹な声が紙袋越しに、至近距離で響く。

 逃げ場のない恐怖と、生を繋ぎ止めるための強制――。

 花梨の瞳に涙があふれ、震える肩をジンの腕が押さえつける形になる。

 

 紙袋が呼吸のたびに不規則に膨らみ、へこむ。紙袋の中の空気が熱く、苦しく、しかし確かに生へと繋ぎ止めた。

 至近距離で見下ろすジンのサングラスには、涙でぐちゃぐちゃになった花梨の顔が映っていた。それは救済という名の、抗うことのできない拘束だった。

 

 

 ……スゥ、ハァ……。

 スゥ、ハァ……。

 

 

 自分の吐いた二酸化炭素を再び吸い込むことで、血中の二酸化炭素濃度が安定し始める。

 ジンがサングラス越しに向ける冷淡な視線。

 

 その奥にあるのは、憐れみか。

 それとも……。

 

 

「……アニキ、こいつ、死体を見て過呼吸に……?」

 

「ふん。……軟弱な神子だ。……だが、殺すわけにはいかねぇ」

 

 

 だが、その声に情はない。ただ“商品価値”を確認するだけの無機質な響きだった。

 

 ……数分後。

 紙袋の中で、花梨の荒い呼吸が、ようやく安定したリズムを取り戻した。

 

 全身の力が抜け、強い目眩が彼女を襲う。

 

 

(……快斗……新ちゃん……)

 

 

 花梨の意識は、マジックを得意げに披露する快斗の姿と、自信満々に推理をする新一の残像をたどりながら、深い闇へと落ちていった。

 

 

「……。眠ったか」

 

 

 ジンは気絶した花梨を一瞥すると、ウォッカに顎で指図した。

 ウォッカが花梨を軽々と担ぎ上げるのを確認し、彼は懐から一本の煙草を取り出した。

 

 ……ゴロワーズ・カポラル。

 

 火を灯した瞬間、独特な、野性味のある強い香りが鼻腔を突く。

 ジンはゴロワーズの煙を最後の一服まで深く吸い込むと、手元の携帯灰皿に、吸い殻を静かに押し込んだ。

 現場に一切の痕跡を残さない、それは、完璧な“清掃”の一部にすぎない。

 指先に残る熱と、青い煙の残り香。

 

 

「……ウォッカ、火を放て。……ネズミの死骸ごと、全て無に帰せ」

 

「へい、アニキ!」

 

 

 ジンは静かに手袋を嵌めると、床に落ちていた吸い殻を拾い上げた。先ほど竜哉の頬をかすめたものだ。

 現場に唯一残るのは、これから放たれる炎だけ。

 自分のDNAの一片すらこの場には残さない――それが“処刑人”としての鉄則だ。

 

 ……彼らがビルを後にした数分後。

 

 雑居ビルの上階からは、全てを飲み込む紅蓮の炎が立ち上り、竜哉の罪も、花梨のいた形跡も、そしてジンの痕跡も、文字通り灰へと変わる。

 

 そこには、灰だけが静かに降り積もっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音が遠のいて、意識の底に沈んだ花梨は、あたたかな光の中にいた。

 大阪へと向かうロイヤル・エクスプレスの車内。緊急停止した静かな世界。窓の外には、遠くに夜の街明かりが優しく輝いている。

 

 

(……いつも幸せだったけど……ああ、私、この時が哀しいくらい、一番幸せだったな……)

 

 

 首筋に残る、冷たいファンデーションの感触。自分の傷を魔法で隠してくれた、快斗の優しい指先。

 

 

『本当は大阪に着いてから渡そうと思ってたけど……今、渡しとく』

 

 

 照れたような快斗の顔と、首元で小さく輝く、サギソウのネックレス。

 快斗がバイトをして、自分のために必死に稼いだ時間の証――“太陽の石”シトリン。

 

 

『うれしくて。本当にありがとう、快斗……』

 

 

 夢の中の自分は、贈られたばかりのシトリンに触れて、心から嬉しそうに笑っている。

 快斗も優しく微笑み、そこは眩い光であふれていた。

 その光は、彼女が生きてきた中で唯一“安全”だと感じた場所だった。

 

 けれど、その幸福は、あまりにも脆かった。眩い光が突如として、不気味な紅蓮の炎へと姿を変えた。

 シトリンの黄色が、ジンの持つライターの火に塗り潰され、優しかった列車の揺れは、ビルの爆発による激しい衝撃へと変わる。

 

 

(快斗……快斗、助けて……っ!)

 

 

 叫ぼうとした喉は、黒い煙に塞がれて音にならない。

 幸せな記憶は一瞬で、焼け焦げた鉄の匂いと、逃れられない死の予感に覆われていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……数時間後。

 夜の静寂を切り裂くように、赤色灯の光が雑居ビルの壁面を不気味に撫で回していた。

 消防車のサイレンが遠くで鳴り響き、消火活動によって辺りには白く重苦しい水蒸気が立ち込めている。その騒乱の中心で、コナンは、焦げ臭い風に吹かれながら松田と合流していた。

 

 コナンの瞳に映るのは、無残に焼け落ち、骨組みを晒したビルの残骸。

 二日前の土曜日、松田と交わしたあの会話が、呪いのように耳の奥で反響する。

 

 コナンの胸の奥で、何かがきしむように痛んだ。

 

 

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