白月の君といつまでも   作:はすみく

202 / 202
-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
「花梨は留学した」――松田の不器用な嘘に翻弄されるコナン。だが数時間後、自らのホームグラウンドである米花町二丁目で起きた火災が、残酷な真実を暴き出す。ジンの影、そして連れ去られた白い髪の少女。手の届くはずの場所で、大切な人を奪われた探偵と刑事は、焼け焦げた壁の前で己の無力を呪う。

第199話
今回は、快斗サイドのお話です。


199:私を忘れて

 

 

 

 

 ……土曜日、大阪から這うように帰宅した快斗を待っていたのは、花梨のいない、冷え切った自室だった。

 

 日曜日、そして月曜日。

 カーテンを閉め切り、月明かりさえ拒絶するような暗闇の中で、快斗はただベッドに横たわっていた。

 手の中にあるスマホだけが、唯一の光源。

 

 画面をスクロールすれば、そこには溢れんばかりの花梨の笑顔がある。

 一緒に食べたアイス、ふざけて撮った自撮り、そして――自分が贈った、あのサギソウのネックレスを嬉しそうに指でなぞる彼女。

 

 

(……なんでだよ、花梨……)

 

 

 静寂の中、涙が音もなくシーツに吸い込まれていく。

 

 「どこにいても、すぐ行ってやる」と誓った新一と、彼女を奪ったジン。

 そんな因縁など露ほども知らない快斗は、ただ、自分の腕をすり抜けて消えた彼女の温もりを思い出しては、声もなく泣き続けた。

 

 深夜――。

 静まり返った玄関に、無機質なチャイムの音が響く。

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 一度、二度。

 だが、快斗は動かない。居留守を使う気力すらなく、死んだように闇に溶け込んでいる。

 

 ドアの向こうにいる「警察官」が、多紀の命を受けた使いであることを、今の快斗は知るはずもなかった。

 

 ……火曜日。

 窓を叩く「コッ、コッ」という小さな音で、快斗は微かに瞼を動かした。

 隣家から投げられた小石。

 

 それは、幼い頃から変わらない、隣の幼なじみの呼び声。

 

 

「……快斗? 大丈夫?」

 

 

 窓の外から届く青子の声。快斗は窓に顔を出すが、返事もせず、焦点の合わない瞳で外を見る。

 青子が部屋の窓越しに快斗をうかがっていた。

 

 

「……ご飯、食べてんの?」

 

「…………」

 

「はぁ……ちょっと待ってて」

 

 

 数分後、ベランダ越しに差し入れられた、温かい食事の匂い。

 窓は、青子に「開けろ」と強制され、始めは何を言っているかわからなかった快斗だが、何度も言われているうちに理解し、無言で開けた。

 

 

「……花梨ちゃん、きっと連絡くれるって! 青子、約束したもん。……だから、快斗がそんな顔してちゃダメだよ」

 

 

 青子の真っ直ぐな言葉が、硬く閉ざされた快斗の心に、小さな、けれど鋭い痛みとなって刺さる。

 

 

(……約束、か。……オレは、何もできなかったのに……)

 

 

 また一滴涙が頬を伝った。

 

 

「快斗……」

 

 

 部屋の灯りが点いていないからわかりにくいが、月明かりに反射して頬が光っている。快斗が泣いている。

 

 幼なじみのこんな顔、青子は見たことがなかった。

 彼はいつも自信満々で、笑顔で……けれど、今は愛する彼女の喪失で傷ついている。

 快斗の様子に、青子の胸はぎゅっと締め付けられた。

 

 

(……快斗、花梨ちゃんにべったりだったもんね……今はつらいよね)

 

 

 留学だと信じてやまない青子からすれば、快斗の「花梨との別離」は、一時的なものだ。

 二人が「別れる」なんて話は花梨からも聞いていない。そんなに泣くほどのことなのだろうか……いまいち青子にはぴんとこない。

 

 正直、そこまででもないだろうとは思ったが、快斗があまりに痛々しくてどう接したらいいか困った。

 

 

「っ、また明日ね~! 明日はちゃんと学校に来るんだよ~~!!」

 

 

 せめて、自分は明るく接してやるか――。

 青子は元気な声で快斗を励まし終えると、窓を閉め、すぐにカーテンを閉めた。

 その笑顔は、快斗に届く前に空気の中でしぼんでいく。

 彼女の部屋からは温かな明かりが漏れて、それもやがて消えた。

 

 

「…………」

 

 

 青子がいなくなり、快斗はカーテンを開けたまま空を見上げる。

 少し膨らんだ細い月が、ロイヤル・エクスプレスで見た花梨の瞳に映ったそれと重ならない。

 

 

「花梨……」

 

 

 何度呼んでも、返事はない。

 もう、どこにも花梨はいないのだと、時の流れが告げている。

 

 

「花梨、花梨、花梨…………オレを、置いて行くなよ……」

 

 

 そのとき、指がスマホに触れて、動画が再生された。

 

 

『もういっぺん言って!』

 

『え~? 何度も言わないよ~?』

 

『ほらほら! こっち向いてさ!』

 

『……もぅ、また動画撮ってる~。そういうの、恥ずかしいんだから……ふふっ♡ 快斗、だ~いすきっ♡♡』

 

 

 苦手な魚だらけの水族館へ行ったときに撮影した、はじける彼女の笑顔。眩しくて、それを見ると釣られて笑顔になってしまう。

 

 

「はは……かわいいだろ、オレの彼女……。オレのこと、すげー好きなんだぜ……? オレも、だいすきだよ、花梨……」

 

 

 ズズッと鼻をすする音が暗い部屋に響く。

 何度も何度も再生を繰り返し、快斗はスマホの充電が切れるまで画面の中の彼女に愛を囁き続けた。

 

 だが、やがてプツンと充電が切れ、暗転した画面に映ったのは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった自分の醜く無様な顔だった。画面の中の花梨だけが、永遠に幸せなまま、手の届かない場所で時を止めている。

 

 快斗は暗くなったスマホを胸に抱いたまま、動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 快斗が自室に引きこもって、一週間。

 学校からの連絡も、松田からの遠回しな接触も、多紀の刺客が鳴らすチャイムも、彼はすべて無視し続けた。

 カーテンの隙間から差し込む太陽の光すら疎ましく、ひび割れた心は修復の兆しを見せない。

 

 そんな水曜日の昼下がり。

 放置していたスマホが、狂ったように震え出した。

 

 

『快斗!! 起きてる!? 大変、花梨ちゃんが……花梨ちゃんが学校に来たのよ!!』

 

 

 青子からの絶叫に近いメッセージ。

 止まっていた快斗の心臓が、痛いほどに脈打ち始める。

 

 

「……花梨、が……?」

 

 

 一週間、一度も着替えず、ろくに食事もしていなかった男が、窓から飛び出した。

 「留学」なんて嘘だったんだ。あいつは戻ってきた。オレのところに、戻ってきてくれたんだ。

 

 肺が焼けるほどに走り、辿り着いた江古田高校の教室。

 

 

「花梨!!」

 

 

 荒い息とともに扉を乱暴に開ける。だが、そこに愛しい少女の姿はない。

 クラスメイトたちの同情と困惑が混じった視線。そして、立ち尽くす青子の震える指先が、窓際の席を指していた。

 

 

「……一瞬だったの。みんなが気づいた時には、これだけが置いてあって……花梨ちゃんらしき人を見かけたって人がいて……」

 

 

 花梨の机の上。

 (あるじ)を失ったその場所に、一輪の黒いチューリップが、まるで死神の落とし物のように鎮座していた。

 

 快斗は、吸い寄せられるようにその席へ歩み寄る。

 花びらからは、まだ瑞々しい生花の香りがした。つい数分前まで、誰かがここにいた証拠――。

 ……けれど、その花の香りに混じって、今の快斗の記憶にはない「何か」が、微かな残り香となって鼻をかすめた。

 その香りは美しいのに、なぜか胸の奥が冷たく沈んでいく。

 だが、今の彼にそれを分析する余裕などあるわけがなかった。

 

 

「……嘘だろ。……おい、花梨、どこだよ……! 隠れてねーで出てこいよ……!」

 

 

 教室の隅々まで視線を走らせるが、返ってくるのは静寂だけ。

 ふと、花の下に小さなメモを見つける。そこには、見間違えるはずもない、花梨の柔らかい筆跡で――。

 

 

 “What is the language of flowers?(花言葉は何?)

 

 “I’m afraid I ...(もしかしたら……)

 

 

「…………っ、……あ、…………ぁ」

 

 

(黒いチューリップ……? 私を、忘れ――)

 

(白いバラで、何度も想いを積み上げてきたのに――)

 

(最後に残ったのが、“黒い花”って、なんだよそれ)

 

 

 黒いチューリップ。

 花言葉は――『私を忘れて』。

 二行目の文字列は脳が読むことを拒否した。

 

 彼女が残したのは再会の約束ではなく、自分の存在を快斗の記憶から抹消してくれという、死よりも残酷な願い――。

 

 花梨はなぜ、こんなことを……。

 彼女の意図が、どうしても掴めない。

 

 それでも――これは、彼女が自分を“手放した”という事実だけを突きつけていた。

 

 

「……な、んで……ふざけんなよ……」

 

 

 声にならなかった。

 

 快斗の膝が、崩れ落ちる。

 その音は、誰にも聞こえない心の崩落だった。

 

 黒い花を抱きしめ、彼は教室の真ん中で、今度こそ完全に「怪盗」としての誇りも、「少年」としての希望も失った。

 

 

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