白月の君といつまでも   作:はすみく

203 / 203
-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
花梨を奪われ、廃人のように自室に引きこもる快斗。だが一週間後、彼女が学校に現れたという報せに教室へ駆けつける。そこに残されていたのは、一輪の黒いチューリップと「私を忘れて」という残酷な決別宣言だった。

第200話
Don't forget me.


200:私を忘れないで

「……快斗、そんなに強く握ったら、手が……」

 

 

 床に膝を突き、黒いチューリップを握りしめたまま快斗は動かない。

 教室の喧騒は、いつの間にか遠のいていた。

 青子の呼び声すら、水の中にいるように籠もって聞こえる。

 

 

(忘れる? 何を……? お前の声をか? 笑った顔を? オレが抱きしめた時の、あの体温を全部消せって言うのかよ……)

 

 

 手の中の花が、メモごとぐしゃりと音を立てて潰れる。

 瑞々しい茎から溢れた汁が、花梨の筆跡を黒く滲ませ、快斗の指を汚していく。

 

 

「ふざけんな……!!」

 

 

 咆哮とともに、快斗は教室を飛び出した。

 追いかけようとする青子の声を背中で切り捨て、階段を駆け上がる。

 

 どこへ向かっているのか、自分でもわからない。

 ただ、胸の奥で暴れる“喪失”という名の怪物が、彼をどこまでも突き動かしていた。

 

 ……辿り着いたのは、放課後の屋上。

 吹き抜ける風は冷たく、火照った頬を刺すように冷やしていく。

 快斗はフェンスにすがりつき、眼下に広がる街並みを見下ろした。

 

 

(ここで、何度も一緒に飯食ったじゃねーか。オレに膝枕してくれて……お前は笑ってた。オレの隣に、ずっと一緒にいるって……そう言っただろ)

 

 

 ポケットからスマホを取り出す。

 常に花梨を見続けていたから充電はわずかだ。

 連絡先の「花梨」という名前を何度もタップするが、繋がるはずもない。

 

 

『――おかけになった電話は電源が入っていないか、 電波の届かない場所にあるため、かかりません』

 

 

 無機質なアナウンスが、心臓を抉る。

 何度かけても同じアナウンス。

 

 あの日、あの夜を境に電源が切られ、それから変わることはない。

 

 あいつは、ここにいたはずなのに。

 この一ヶ月の甘い夢は、全部オレが作り出した幻覚だったんじゃないか――そんな狂った思考が、脳内を支配し始める。

 

 「キッドだと名乗らない限り、バレない」――その言葉だけが、快斗の中で意味を持たないまま残っていた。

 

 

「花梨! 忘れられるわけないだろっ! わけわかんねぇよ……バーロッ!! 『私を忘れて』って、なんなんだよぉオオオオ! 忘れられるわけねぇだろオオオオッ!!」

 

 

 大声で怒鳴り、快斗はそのままズルズルと地面に崩れ落ちた。

 掴んだフェンスに、手から移った潰した花の汁が血のように黒く染まり、コンクリートの冷たさが、体温を奪っていく。

 

 ……しばらく経ち、快斗は教室へと戻った。

 教室には誰もいない。

 花梨の席に潰れた花とメモだけが残っている。

 

 

「助けてくれ、花梨……。忘れろなんて、そんな魔法……オレには解けねーよ……なあ……殺せよ。……そんなに忘れさせたいなら、いっそオレを殺して行けよ、花梨……っ!!」

 

 

 快斗は、もぬけの殻となった花梨の机に突っ伏し、嗚咽を漏らす。

 指先を汚す花の汁が、まるで彼女の血のように冷たく、どろりとこびりついて離れない。

 

 教室の窓から差し込む夕日は、昨日と変わらず美しい。

 けれど、その光の中に彼女の金色の瞳が反射することは、もう二度とないのだ。

 

 ……教室で、どれほど突っ伏していただろうか。

 指先にこびりついた花の汁は乾き、嫌な突っ張り感だけが残っている。

 

 快斗はフラフラとした足取りで校門を抜けた。

 目に映るすべての景色が、色彩を欠いた砂嵐のようにザラついて見える。

 

 

「……黒羽快斗くんだね」

 

 

 不意に、進行方向を遮るように影が落ちた。

 制服姿の警察官が二人。横には、夕闇に赤色灯を沈めたパトカーが止まっている。

 

 

「……何」

 

 

 中森警部の部下か。それとも、任意聴取の前触れか――キッドとしての。

 どんよりとした思考で、快斗は虚ろな目を向けた。

 

 警察手帳を出そうとする男と目が合った瞬間、快斗の心臓が、警告音のような激しい鼓動を打った。

 

 

(なんだ……こいつ。……目が、生きてねぇ……)

 

 

 中森警部のような、泥臭くも熱い執念など微塵もない。

 だがそれだけで「警察じゃない」と断じるには、あまりに整いすぎている。

 

 無駄がない。迷いがない。感情の揺れが、視線のどこにも引っかからない。

 

 人間を見ているというより――“手順”を見ている目だ。

 

 

(……いや、違う)

 

 

 理屈では説明がつく。警察にこういう奴がいないとは限らない。

 

 それでも――説明の筋道より先に、“違う”という感覚だけが喉の奥に引っかかっていた。

 

 ただ、この男は「こちらを見ているようで見ていない」。

 

 人間を見ていないのか、それとも――人間として見ていないのか。

 その境目だけが、最後まで輪郭を持たなかった。

 

 

「少し、署まで同行願えるかな。……葵花梨さんの件で、聞きたいことがある」

 

「え……。っ……!」

 

 

 花梨の名前を出された途端、快斗の喉が小さく鳴った。

 

 なぜかはわからない。

 だが次の瞬間、全身の毛が逆立つような寒気が背筋を駆け上がる。

 

 脳裏に浮かんだのは、あの展望スペースで見た彼女の綺麗な顔だった。

 

 

『あなたが、自ら怪盗キッドだと名乗らない限り――』

 

 

 凛とした、けれどどこかこの世の理から外れたような、あの祈り。

 今の快斗にとって、それは“愛の告白”でも“励まし”でもなく、ただの“不気味な呪文”でしかなかった。

 

 

(意味わかんねぇよ……! キッドがどうとか、辿り着けないとか……! 現にこうして、警察がオレの前に来てんじゃねーか……!)

 

 

 彼女の言ったことは、全部デタラメだ。

 「誰も辿り着けない」なんて言ったそばから、彼女は消え、自分はこうして警察に囲まれている。

 守るどころか、あいつはわけのわからない言葉でオレを煙に巻いて、独りで逃げただけじゃないのか――。

 

 

「……嫌だね。断る」

 

 

 吐き捨てるように言い、快斗は警察官の横をすり抜けようとした。

 だが、ガシッと肩を掴まれる。指が食い込むほどの異常な握力。

 目の前の男の“違和感”がじわりと輪郭を持ちはじめる。

 

 

「……拒否権はない。大人しくしなさい」

 

 

 男の瞳の奥に、明確な暗い悦びが宿る。

 その瞬間、快斗の“怪盗”としての本能が、全身の毛穴を開かせた。

 

 言葉は丁寧だ。手続きも警察そのものだ。なのに――。

 

 質問は“聞き取り”ではなく、“確認”だ。

 感情の揺れが一切ない。自分を見ているようで、実際には見ていない。

 

 

(……中森警部の部下の動きじゃねぇ)

 

 

 現場で人間を相手にしている目じゃない。

 もっと淡々と、手順だけを処理する“何か”の視線。

 

 胸の奥が、嫌な音を立てた。

 

 

(こいつら……警察の皮をかぶってるだけだろ……)

 

 

 理由はない。しかし、背筋だけが先に危険を告げていた。

 ……ここにいたら“消される”。

 快斗は反射的に肩を捻り、軽快な身のこなしで男の腕を振りほどいた。

 

 

「っ、っざけんな!!」

 

 

 肺が焼けるような苦しさを覚えながら、快斗は夜の街へと走り出した。

 背後で聞こえる、怒号と急加速するタイヤの摩擦音。

 

 わけがわからない。

 

 花梨が何を言っていたのかも、なぜ自分が追われているのかも。

 ただ、彼女が残した“理解不能な言葉”だけが、逃げる快斗の耳元で、嘲笑うようにリフレインし続けていた。

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 

 逃げているうち、空はいつの間にか雲に覆われ、雨が降り始めた。

 自宅まで戻ってきたが、家の前にもパトカーが二台停まっていた。

 近くにも数人うろついていて――追っ手の数が多かった。

 

 今はキッドに変装しているわけでもない、“黒羽快斗”として追われているのだ。

 

 

「チッ、これじゃ家に戻れねぇ……!」

 

 

 快斗は自宅に背を向け走り出す。

 

 

「はぁっ、はぁっ……クソッ、なんなんだよっ、意味わかんねえ……!」

 

 

 なぜ自分が追われているのか……わけがわからない。

 

 理由があるとすれば、キッドが自分であると気づかれたということくらいだが、他の要因があるとするならば――。

 

 

「っ……花、梨……か?」

 

 

(そうだ、あの警察官、偽物かなんか知らねーけど、花梨のこと聞いてた……!!)

 

 

 普段キッドとして追われているからか、すっかり失念していた。

 警察官は、はっきり「葵花梨さんの件で、聞きたいことがある」といっていたじゃないか。

 

 

「花梨……お前……いったい……」

 

 

 あの日から風呂も入らず、ほとんど眠れていない快斗の目の下には隈が酷く、服もボロボロ。雨にも降られて、全身ぐちゃぐちゃだ。

 

 走っても、走っても、追っ手の気配だけが背中に残り続けた。

 それでも快斗は、その視線から逃げるように走り続けた。

 

 ……雨の音だけが、やけに大きく聞こえていた。

 

 

「……おや? 快斗ぼっちゃま……?」

 

「っ、ジイちゃん!?」

 

 

 気づいたときには、ブルーパロットの前に立っていた。

 店看板を片づけていた寺井が、快斗を見つけて息を呑む。

 

 

「っ……何があったんですか!? 大阪から戻っているとは思っていましたが連絡もなく……こんな……こんなぼろぼろになって……!! ささっ、早く中へ……!」

 

 

 寺井に支えられ、店内に運び込まれる快斗。

 

 

「ぼっちゃま……一体何が……」

 

 

 その問いに答える余裕もなく、快斗はそのまま椅子に座らされた。

 濡れた服を脱がされ、温かいタオルを当てられた時、彼はふと思い出す。

 

 

(……そういえば、花梨も……ここで、ジイちゃんに助けられたんだっけ……)

 

 

 同じ場所で、同じ温もりに救われていた二人。

 けれど今、花梨がいる場所は、温もりとは程遠い“凍てつくような闇”の中……その事実を、快斗はまだ知らない。

 

 

「……花梨は」

 

 

 快斗はタオルを握り締めて一瞬言葉を詰まらせ、それでも視線を逸らしたまま続けた。

 

 

「……急に、留学、したんだ……っ、大阪から、そのまま、っ、行っちまって……」

 

 

(『留学』なんて嘘なのに、こう言うしかねーなんて……)

 

 

 彼女の嘘を認めたくないが、喉を詰まらせながらそれだけ言って、唇を噛む。

 それ以上は、自分でも説明できなかった。

 

 

「……そう、でございましたか」

 

 

 寺井はそれ以上踏み込まず、静かに温かいココアを差し出した。

 

 

「……おや、いけませんな。雨に当てすぎては、根が腐ってしまう」

 

 

 寺井がふと思い出したように表へ出ると、店の軒先に置いてあった小さな鉢植えを、大切そうに抱えて戻ってきた。

 そこには、雨に打たれて震える、可憐な青い花が咲いている。

 

 

「……それ、勿忘草か?」

 

「ええ。花梨ちゃんからいただいたものです。『青い花が可愛いからコウちゃんに!』と。開花時期が少し遅れていたのですが、最近、ようやく咲きましてね。……お嬢様、五月最後の木曜、これを見に、顔を出してくださったんですよ」

 

 

 快斗の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

 五月最後の木曜日。彼女が大阪へ向かう、まさに前日のことだ。

 

 

「……何か、言ってたか」

 

 

 寺井を見もせず、快斗は勿忘草に目を向けたまま告げた。

 

 

「ええ。勿忘草の花言葉は、“私を忘れないで”ですよってお伝えしたら、花梨ちゃん……『わぁ、すてき! じゃあコウちゃん、私を忘れないでくださいね』と微笑んでおられました。……『快斗にも贈っておけばよかったかな』とも」

 

「…………っ」

 

 

 息が止まった。

 快斗の脳裏にそのときの花梨の様子が浮かぶ。

 

 きっと、彼女はいつものように、ふんわりと柔らかく笑ったのだ。

 春の陽だまりのような、温かく優しい微笑みで……。

 

 目を閉じると、まだいくらでも思い出すことができた。

 

 

「ですが……その時の彼女の瞳には、涙が溜まっておりまして。『嬉し泣きです……』とおっしゃっていましたが……。今思えば、あれは……」

 

 

 寺井の言葉が、快斗の脳裏で黒いチューリップの残像と激突する。

 

 教室に残された、「私を忘れて」という絶望の花。

 寺井に託された、「私を忘れないで」という希望の祈り。

 

 どちらが本当なんだ。

 あいつは、オレに忘れられたいのか、それとも、忘れてほしくないのか――。

 

 

「……っ、ふざけんなよ……。勝手なんだよ、どっちなんだよ、花梨……!」

 

 

 快斗は顔を覆い、温かいタオルの熱に縋るように声を漏らした。

 矛盾する二つのメッセージ。

 

 けれど、その矛盾こそが、彼女が今、自分の意志とは違う巨大な力に抗っている証拠に思えてならなかった。

 

 

「……ジイちゃん。……オレ、これ、預かってもいいか」

 

「もちろんでございます、ぼっちゃま。……この花が枯れないうちに、花梨ちゃんを……連れ戻して差し上げてください」

 

 

 小さな鉢植えで咲く勿忘草が雨に濡れて、まるで泣いているように見える。

 木曜の夜、雅美のために泣いていた花梨の姿が重なった。

 

 快斗はそれをそっと抱きしめ、呟く。

 

 

「……花梨、オレは、絶対忘れねえからな……」

 

 

 快斗の誓いが、静まり返った店内に、祈りのように響く。

 その青い花びらが、まるで彼の震える声に呼応するように、微かに揺れた。

 

 

 “――忘れないで”

 

 

 その切実な“音”は、雨音に混じって夜の空へ溶け出し、遠く離れた漆黒の檻の中にいる、一人の少女の心へと届いたかもしれない。

 

 

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