白月の君といつまでも   作:はすみく

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-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
「宮野志保さん」――組織の医務室で目覚めた花梨は、目の前の少女が、明美が命懸けで守ろうとした妹であることを瞬時に悟る。ジンの冷徹な視線、そしてニューヨークでの「貸し」を囁くベルモット。自らの異能が組織に証明され、逃れられない因縁に囚われた花梨。地獄の特等席で、少女たちの運命が残酷に交錯し始める。

第202話
施設の廊下は薄暗い。


202:測る者と測られる者

「はあ……」

 

 

 またしてもシェリーの口から長いため息が出る。

 花梨は未だ放心状態のままで、焦点が定まらない。

 

 ベルモットが残していった甘美で危険な余韻が、冷たい部屋の空気にしつこくまとわりついている。

 

 

「……花梨さん……? 大丈夫?」

 

「…………」

 

 

 シェリーは花梨の前で手を振ったが、花梨の意識はどこかに飛んだままだった。

 

 

「花梨……?」

 

「……あっ、え、えと。女の人に“ちゅっ”てされたの初めてで、びっくりしちゃった……」

 

 

 再び声をかけられて、花梨はやっと目の前のシェリーを見上げる。

 絶望的な状況下で、あまりにも場違いで等身大な少女の感想。思いもよらない返答が返ってきて、今度はシェリーが硬直した。

 

 

「…………」

 

「……?」

 

 

 突然黙り込んだシェリーに、花梨は首を小さくかしげる。

 

 先ほどジンを前にして流した“予知”や“感応”の鋭さは鳴りを潜め、そこにはただ、戸惑う一人の少女の姿がある。

 ふわりとした、どこまでも澄んだ空気を花梨から感じて、シェリーの瞳が瞬いた。

 

 

「あなたって……不思議な人ね……」

 

 

(毒気がないっていうか、なんていうか……)

 

 

 ここは汚泥の底――組織の施設内だというのに。

 彼女がいる周辺だけ、まるで別の空間、あるいは侵しがたい神聖な領域のような錯覚を覚えた。

 組織の人間が誰一人として持ち合わせていない“透明な心”に、シェリーは皮肉にも救われるような心地がした。

 

 

「えと? あの……質問って……?」

 

「……え? あ、ええ……。あなたが神子であると証明するために、いくつかの質問と実験をしたいのよ。協力してもらうわ」

 

 

 シェリーは無理やり仕事の仮面を被り直し、クリップボードを握りしめる。

 彼女がこれから行うのは、この少女の“価値”を数値化し、組織に献上するための残酷な作業だ。

 

 

「……はい……。痛いことしますか?」

 

「痛くはないわ……でも、そうね……血液採取をするからチクッとはするかもね」

 

「チクッとならなんとか……。よかった、殴られたりしないんですね」

 

 

 花梨はほっと胸を撫で下ろす。

 

 殴られるとしばらく痛いから困る。すぐに痛みが引くならなんとか耐えられるけれど――と、ただ、それだけの意味で言った言葉だった。

 

 

「な、殴っ!? 大人しく協力してくれるなら、そんなことしないわ……」

 

 

 シェリーは思わず声を荒らげ、それから言葉を失った。

 

 花梨の背負ってきた凄惨な過去――彼女の資料に載っていた“竜哉による暴行・集団いじめ”の記録が、シェリーの脳裏をよぎる。

 暴力が当たり前の世界で生きてきた彼女にとって、殴られないことが最大の安堵であるという事実に、シェリーの胸が痛んだ。

 

 シェリーの言葉に、花梨はしばし考え込むように首を捻った。

 

 

「…………」

 

 

 ほんの一拍だけ、花梨の視線が落ちる。

 

 

「大人しく協力……? 協力か……えと、質問と実験にお付き合いすればいいんですか?」

 

 

 花梨はまっすぐにシェリーを見つめた。

 さっきまで不安げだった金色の瞳に、強い意志が宿ったような視線。

 

 引き込まれる……。

 シェリーはコクリと息を呑む。

 

 

「え、ええ……」

 

「……私で、お役に立てるかはわかりませんが、せっかくなので、できるだけお答えしようと思います」

 

 

 胸の前に、包帯で巻かれた片手のひらをそっと置き、花梨は静かに目を伏せる。

 うっすらと唇は弧を描き、落ち着いた様子だった。

 

 先ほど花梨は、シェリーに触れて涙してはいたが、今は泣くでもなく、助けを請うでもなく、すっかり落ち着いている。

 拐われて、どこかも分からない場所に連れてこられたというのに、この落ち着きよう……“ただものではない”ということだけは、シェリーにもすぐに理解できた。

 

 

「……せっかく? 何のせっかく? どういう意味?」

 

「ふふっ、こちらに来た“せっかく”……でしょうか」

 

 

 六月に入った今、花梨の命はあってないようなもの。

 近いうちに、ここで自分は生を終える。

 どうせだからと、縁ができたここで、誰かの役に立てるのならば……。

 

 花梨はそんな気持ちで、シェリーの持つクリップボードを見つめる。

 

 

「……わけがわからないわ……まあいいわ。その前に、お腹は空いていないかしら?」

 

「お腹……?」

 

 

 言われた途端、花梨の腹が小さく、けれど正直に鳴った。

 

 

「う……」

 

 

 花梨は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯く。

 

 

「……ふふっ、ちょっと待ってて」

 

 

 シェリーの唇に、今日初めて本物の微笑みが浮かんだ。

 彼女は部屋を出て行き、数分するとトレイに乗った食事を持ってきた。

 

 

「あなたが寝ている間に検査したけど……ずっと食べていなかったでしょ? 低血糖気味だったわ」

 

 

 差し出されたのは、組織の配給食とは思えないほど、温かくて栄養バランスの取れたスープとパン。

 シェリーが、限られた権限の中で精一杯用意した優しさだった。

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 

 食事を終えて、花梨は静かに手を合わせる。

 シェリーは花梨が食べ終わるまで、待っているうちに微睡んでいた。

 

 花梨はベッドの傍らで、舟を漕ぐシェリーの肩をそっと叩く。

 

 

「ん……? ……はっ! や、やだ、私、眠っていたみたいね……」

 

 

 人前で居眠りするなんてらしくない。

 彼女の――神子の清浄な気に当てられたのだろうか。

 

 白河の神子という存在は、奇異な存在だなと、あくびを噛み殺しながらシェリーは思った。

 

 

「……あんまり眠れていないんですよね? もう少し休みますか? 私、子守歌歌いましょうか? 十五分だけでも眠ると、頭がすっきりしますよ……?」

 

「子守歌って……」

 

「あ、私の歌声って、眠くなるらしくって……前に、歌を聴いた人たちを眠らせちゃったことがあって……」

 

 

 以前、園子に誘われ、蘭たちとカラオケに行ったときのことだ。

 あのときは殺人未遂事件に巻き込まれて驚いたが、花梨が歌を歌ったとき、その場にいた全員が眠ってしまった。

 

 なぜ眠ってしまったのかはわからないが、新一にも声が特殊だと言われたことがある。

 

 

「へぇ……声、ね……」

 

 

(確かに、優しい声をしているわね。話していると、まるで、陽だまりの中にいるみたいに感じるもの)

 

 

 シェリーはクリップボードに特記事項として、声に関する情報を書き記す。

 

 

「花梨さん。これから質問と、実験を毎日していくけど、適格か、不適格か――あなたの結果次第で、組織に入ってもらうことになるわ……」

 

 

 ……一瞬の間。

 シェリーのボールペンをカチカチと押す音が、部屋に静かに響いた。

 

 

「不適格だった場合は死――ですか?」

 

「…………」

 

 

 シェリーは答えない。

 

 

「……ふふっ、わかってます。私、そうなる運命らしいので」

 

 

 小さく微笑む花梨の物言いは、“不適格”になると見越しているような言い方だった。

 

 

「花梨さん……」

 

「シェリーさん。いえ……志保、さん?」

 

「シェリーでいいわ。なんだったら二人きりのときは、“志保”でもいいし。私もあなたのこと花梨って呼ぶから。敬語も不要よ」

 

「志保ちゃん……」

 

「花梨……」

 

 

 二人は見つめ合い、束の間だが、穏やかな時が流れた。

 花梨の純粋な瞳にシェリーは心で詫びる。

 

 

(ごめんなさいね、花梨……あなたを泥の中に沈ませてしまって……)

 

 

 一呼吸置き、シェリーの瞼が閉じられる。

 次に目を開けたとき、さっきまでの穏やかな気配は消え、彼女の瞳は鋭さと冷徹さを孕んでいた。

 

 シェリーはいくつか花梨に質問を重ね、最後に“実験”とは言わず、“検査”と称して説明し始めた。

 

 

「……これから組織の人間を五人呼ぶから、彼らの名前と生年月日、最近の出来事を当ててもらうわ」

 

「……はい……わかりました……」

 

 

 丁寧に答えると、じろりと一睨みされ、花梨は言い直す。

 

 

「――あ、うん、わかった」

 

「そう、それでいいの。別の部屋に移るけど……歩けそう?」

 

「うん、ご飯食べたから大丈夫だよ」

 

 

 シェリーの問いに、花梨はふわりと微笑みながら答える。

 花梨の言った通り、食事をしたからだろう、ずいぶん顔色が良くなった。

 

 

「ふふっ。じゃあ部屋を移動するわね、ついて来て」

 

 

 ふんわりとした花梨の優しい笑顔に、思わず釣られたシェリーは席を立つ。

 花梨はベッドから下りてシェリーの後ろについていった。

 

 医務室の扉を抜けた途端、照明の灯りが落ちる。

 施設内部の廊下は薄暗い。

 足元のみを照らす必要最低限の照明があるだけだ。

 

 

「全部終わったら浴室に案内するわ」

 

「わぁ♡ お風呂があるの!? うれしい! 金曜からお風呂に入れてなかったから、臭くないかなって心配してたの」

 

 

 花梨は薄暗い廊下を気にすることもなく前を歩くシェリーに、明るい声で手を合わせ、軽く頭を下げた。

 

 

「眠ってる間に清拭はしておいたから臭くはないわよ。間の抜けた顔して……まったく……あなた、自分が囚われの身だってことわかってるの?」

 

「ん~? うん、わかってるよ? 私、昔からよく拐われてるから。こういうの、慣れてるの」

 

「……そう、だったわね……今回で…………っ、二十回目……」

 

 

 シェリーは手元の資料を見下ろし、ペンライトで浮かび上がった花梨の誘拐履歴を上から順に追っていたが、途中で動きが止まった。

 

 

「……神子って大変なのね」

 

「私、神子じゃないんだけどな……」

 

 

 本物の神子は自分ではなく、親戚の稀華だ。

 これから行うのは、神子の実験らしいが、自分は偽物――なぜそんな必要があるのかさっぱりわからない。

 

 これまで、何度か稀華の代わりに拐われたことがあるが、いずれも最終的に偽物だとして、帰されているというのに……。

 

 

(稀華ちゃんみたいに視えた分、はっきり言っちゃっていいのかなぁ……。未来はちょっと怖いけど、過去なら言っても大丈夫だよね……?)

 

 

 どうせ、もうすぐ尽きる命。

 最期くらい、自分の思うように振る舞わせて欲しい。

 

 ……そうして花梨は、組織が用意した人間たちの過去を、次々と詳らかにしてみせたのだった。

 

 

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