▽前回のあらすじ
「あなた、紛れもない白河の直系よね?」――。優雅なティータイムの中、ベルモットは花梨が「偽物」だと思い込まされてきた残酷な嘘を暴く。明かされる正統な血筋と、彼女を影から守り続けてきた謎の存在『影衆』。突きつけられた「白神子」という宿命に、花梨は激しい動揺と共に、己のアイデンティティを揺さぶられる。
第204話
志保と…。
◇
医務室は、壁も、床も、天井も。視界のすべてを埋め尽くすのは、目に刺さるような無機質な白一色の世界――。
窓一つないその空間には、時間の流れさえも凍りついたような錯覚を覚える。
「じゃあね、花梨ちゃん。今日はゆっくり休みなさい♡」
ベルモットが医務室まで送り、優しく頭を撫でてくれたが、花梨は呆然としたまま、その声は空虚に響くだけだった。
去り際、耳元で「“白神子”についてはまた今度ね♡」と囁かれた気がするが、今の彼女の脳内は、その言葉を処理する余裕さえ残っていない。
彼女が去った後は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
(私が……神子……?)
急にそんな重い事実を突きつけられても、どうしていいかわからない。
花梨は、わずかに震える手つきでベッドに腰を下ろし、無意識にネックレスへと指を伸ばした。ネックレスのトップに埋め込まれた小さなシトリンだけが、じんわりと温もりを返してくれる。激しく乱れた心のさざ波が、少しずつ静まっていった。
これまで、自分を「神子」として扱ってくれる人なんて、一人もいなかった。
「偽物」「白ねずみ」「身代わり」。
そんな言葉の中で生きてきた自分。
それが突然、世界の闇の住人から「あなたが正統な白河の後継よ」と言われたところで、どう受け止めればいいのか。
「……白河の神子……かぁ~……。じゃあ、稀華ちゃんも、ってことだよね……?」
稀華には確かに、人々の心を見透かし、過去や未来を言い当てる力がある。
その言葉一つで大人たちが平伏し、救われていく姿を、花梨は檻のような別邸から何度も見ていた。
直系の血筋は確かに自分かもしれない。けれど、稀華だって同じ白河の血を分かち合った、大切なはとこ。傍系から神子が生まれてはいけないなんて、そんな決まりが本当にあるのか……花梨にはわからなかった。
一人じゃないなら、本当は心強いはずなのだ。
これまでだって、神子見習いとしての神事は、来賓がいる前では彼女がこなし、応対してきた。自分は彼女の身代わりで人間が入ることのない神域まで向かい、神に祈り、神楽を舞った。
正式な神子となれば、それは稀華のお役目となるのだろう……。
稀華は、いつの頃からか自分に牙を剥くようになったけれど、根っからの悪人ではないと、花梨は信じている。
(私が、白河に引き取られたとき……最初に声をかけてくれたのは……稀華ちゃんだから……)
あの時、着古した服で震えていた自分に、最初に笑顔で手を差し伸べてくれたのは彼女だった。
「仲良くしましょうね」と笑った、あの幼い日の無垢な瞳。
だが、花梨の髪から色が抜け、真っ白に染まっていくのと反比例するように、彼女の瞳からは光が消え、言葉には毒が混じるようになった。
次期当主に稀華がなりたいというのなら、自分は喜んでその座を譲るつもりだ。
けれど、もしベルモットの言う通り“後継は直系のみ”という呪縛があるのだとしたら――。
「それで、私の命を……?」
自分には、もう未来がない。
母が視た未来。十七歳になる年の六月、その先の景色は、母の眼にも、そして今の自分の眼にも映らない。
(六月に私が死ぬことで、稀華ちゃんが正式に“神子”として認められる……。お婆さまも、そのために稀華ちゃんを育ててきたんだよね……?)
死を目前にした自分が“直系”であることを自覚したところで、何が変わるというのか。
むしろ、自分が消えることこそが、白河の家にとっても、稀華にとっても、そして胸を引き裂かれる想いでお別れした快斗にとっても、最善の結末なのではないか。
「うん、うん……そう、だよね……」
花梨は自分に言い聞かせるように、真っ白な天井を見上げて小さく頷いた。
その瞳に宿る覚悟は、あまりにも静かで、残酷なまでに透き通っていた。
「……何を、そんなに悟りきった顔をしているのよ」
静寂を破ったのは、白衣を翻して戻ってきた志保の声だった。
彼女の手には、さっきの無骨なクリップボードではなく、何やら清潔そうなバスタオルと、使い古されてはいるものの、手入れの行き届いた部屋着が抱えられている。
「あ、志保ちゃん……」
「『うん、うん』なんて頷いちゃって。……いい、花梨。あなたが何を考えているかは知らないけれど、勝手に一人で完結させないでちょうだい。少なくとも、今は私の管理下なんだから」
志保は少しだけぶっきらぼうに言い放つと、花梨の前に立って、その細い肩をそっと押した。
「ほら、立って。まずは約束通り、お風呂よ。金曜日から入れてなかったんでしょ? そんなんじゃ、思考まで淀んでくるわよ」
「あ、うん……ありがとう」
花梨が促されるままに立ち上がると、志保は彼女を連れて、医務室の奥にある浴室へと向かった。
そこは、組織の施設内とは思えないほど、湯気がふわりと立ち込める温かな空間だった。
「はい、これ。中にはシャンプーも石鹸も揃ってるわ。……本当は私が洗ってあげたいところだけど、まずは一人でゆっくり浸かってきなさい」
「……志保ちゃんは、入らないの? 一緒にどうかな?」
「一緒に……? ……いいから、行きなさい。上がったら、髪を乾かしてあげるから」
扉を閉められ、一人になった浴室。
花梨はゆっくりと服を脱ぎ、包帯を解くと、数日ぶりに温かい湯船の中にその身を沈めた。
(……温かい……)
じんわりと肌に染み込んでくる熱。
それは、昨日の朝まで隣にいた、快斗の体温を思い出させるような温度で。
湯気で視界が潤むなか、花梨は髪を洗うために、志保が用意してくれたシャンプーを手にとった。
……その瞬間、ふわりと香ったのは、組織の殺風景な匂いではない、どこか懐かしい花の香りだった。
そのとき、曇りガラスの扉の向こうでガタッと音がした。
「……?」
『花梨……』
志保の声とともに、扉に白い影が映る。
「志保ちゃん?」
『開けてもいいかしら?』
「いいよ~」
花梨の返事に扉が開く。
そこにはバスタオルを巻いた志保が立っていた。
「あ、やっぱり一緒に入る?」
浴室に入って来た志保に、花梨はにこっと微笑み、少しだけ横にずれる。
「……これは仕事よ。神子の身体もチェックしなきゃいけないの」
志保はそう言ったあと、小さく付け加えた。
「それに、傷の治り具合も確認しないといけないしね」
「なんで顔赤くしてるの?」
「っ……」
志保が隣に膝をつくと、白い湯気の中でもわかるほど、顔が真っ赤だった。
彼女は無言でシャワーを手に取り、湯を浴び始める。
「……ふう」
(まったく、この子は恥ずかしいとかそういう気持ち、ないのかしら……さすがは神子さまってこと……!?)
花梨と正面から目を合わさないように、志保はバスタオルを巻いたまま、無言で身体を洗っていく。
志保がチラチラと花梨に視線を向けると、花梨はタオルを纏うことなく瞼を閉じて、一心に髪を洗っていた。
一度じゃ落ち切らなかったようで、一度目のシャンプーを洗い流し、二度目に取り掛かっている。綺麗好きなのだなと、一つ、花梨の生態を知れた。
(これは、神子の生態観察というより、個人的関心かもね……)
花梨の白すぎる肌に、なんとなく目を奪われ、志保は見入ってしまう。
塗り薬が効いたのだろう、竜哉に傷つけられた腕や顔の傷が薄くなっていた。
(よかった。傷は数日以内に消えそうね……)
あとでまた薬を塗ってあげないと……と思っていると、ふと、花梨が志保へと目を向けた。
「……ね、志保ちゃん。顔が赤いけど大丈夫?」
「っ……のぼせてるだけよ。余計なこと言わないで。……ほら、背中流してあげるから、後ろ向きなさい」
花梨と目が合い、瞬間、志保の顔が火が出たように真っ赤に染まった。
こんな風に女同士で風呂に入るなんて、姉の明美以来だ。
正直なところ、少し緊張してしまう。
「え、今、頭洗って……」
「いいから」
志保は花梨に背を向けさせると、丁寧に泡立てたタオルでその白い背中を撫で始めた。
けれど、その手つきは驚くほど慎重で、まるで薄氷に触れるかのよう。
花梨の肌には、竜哉から受けた暴行の傷以外に、薄く残った小さな鬱血痕がいくつもあった。
それは、恐らく、報告書に書かれていた彼女の恋人――黒羽快斗が付けたものなのだろう。
清拭の時にも見たはずの、花梨の肌に刻まれた“愛の痕跡”。
こうして温かい湯気の中で見ると、それは痛々しい暴力の跡ではなく、誰かが必死に彼女という存在を繋ぎ止めようとした“祈り”のようにも見えて、志保は胸の奥がキュッと締め付けられる。
「……大切にされていたのね。あなた」
「え……?」
「……ううん、独り言よ。髪、流すわね」
志保の細い指が、花梨の白い髪の間を泳ぐ。
その時、花梨がふと、志保の用意したシャンプーの香りに目を細めた。
「ねぇ、志保ちゃん。この匂い……長野の家の裏山に咲いてた、鈴蘭の匂いに似てる……」
「……そう。偶然ね。私もその香り、嫌いじゃないわ」
(あなたのために用意したのよ。神子だと確定してしまったあなたに、せめて少しだけでも気分が上がるように……)
シャンプーは志保が手配したものだった。
神子実験はすべて終了した。結果は、否定の余地がなかった。
薄々そうだろうということは感じていたが、“花梨が神子で間違いない”という結果がはっきりしてしまった。
そんな彼女には、次の実験へと進んでもらわなければならない。
白河で秘かに語り継がれた、最も深いところにある、一つの存在についての検証――。
それをクリアしてしまったら、彼女はもう……人間と呼んでいいのか、わからなくなる。
志保は唇をぎゅっと噛み締める。
「ふふっ。志保ちゃんて、優しいんだね。ありがとう」
鏡越しに花梨と目が合うと、彼女は穏やかに微笑んだ。
「……ふ。別に、優しくなんてないわ。買い被り過ぎよ」
(なんで、こんなに普通に笑えるのかしらね……)
志保は呆れたように笑いながらも、シャワーで花梨の泡を流してあげる。
組織の冷たい壁に囲まれた場所で、そこだけがまるで“普通の女子高生”の放課後のような、穏やかな時間が流れていた――。