▽前回のあらすじ
「十七歳になる年の六月、その先の景色は視えない」――。己の命の終わりを悟り、身代わりに捧げられる運命を静かに受け入れる花梨。そんな彼女の頑なな心を、志保(シェリー)は不器用な優しさで解きほぐしていく。束の間の浴室での語らい。だが、異能実験の成功は、花梨を人間ならざる領域へと踏み込ませる、さらなる残酷な検証の幕開けでもあった。
第205話
月見草って可愛いよね。
◇
白い髪が熱い風に舞い、志保はその毛先を丁寧に梳いていく。
……カチ。
花梨の髪を乾かし終え、志保――シェリーはドライヤーを棚に戻すと、研究者の顔に戻って声を発した。
「ねえ、花梨」
「ん?」
「……次の……実験のことなんだけど……」
テーブルに置いておいたクリップボードを、再び手にするシェリーの声は震えている。
「あ、うん。ジンさんが連れてってくれるんだね? 車で……」
クリップボードを見たのだろうか。
だが、クリップボードの書類に、ジンが同行するなどという記述は一言もなかった。
それはまだ決定していないはずの予定――。
なのに花梨は、まるでそれが“既に決まった事実”であるかのように口にした。
(“まだ起きていない現実”を、既定事項として認識している……?)
さっき浴室で触れたとき、自分から視たのだと気づき、シェリーは息を呑む。
「っ……そう、視えたのね……」
(未来視もできるのね……これじゃ、ますます組織が手放したくなくなるわね……)
神子の検証は、過去視実験のみで十分だったが、未来視までできるとなると、彼女の価値が数段上がる。
純粋で、ふんわり穏やかな花梨に、組織のような場所で、後ろ暗い役目をさせるのは心が痛くて仕方ない。
「あはは……普段はあんまり視ないようにしてるんだけどね。もう、いいかなって思って」
どこか、元気がなさそうに花梨の瞼が伏せられる。
すべてを諦めたような瞳だ。
「……そんな諦めた目をしないでちょうだい。まだわからないでしょ?」
「……ふふ、そうだね」
(でもね、志保ちゃん。私、たぶん、ジンさんに殺されるんだと思うんだ)
ジンを初めて見たとき、花梨は身体が動かなかった。
あれは、神子の本能がそう感じ取ったのか……。
いや、違う。
過去視も未来視も関係ない。
あれは、捕食者にターゲッティングされた生物の本能だった気がする。
「……出発は
「自由に……」
「逃げようなんて、思ってないんでしょ?」
「……そう、だね……」
竜哉に、自分を脅すために使われた快斗たちのデータは削除させた。
けれど、それで本当にすべて消えたのかは分からない。
組織がどこまで彼らの情報を握っているのかも、今の花梨には判断できなかった。
(もし、私が逃げたら……)
その想像だけで、胸の奥が冷たくなる。
下手に動けば、快斗たちに危害が及ぶかもしれない。
それだけは、絶対に避けたかった。
ここにいる意味は、それだけで十分だった。
花梨は志保に柔らかく微笑んでみせる。
その微笑みが志保には泣いているように見えた。
「…………暇なら、明日、地上にオフィスがあるから行ってみたら?」
「オフィス? 自由に出入りしていいってこと?」
「施設内であなたの入れない場所なんてないわ。今日実験に協力した人たちもいるし……どうにかなるでしょ」
実験結果をジンに報告したとき、彼は何かを考え込むようにして、「出発まで好きにさせておけ」と言い残し、施設から出て行った。
つまり施設内では、花梨に自由を与えても問題ないということだ。
彼女が逃げないと確信してるかのようだった。
「そうなの!? じゃあ、明日行ってみるね!」
「ふふっ、なんで楽しそうなのよ……あなたって変な子ね」
「? そうかなぁ~……? あっ、いっ……」
不意に、竜哉から受けた傷が痛み、花梨は眉をしかめる。
「そろそろ休みなさい。まだ怪我、治ってないでしょ。身体、辛いはずよ。食事はあとで持ってきてあげるわ」
「わぁ……ありがと~、志保ちゃん」
「お礼なんていいのよ。じゃあね」
花梨はやっぱり穏やかに笑っていて。
志保はそれ以上彼女の顔を見ていられなくなり、医務室をあとにした。
◇
翌日。
志保に言われた通り、花梨は施設の地上階にあるオフィスへと足を運んでいた。
そこは表向きは貿易会社を装っており、スーツ姿の男女が忙しなく電話やパソコンに向かっている。だが、その誰もが腰に銃を忍ばせ、鋭い視線を交わし合う、毒気に満ちた空間だ。
そこに、真新しい白いワンピースを揺らし、場違いなほど柔らかな気配を纏った少女が迷い込む。
「あ……昨日の。……昨日はお疲れ様でした。筋肉痛は取れましたか?」
花梨が声をかけたのは、前日の実験で“一昨日の筋トレの内容”を言い当てられた屈強な構成員だった。
彼は一瞬、蛇に睨まれた蛙のように硬直したが、花梨の曇りなき瞳に見つめられ、毒気を抜かれたように頬をかいた。
「あ……ああ。……まあな。なんでわかったんだ?」
「ふふっ。昨日は辛そうに肩を回してらしたので。……筋肉痛にはタンパク質とビタミンの補給、それと十分な睡眠が大事みたいですよ? たまにはゆっくり眠ってくださいね」
“神子さま”という畏怖の対象から、そんな等身大の心配をされ、構成員は耳まで赤くして俯いた。
「……っ、ああ、わかったよ……。悪かったな、昨日、睨んだりして……」
「いいんですよ。ふふっ、お大事に♡」
そんなやり取りがオフィスのあちこちで繰り返される。
殺気立っていたフロアに、ポツポツと戸惑い混じりの「穏やかな笑い」が生まれていく。
「あ、あの……」
花梨が窓の外を見つめる女性構成員に歩み寄る。
「……何かしら? 私に何か“視えた”?」
警戒する彼女に、花梨は少しだけ困ったように眉を下げて囁いた。
「……実験とは違うんですけど、なんだか嫌な風の匂いがして……。すぐそこに、大きな雨雲が来ています。……せっかくの洗濯物が、濡れちゃうかもしれませんよ?」
「えっ……!? 今日、一番お気に入りのシーツを干してきたのに!」
女性は慌ててスマホで自宅周辺の天気をチェックする。予報は晴れ。けれど、空の端には昨日花梨が視た暗い予兆が渦巻いていた。
「……信じるわ! 悪いけど一旦抜けるわね!」
彼女が脱兎のごとくオフィスを飛び出していくのを見送り、花梨は満足そうに微笑む。
恐怖の
組織の人間たちにとって、彼女はもう“得体の知れない神子”ではなく、“放っておけない、不思議で優しいお嬢ちゃん”になりつつあった。
……だが。
その穏やかな光景を、一階上のモニター室から、冷徹な氷の瞳で見つめる男がいた。
指に挟んだ煙草から、灰が音もなく落ちる。
「……フン。くだらねぇ茶番を……」
ジンの低い声が、静かな部屋に響く。
彼にとって、花梨が振りまく“光”は、より深く彼女を絶望へ突き落とすための、残酷な前振りに過ぎなかった。
「……壊れてねぇのが厄介だな。……勝手に“生き延びる形”を知ってやがる」
ジンが少しだけ視線を細めると、吸い込んだ煙草の火が一際明るく燃える。
「出発は明後日だ。シャルトルーズ……精々、人間らしく笑っていられる時間を楽しむがいい」
モニターの中で、構成員から差し出された缶コーヒーを嬉しそうに受け取っている花梨。
その首元で、シトリンのネックレスが、来るべき嵐を予感するように一瞬、鋭く光った。
花梨は何気なく笑っていた。
ただそれは「意識して空気を読んでいる」というものではなく、長い間そうしなければ傷つく環境で生きてきた彼女の、“身体の反射”だった。
誰かの声色が一段だけ変わる、そのわずかな揺れだけで、無意識に呼吸の形を変えてしまう。
「ふぅ……今日は色んな人とお話したなぁ……」
深い溜息とともに、花梨は地下の自室へと戻ってきた。
医務室から移されたその部屋は、窓のないコンクリートの壁に囲まれてはいたが、以前の“檻”のような圧迫感はない。
代わりに、主を待っていたかのように、棚の上に置かれた小さな鉢植えが一つ、暗がりに白く浮き上がっていた。
「……月見草かぁ……昼間はあんなに俯いていたのに、夜になったらこんなに綺麗に咲くのね。可愛い♡」
夕闇が完全に夜へと溶ける頃に花開き、朝の光とともに儚くしぼんでしまう、可憐で繊細な花。
そっと花びらに触れると、ひんやりとした命の感触が指先から伝わり、孤独な夜を慰めてくれているようだった。
なぜかその香りに触れると、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
理由のない郷愁。言葉にできない、遠い日の体温のようなもの。
黄色い花びらの縁で、それは揺れている気がした。
……ただそれだけが、確かにそこにあった。