白月の君といつまでも   作:はすみく

208 / 208
-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
「十七歳になる年の六月、その先の景色は視えない」――。己の命の終わりを悟り、身代わりに捧げられる運命を静かに受け入れる花梨。そんな彼女の頑なな心を、志保(シェリー)は不器用な優しさで解きほぐしていく。束の間の浴室での語らい。だが、異能実験の成功は、花梨を人間ならざる領域へと踏み込ませる、さらなる残酷な検証の幕開けでもあった。

第205話
月見草って可愛いよね。


205:捕食者の視線

 

 

 

 

 白い髪が熱い風に舞い、志保はその毛先を丁寧に梳いていく。

 ……カチ。

 花梨の髪を乾かし終え、志保――シェリーはドライヤーを棚に戻すと、研究者の顔に戻って声を発した。

 

 

「ねえ、花梨」

 

「ん?」

 

「……次の……実験のことなんだけど……」

 

 

 テーブルに置いておいたクリップボードを、再び手にするシェリーの声は震えている。

 

 

「あ、うん。ジンさんが連れてってくれるんだね? 車で……」

 

 

 クリップボードを見たのだろうか。

 だが、クリップボードの書類に、ジンが同行するなどという記述は一言もなかった。

 それはまだ決定していないはずの予定――。

 

 なのに花梨は、まるでそれが“既に決まった事実”であるかのように口にした。

 

 

(“まだ起きていない現実”を、既定事項として認識している……?)

 

 

 さっき浴室で触れたとき、自分から視たのだと気づき、シェリーは息を呑む。

 

 

「っ……そう、視えたのね……」

 

 

(未来視もできるのね……これじゃ、ますます組織が手放したくなくなるわね……)

 

 

 神子の検証は、過去視実験のみで十分だったが、未来視までできるとなると、彼女の価値が数段上がる。

 純粋で、ふんわり穏やかな花梨に、組織のような場所で、後ろ暗い役目をさせるのは心が痛くて仕方ない。

 

 

「あはは……普段はあんまり視ないようにしてるんだけどね。もう、いいかなって思って」

 

 

 どこか、元気がなさそうに花梨の瞼が伏せられる。

 すべてを諦めたような瞳だ。

 

 

「……そんな諦めた目をしないでちょうだい。まだわからないでしょ?」

 

「……ふふ、そうだね」

 

 

(でもね、志保ちゃん。私、たぶん、ジンさんに殺されるんだと思うんだ)

 

 

 ジンを初めて見たとき、花梨は身体が動かなかった。

 

 あれは、神子の本能がそう感じ取ったのか……。

 

 いや、違う。

 

 過去視も未来視も関係ない。

 あれは、捕食者にターゲッティングされた生物の本能だった気がする。

 

 

「……出発は明々後日(しあさって)よ。それまではこの施設内で自由に過ごしてていいわ」

 

「自由に……」

 

「逃げようなんて、思ってないんでしょ?」

 

「……そう、だね……」

 

 

 竜哉に、自分を脅すために使われた快斗たちのデータは削除させた。

 けれど、それで本当にすべて消えたのかは分からない。

 

 組織がどこまで彼らの情報を握っているのかも、今の花梨には判断できなかった。

 

 

(もし、私が逃げたら……)

 

 

 その想像だけで、胸の奥が冷たくなる。

 

 下手に動けば、快斗たちに危害が及ぶかもしれない。

 それだけは、絶対に避けたかった。

 

 ここにいる意味は、それだけで十分だった。

 

 花梨は志保に柔らかく微笑んでみせる。

 その微笑みが志保には泣いているように見えた。

 

 

「…………暇なら、明日、地上にオフィスがあるから行ってみたら?」

 

「オフィス? 自由に出入りしていいってこと?」

 

「施設内であなたの入れない場所なんてないわ。今日実験に協力した人たちもいるし……どうにかなるでしょ」

 

 

 実験結果をジンに報告したとき、彼は何かを考え込むようにして、「出発まで好きにさせておけ」と言い残し、施設から出て行った。

 つまり施設内では、花梨に自由を与えても問題ないということだ。

 彼女が逃げないと確信してるかのようだった。

 

 

「そうなの!? じゃあ、明日行ってみるね!」

 

「ふふっ、なんで楽しそうなのよ……あなたって変な子ね」

 

「? そうかなぁ~……? あっ、いっ……」

 

 

 不意に、竜哉から受けた傷が痛み、花梨は眉をしかめる。

 

 

「そろそろ休みなさい。まだ怪我、治ってないでしょ。身体、辛いはずよ。食事はあとで持ってきてあげるわ」

 

「わぁ……ありがと~、志保ちゃん」

 

「お礼なんていいのよ。じゃあね」

 

 

 花梨はやっぱり穏やかに笑っていて。

 志保はそれ以上彼女の顔を見ていられなくなり、医務室をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 志保に言われた通り、花梨は施設の地上階にあるオフィスへと足を運んでいた。

 そこは表向きは貿易会社を装っており、スーツ姿の男女が忙しなく電話やパソコンに向かっている。だが、その誰もが腰に銃を忍ばせ、鋭い視線を交わし合う、毒気に満ちた空間だ。

 

 そこに、真新しい白いワンピースを揺らし、場違いなほど柔らかな気配を纏った少女が迷い込む。

 

 

「あ……昨日の。……昨日はお疲れ様でした。筋肉痛は取れましたか?」

 

 

 花梨が声をかけたのは、前日の実験で“一昨日の筋トレの内容”を言い当てられた屈強な構成員だった。

 彼は一瞬、蛇に睨まれた蛙のように硬直したが、花梨の曇りなき瞳に見つめられ、毒気を抜かれたように頬をかいた。

 

 

「あ……ああ。……まあな。なんでわかったんだ?」

 

「ふふっ。昨日は辛そうに肩を回してらしたので。……筋肉痛にはタンパク質とビタミンの補給、それと十分な睡眠が大事みたいですよ? たまにはゆっくり眠ってくださいね」

 

 

 “神子さま”という畏怖の対象から、そんな等身大の心配をされ、構成員は耳まで赤くして俯いた。

 

 

「……っ、ああ、わかったよ……。悪かったな、昨日、睨んだりして……」

 

「いいんですよ。ふふっ、お大事に♡」

 

 

 そんなやり取りがオフィスのあちこちで繰り返される。

 殺気立っていたフロアに、ポツポツと戸惑い混じりの「穏やかな笑い」が生まれていく。

 

 

「あ、あの……」

 

 

 花梨が窓の外を見つめる女性構成員に歩み寄る。

 

 

「……何かしら? 私に何か“視えた”?」

 

 

 警戒する彼女に、花梨は少しだけ困ったように眉を下げて囁いた。

 

 

「……実験とは違うんですけど、なんだか嫌な風の匂いがして……。すぐそこに、大きな雨雲が来ています。……せっかくの洗濯物が、濡れちゃうかもしれませんよ?」

 

「えっ……!? 今日、一番お気に入りのシーツを干してきたのに!」

 

 

 女性は慌ててスマホで自宅周辺の天気をチェックする。予報は晴れ。けれど、空の端には昨日花梨が視た暗い予兆が渦巻いていた。

 

 

「……信じるわ! 悪いけど一旦抜けるわね!」

 

 

 彼女が脱兎のごとくオフィスを飛び出していくのを見送り、花梨は満足そうに微笑む。

 

 恐怖の異能(ちから)が、誰かの日常を守るための助言へと変わる。

 組織の人間たちにとって、彼女はもう“得体の知れない神子”ではなく、“放っておけない、不思議で優しいお嬢ちゃん”になりつつあった。

 

 ……だが。

 

 その穏やかな光景を、一階上のモニター室から、冷徹な氷の瞳で見つめる男がいた。

 指に挟んだ煙草から、灰が音もなく落ちる。

 

 

「……フン。くだらねぇ茶番を……」

 

 

 ジンの低い声が、静かな部屋に響く。

 彼にとって、花梨が振りまく“光”は、より深く彼女を絶望へ突き落とすための、残酷な前振りに過ぎなかった。

 

 

「……壊れてねぇのが厄介だな。……勝手に“生き延びる形”を知ってやがる」

 

 

 ジンが少しだけ視線を細めると、吸い込んだ煙草の火が一際明るく燃える。

 

 

「出発は明後日だ。シャルトルーズ……精々、人間らしく笑っていられる時間を楽しむがいい」

 

 

 モニターの中で、構成員から差し出された缶コーヒーを嬉しそうに受け取っている花梨。

 その首元で、シトリンのネックレスが、来るべき嵐を予感するように一瞬、鋭く光った。

 

 花梨は何気なく笑っていた。

 ただそれは「意識して空気を読んでいる」というものではなく、長い間そうしなければ傷つく環境で生きてきた彼女の、“身体の反射”だった。

 誰かの声色が一段だけ変わる、そのわずかな揺れだけで、無意識に呼吸の形を変えてしまう。

 

 

「ふぅ……今日は色んな人とお話したなぁ……」

 

 

 深い溜息とともに、花梨は地下の自室へと戻ってきた。

 医務室から移されたその部屋は、窓のないコンクリートの壁に囲まれてはいたが、以前の“檻”のような圧迫感はない。

 代わりに、主を待っていたかのように、棚の上に置かれた小さな鉢植えが一つ、暗がりに白く浮き上がっていた。

 

 

「……月見草かぁ……昼間はあんなに俯いていたのに、夜になったらこんなに綺麗に咲くのね。可愛い♡」

 

 

 夕闇が完全に夜へと溶ける頃に花開き、朝の光とともに儚くしぼんでしまう、可憐で繊細な花。

 そっと花びらに触れると、ひんやりとした命の感触が指先から伝わり、孤独な夜を慰めてくれているようだった。

 

 なぜかその香りに触れると、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 理由のない郷愁。言葉にできない、遠い日の体温のようなもの。

 

 黄色い花びらの縁で、それは揺れている気がした。

 ……ただそれだけが、確かにそこにあった。

 

 

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