白月の君といつまでも   作:はすみく

209 / 210
-- Early Summer, about 17 years old

▽前回のあらすじ
未来視の能力を覚醒させた花梨は、自らの死を予感しながらも組織のオフィスで構成員たちに穏やかな光を灯していく。だが、その様子を冷徹に見つめるジンは、彼女に「シャルトルーズ」の名を与え、絶望を画策していた。

第206話
答え合わせ回。


206:シャルトルーズ

「気に入ったかしら、シャルトルーズ?」

 

「っ……! ベルモットさん!」

 

 

 不意に背後から響いた甘美な声に、花梨は肩を跳ねさせて振り返る。

 扉の陰から現れたベルモットは、毒を孕んだ香水の香りを振りまきながら、優雅な手つきで花梨の頬を撫でた。

 

 

「シャ……シャル? シャルト――って……?」

 

「シャルトルーズ。花梨、それがあなたのコードネームよ」

 

「え……(コードネーム……?)」

 

「組織にはコードネームがあるって、知ってるでしょ? 今日から、それがあなたの新しい名前。ふふっ、上のオフィスにいた子たちは『パルフェタムール』がいいって騒いでいたようだけど……」

 

「ぱ、ぱるふぇたむぅる……」

 

 

 聞き慣れない、呪文のような響きを花梨はたどたどしくなぞる。

 

 

「『完全なる愛』という意味よ。紫色の、とても甘いお酒のこと」

 

「完全なる愛……愛っ!? そ、そんな大層な……!」

 

「あら、相応しいじゃない? あなたは、善も悪も超越した、ただそこに在るだけで人を狂わせる存在だもの。……愛そのものって言っても過言ではないわ。まあ、あまりにも仰々しいから、ジンが推した“シャルトルーズ”に決まったけれどね」

 

 

 そう言いながら、クスクスと笑うベルモット。

 

 

「シャルトルーズ……どういう意味なんですか?」

 

「シャルトルーズはリキュールの女王。……かつて修道院で『不老不死の霊薬』として作られていた、現在も三人の修道士しか製法を知らない秘酒よ。そしてね――あなたはJaune(イエロー)。甘くて、優しくて、誰もが惹かれる光の色。白河の神子であるあなたに、これほど相応しい名前があるかしら?」

 

 

 ベルモットは楽しそうに目を細め、花梨の首元で静かに輝くネックレスのトップを指先で弾いた。

 

 

「……あの、私、お酒の名前なんて……」

 

「フフッ。あのジンが、他人の意見も聞かずに自ら名付けるなんてね。……死神が慈愛にでも目覚めたのか、それとも本当に気でも触れた――かしらね?」

 

 

 ベルモットの瞳の奥に、嫉妬にも似た暗い光が宿る。

 “シャルトルーズ”――それは、かつて薬として重用された、歴史ある尊き酒。

 それを名付けることで、ジンは花梨を単なる道具としてではなく、組織の歴史に刻まれるべき「神聖な独占物」として定義したのだ。

 

 

「ねえ、花梨ちゃん、その花の花言葉知ってる?」

 

 

 ふと、月見草を愛おしげに見つめていた花梨に、ベルモットが試すような声をかけた。

 

 

「え? 月見草の花言葉ですか? いえ……」

 

「あら、花の種類が何であるかはわかるのに、花言葉は知らないの?」

 

 

 意外そうに眉を上げたベルモットに、花梨は少しだけきまり悪そうに、はにかんだ。

 

 

「植物図鑑で見ただけなので、花言葉までは載ってなくて……。特徴や開花時期なら覚えてはいるんですけど」

 

「…………なるほど。神子さまは図鑑を一冊丸暗記しただけ――というわけね」

 

「はい。絵を見るのが好きだったので」

 

「うーん、花梨ちゃんはロマンティックとは程遠いのね。その可愛らしい見た目なら、恋のまじないの一つや二つ、知っていそうなものなのに。意外だわ」

 

「? えと……?」

 

 

 ……ロマンティック。

 

 その言葉を聞いた瞬間、花梨の脳裏に、夜空を駆ける白いマントや、優しい手品師の笑顔がかすめる。

 けれど、それを掴み取る前に、ベルモットが軽やかな足取りで机の上のメモ用紙とペンを差し出した。

 

 

「ああ、でもそういう『無垢な』ところ、嫌いじゃないわ。ね、ここに英文で“花言葉は何?”って書いてみてくれない?」

 

「え? 花言葉を調べるんじゃなくて、質問を書くんですか?」

 

「ええ、お願い。あなたのその、真っ直ぐで綺麗な文字で見てみたいの」

 

「……よく、わからないけど……ベルモットさんがそう言うなら……」

 

 

 言われるがまま、花梨はペンを握る。

 細くしなやかな指先が、白河の家で徹底的に叩き込まれた端正な筆致で、慣れない異国の言葉を紡いでいく。

 

 “What is the language of flowers?”

 

 インクが紙に染み込み、ひとつの問いかけが完成した。

 

 

「これでいいですか?」

 

「Uh~! Excellent! 完璧よ。その文字の美しさ……神子さまの“神託”を受け取った気分だわ。貰ってくわね♡ じゃあ、シャルトルーズ。いい夢を!」

 

 

 ベルモットは満足げにそのメモを奪うように手に取ると、花梨の頬にそっとキスを落とし、夜の闇に消えるように部屋を去っていった。

 

 

「っ……! も、もぅ……ベルモットさんたら……」

 

 

 残されたのは、頬に残る甘い香水の香りと、月見草の静かな佇まいだけ。

 花梨は赤くなった頬を押さえながら、ベルモットが持ち去った“質問”の意味をぼんやりと考えた。

 

 月見草の花言葉――。

 それが、「無言の愛情」、そして「移り気」であることを、今の花梨はまだ知らない。

 

 ……その一方で、しんと静まり返る無人の廊下を、コツコツとヒールの音だけが響いていた。

 

 

「ごめんね、シャルトルーズ。あなたは常世の住人。現世(うつしよ)とは完全にお別れしてもらうわ。余計な未練を残さないように、あの彼にも引導を渡しておかないと、ね……」

 

 

 ベルモットは花梨の書いたメモを見下ろし、くすりと微笑む。

 彼女が書いた「花言葉は何?」という無垢な問いかけ。

 その下にベルモットは万年筆を走らせる。花梨の筆跡を寸分違わず模倣した文字で、“答え”を、まるで最初からそこにあったかのように添えた。

 

 

 “I’m afraid I might have fallen for someone else…”

 (もしかしたら、私は他の人に恋をしてしまったのかもしれません)

 

 

「……A secret makes a woman woman. 嘘も、重なれば真実になるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……一週間後。

 

 江古田高校――。

 

 昼下がり、理科室での授業中、窓際の席に座っていた白馬探は、ふと眼下の校門へと視線を落とした。

 厳格な教師の声が響く中、校門の前に一台の黒塗りの車が停まっていた。

 そこに、一人の少女が吸い込まれるように乗り込むのが見えた。

 

 

「……っ!」

 

 

 白い髪。見間違えるはずのない、あの儚げな背中。

 

 

「花梨さん……!?」

 

 

 静まり返った理科室に、白馬の鋭い声が響いた。

 クラスメイトたちが一斉に彼を振り返り、教師が怪訝そうに眼鏡を押し上げる。

 

 

「白馬君、どうしたのかね? 授業中だぞ」

 

「……失礼。……いえ、何でもありません」

 

 

 椅子を蹴り立てるようにして立ち上がりかけた白馬だったが、車はすでに音もなく滑るように走り去っていた。

 探偵としての直感が、今の光景に致命的な“異常”を感じ取っている。

 

 

「白馬君、授業が終わったら残るように」

 

 

 授業終了のチャイムが鳴ると、彼は教師に呼び止められた。

 急ぎたいのに足止めを食らい、授業中の態度について注意を受けた。それが終わると同時に、教室を飛び出す。

 向かうのは、自分の教室――2-Bだ。

 

 

(……嫌な予感がする。さっきの彼女の横顔、いつもと違った……?)

 

 

 廊下を駆け抜け、2-Bの扉を勢いよく開ける。

 クラスメイトたちの一部はすでに移動教室から戻っていて、その中には青子と恵子の姿もあった。皆が困惑した様子で窓際の席を見つめている。

 皆の視線の先に、しばらく学校を休んでいた黒羽快斗が、立ち尽くしていた。

 

 自分の机ではなく、花梨の机の前で。

 

 快斗の手の中には、一輪の黒いチューリップと、一枚のメモ。

 震える彼の指先が、そこに書かれた“彼女の筆跡の嘘”を、残酷なまでに真実として受け入れていく。

 

 

「……な、んで……ふざけんなよ……」

 

 

 快斗の絞り出すような声が、放課後の教室に痛いほど虚しく響く。

 背後から静かに近寄り、声をかけようとした白馬も、そのメモの内容を横から一目見て、言葉を失った。

 

 

『もしかしたら、私は他の人に恋をしてしまったのかもしれない』

 

 

 窓から吹き込む初夏の風が、二人の少年の間に、決定的な“断絶”の気配を運んできた。

 

 

「……さよなら、幸せな恋人たち」

 

 

 ベルモットが赤い唇で紡いだその言葉は、誰にも届かずに、夕闇に溶けていった。

 

 

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