▽前回のあらすじ
ジンによって「シャルトルーズ」と名付けられた花梨。彼女の前に現れたベルモットは、無垢な問いかけを利用し、快斗への残酷な「嘘」を綴る。一方、異変を察知した白馬が教室に駆け込むが、そこには絶望に打ちひしがれる快斗の姿があった。
第207話
白神子とは。
◇
花梨の、次なる実験の地へ出発する前日の夜。
志保は彼女の部屋を訪れていた。
コンコン。
扉を二回ノックすると、中から「はーい! 開いてますよ~」とやわらかい声が聞こえた。
「志保ちゃん、いらっしゃい」
扉を開けると、穏やかに微笑む花梨が、招き入れてくれた。
殺風景な部屋だというのに、彼女がいるだけで、清浄な神域だと勘違いしてしまうほどの居心地の良さを感じる。
「お散歩は終わったようね。いよいよ、明日ね。準備はできた?」
先ほど部屋を訪ねたら、口を開けた旅行鞄だけが残されて、花梨は留守だった。
“月見草と一緒に星を見てきます。すぐ戻ります。”とメモを残し、散歩に出かけていたらしい。
戻ってきた花梨のそばには、月の光を浴びて瑞々しく咲いた月見草が、部屋に彩りを与えていた。
「あ、うん。ただいま。だいたいOKだよ。ベルモットさんに、服まで買ってもらっちゃって……ところで、どこに行くの?」
昨日、ベルモットが花梨をどこかに連れ出し、戻ってきたときには大きな紙袋がベッドの上に置いてあった。
明日から向かう離島への準備品だ。
“ベルモットとデートをした”と、花梨は浮かれていたようだが、“あの魔女と……?”――よくこの状況で喜べるものだなと、志保は呆れた。
「……行き先の前に、“白神子”について説明しておくわ」
「あ、白神子って、ベルモットさんが言ってた……?」
「……」
志保はクリップボードを指が白くなるほど強く握り直し、震えを押し殺した声で花梨に告げる。
「いい、花梨。あなたが『神子』として証明されたのは、単に過去や未来が視えるからじゃないわ。……白河の直系にのみ発現する、脳の特殊な変異。……私たちはそれを、『高次元知覚の
「レゾナンス……きょうめい……?」
「そう。あなたの脳は、特定の波長を通じて、他者の記憶や世界の“因果律”に直接アクセスしている。……でもね、花梨。それは命を削る諸刃の剣よ。あなたが異能を使えば使うほど、あなたの脳細胞は極度の過負荷で焼き切れていく……。あなたが死を身近に予感しているのは、オカルトなんかじゃない。身体がその限界を悲鳴として上げているからなのよ」
志保は花梨の細い手首を掴み、その脈を測るように力を込める。
脈は今のところ安定しているが、無自覚のまま異能を使い続ければ、いつ乱れてもおかしくない。
「白河の家があなたを『白ねずみ』と呼んで別邸に隠したのは、その能力の暴走を恐れたから……。そして組織があなたを“シャルトルーズ(霊薬)”と名付けたのは、その知覚能力を抽出して、『あの方』の望む“世界の設計図”を完成させるため。……あなたは、人間として扱われていない。世界を読み解くためのレンズとして消費されようとしているのよ」
「……それが、白神子……?」
花梨の掠れた声が、狭い部屋に頼りなく溶ける。
志保は、逃げ出したくなる衝動を抑え、言葉を続けた。
「ええ、組織が長期にわたって調べ上げても、なかなか辿り着けなかった白河の神子――“白神子”の謎……。代々の当主しか知り得なかった秘事――それが、今の当主の代になって、綻び始めた。白神子は、ただ“白河の家系”だからそう呼ばれているわけじゃない。
五百年に一度生まれるという、特異な存在。この世のすべてを意のままに動かす力を持った、“神の依り代”。人はそれを、“神”そのものだと呼ぶのでしょうね。それが、花梨――あなたなんじゃないか……と、私たちは見ているの」
「意のままにって……え……でも、私……何も……」
神だなんて……。
あまりにも突飛な発想に、花梨の唇に、困ったような薄い笑みが浮かんだ。
ふと、花梨は自分のこれまでの人生について振り返ってみる。
もし、仮に、その話が本当だとして、自分が神だというのならば――なぜ、自分は幼い頃から誘拐され続け、両親を早くに亡くし、虐待や迫害を受け、この場所にいるのだろう。
花梨は、白河の家で、稀華のように大切に扱われた記憶がないというのに。
それらは、決して自ら望んだわけじゃない。
自分の意のままになど、動かしたことはなかったはずだ。
稀華――彼女は大切に大切に扱われて、皆が平伏していた。
すべて、彼女の意のままに、周りがそう動いていた。
彼女が次期当主になり得る“神子”だと思っていたから。
……自分が稀華とは違うのは、二つのおまじない。
“額へのおまじない”は祖母に教わったままにしただけで、気休め程度のもの。
“言葉のおまじない”は……。
そう考えていた花梨に志保から鋭い言葉が投げかけられる。
「あなたを崇め奉る人はいない? 無意識に加護を与えた人は? それに、祈りを込めた“言葉”を誰かに使ったことはない……? 誰かの死を願ったり、誰かの無事を願ったり。言葉にして、その通りの影響が出たことは?」
「あ……」
(小さい頃……一度だけ、私を誘拐したおじさんによくないことを言ったことがあるかも……)
脳裏をよぎったのは、三歳の冬の、凍てつくような記憶。
自分を攫った男に向けた、「死んじゃえ!」という呪いの言葉。その瞬間、耳の奥――脳に直接鳴り響いた、存在しないはずの神楽鈴の音。
車に跳ねられた男の背中と、泣きながら「『生きて』と言い直しなさい!」と自分を叱った母の震える腕。
あの時、自分が変えてしまったのは“未来”ではなく、“現実”そのものだったのではないか――。
思い当たる節がある花梨は、言いようのない寒気に襲われ、言葉を失った。
「……その様子じゃ、心当たりがあったみたいね」
「っ、私、悪いことは言わないって決めてるよ? お父さんとお母さんと約束したんだもん……!」
「……そう。でもね、花梨。あなたのその性質を知ってしまえば、あなたを思い通りに動かすことくらい簡単なのよ。恐怖で縛るか、あるいは、守りたい誰かを人質に取ればいい……」
志保の眼差しには、そんな組織のやり口を嫌悪する色が濃く滲んでいた。
「でも、それはあなたが本当に“白神子”だった場合の話。実際に目にしていないものは、まだ仮説でしかない。だからね、花梨――」
続けようとした志保の言葉を遮るように、花梨は告げた。
「――それで、白神子の伝承がある、あの島に行くんだね」
「……っ。それすらも、読み取ったのね」
思考を先回りされ、志保は息を呑む。
科学では説明のつかない“共鳴”が、すでに始まっている。
「そこに行くと、何がわかるの?」
「私は知らないわ……。ジンが付き添うから、彼に従って。……でも、一つだけ約束して。向こうで何を見せられても、あなたは、あなたのままでいて」
「ジンさん……なるほど。じゃあ、志保ちゃんとは、もうお別れなんだね……」
花梨は、窓辺に置かれた月見草に目をやった。
闇の中で白く輝くその花は、明日にはしぼんでしまう。それでも、今はこんなに凛と咲いている。
「えへへ。短い間だったけど、志保ちゃんと会えてうれしかったよ。いろいろ気を回してくれて、お薬も、お風呂も、シャンプーも……全部、ありがとう。私がいなくなっても、元気でね」
「花梨……っ……!」
すべてを悟り、自らの運命を恨むこともなく「ありがとう」と微笑む花梨。
その笑顔が、あまりにも澄み切っていて――。
志保は、決壊しそうな涙を堪えるために、彼女の細い肩を抱きしめることしかできなかった。
◇
翌日、花梨は黒いフード付きのマントを身に付け、ジンに連れられて施設を出て行った。
走り去っていくポルシェ356Aを、シェリーは廊下の窓越しに静かに見送り、彼女の身を案じる。
その手には、花梨が大切にしていた月見草の小さな鉢植え。花梨のいた部屋から持ってきたものだ。昼間の今は花弁を閉じて、夜に花咲くときを待っている。
「花梨……(結果はどうであれ、あなたは人間よ……)」
「……行っちゃったわね。あーあ、せっかくの癒しがなくなっちゃった。残念だったわね、シェリー?」
シェリーは廊下で、見送りに来ていたらしいベルモットとすれ違った。
(ベルモット……。あなた、花梨にずいぶん入れ込んでいたようだけど……あの子も懐いていたみたいだし……)
ベルモットが、なぜ花梨に執着するのかは知らないが、花梨も懐いていたのが、シェリーには奇異に思えて不快だった。
彼女が離れていくと、シェリーは再び立ち止まり、もう見えなくなった車の影を探す。
その後ろ、少し離れた場所で、ベルモットが誰かに話しかけていた。
「お見送りは終わりましたか?」
「ええ、新人幹部のシャルトルーズならジンと出発したわ。ねえ、バーボン、例のアレは準備できたの?」
名前を呼ばれたバーボンは、ベルモットから語られたコードネームに、眉をぴくりと動かす。
(シャルトルーズ……? 新しい幹部の名前……“不老不死の霊薬”か……意味深な名前だな……)
初めて聞いたその名に、さっきすれ違った黒いフードの人物、小柄だったから恐らくは――女性だ。それがその人物だと、彼は静かに結論づけた。
組織に新たな幹部が生まれ、調べる要素が増えてしまった。
バーボン――降谷零は、その正体を暴くべく思考を巡らせる。
(でも、どうしてかな……すれ違うとき、ふわりと鼻を掠めた、あの香り……)
花梨に似た、ジャスミンとアプリコットの残り香。
かつて、彼女に贈ったハンドクリームは、ヒロと偶然重なった同じもの。それよりも少しだけ複雑で、罪の香りを孕んだような、どこか退廃的なアロマ。
(花梨に贈ったのとは……少し違った気がする……だが……)
「……ええ、できていますよ」
ベルモットに答えながら、降谷の胸には、拭い去れない冷たい予感が
「そう、ならいいわ。じゃあさっさと出発しなさい」
「わかりました」
コツコツと、ベルモットのヒールの音が廊下に響き、遠ざかる。
その後ろにバーボンの革靴の音が続く。
バーボン――。
シェリーも噂には聞いたことがある、組織の幹部。
最近、ベルモットと行動をともにすることが多いらしいが、バーボンに興味はない。
シェリーはただ、花梨が消えた方角を、しばらくその場で見つめていた。