▽前回のあらすじ
出発の前夜、志保は花梨に「白神子」の正体が命を削る異能であると告げる。残酷な真実を静かに受け入れ、感謝と共に旅立つ花梨。その去り際、すれ違ったバーボンは新幹部の残香に、ある少女の面影を重ねていた。
第208話
新たな場所へ出発です。
◇
施設を出たジンのポルシェ356Aが見えなくなってから、どれくらいの時間が経っただろう。
志保は、花梨がいたあの真っ白で無機質な部屋から持ち出した、小さな月見草の鉢植えを抱え、自分の自室へと戻っていた。
鍵を閉め、背中でドアを押し込むようにして閉じる。
密閉された室内には、まだ白衣から実験室特有の薬品の匂いと、志保が好むコーヒーの残り香が漂っていた。
「……どうか無事でいて、花梨」
机の隅、一番陽の当たらない場所に鉢を置く。
月光を浴びて咲くその花は、今はもう、役目を終えたかのようにしおれ、力なく首を垂れていた。
けれど、そのしおれた花弁に指を触れると、出発前日、花梨が笑った時の、あの柔らかなジャスミンの香りがかすかに鼻を掠める。
(あなたは人間よ……。神様なんかじゃない)
志保は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
組織の中で、ただの“シェリー”という記号でしかなかった自分が、あの少女の前でだけは、ほんの少し“志保”に戻れた気がした。
――その時だった。
デスクの上で、何日も充電器に繋がれたままの通信用端末が、誰に触れられることもなく短く電子音を鳴らした。
事務的な、あまりにも日常的な通知。
ここのところ、忙しさに追われ、端末の存在を意識する余裕もなかった。
志保は重い瞼を持ち上げ、何気なくその画面に視線を落とした。
今日付けのものから順に遡る。
最愛の姉からの連絡は――ない。
つい、この前会ったばかりだし、こんなものだろうとスライドしていく。
すると、ある一行が目に入った。
『構成員:宮野明美――ステータス:死亡』
「…………え?」
指先から、体温が急速に奪われていくのがわかった。
画面に並ぶ文字の意味が、すぐには理解できない。
(死亡? 明美が? 私の、お姉ちゃんが……?)
『本日20時、組織への反逆および10億円強奪事件の関与により、担当執行者(ジン)により処分完了』
……日付が一週間以上前だ。
喉の奥が、せり上がってくる熱い塊で焼ける。
“処分”という言葉。それを下したのが、今朝までこの施設で花梨を連れ去る準備をしていた、あの銀髪の男であることを悟った瞬間、志保の視界が真っ赤に染まった。
「あ……あぁ……っ!!」
震える手で端末を叩き落とし、志保は叫び声を上げようとして――けれど、声にならなかった。
代わりに溢れ出したのは、行き場のない絶望と、自分を呪うような嗚咽。
(守りたかったものが、全部……全部なくなっちゃった……)
花梨は、あの男――
お姉ちゃんは、あの男に殺された。
自分が、組織のために作り上げた呪われた“薬”のせいだ。
自分が逃げずに、ここで“レンズ”として世界を見つめ続けていたせいだ。
ふと、視線を上げた先。
机の上の月見草が、さらに黒ずんで萎れていくように見えた。
花梨が言っていた“白神子”の運命。命を削り、消費されるレンズ。
(……嫌。……もう、嫌よ)
このまま組織で、自分は食い潰されていくの?
そんなのはもう――。
……翌日になっても、研究室へ向かう気にはなれなかった。
部屋の隅で膝を抱えていると、やがてウォッカがやって来て、強制的に研究室に連れて行かれ、志保は閉じ込められた。
『仕事をしろ』
そう言って、外から鍵を掛けられ、出られなくなった。
丸一日そうしていたが誰も来ず、翌日、志保はふらつく足取りで研究室の奥にある実験用デスクへ向かった。
(もう嫌だ……)
薬品棚の奥、厳重に保管されていた“試作段階の赤と白のカプセル”を取り出す。
APTX4869――。
命を奪うための毒薬であり、自分の人生を終わらせるための、唯一の逃げ道。
「……花梨。ごめんね……。あなたを、助けに行けなくて……」
志保はカプセルを握りしめ、最後に一度だけ、ウォッカに研究室へ連行される際、咄嗟に抱えたままだった、しぼんだ月見草の鉢植えを抱きしめた。
その土には、まだ花梨が出発前に与えた水の湿り気が残っている。
(……温かい。花梨、あなたはこんなに温かかったのに……。あなたが言った通り……。私は、私のままで、終わるわ……)
志保は迷うことなく、そのカプセルを口に含んだ。
直後、内臓が焼け付くような、地獄の業火が全身を駆け巡る。
骨が軋み、筋肉が縮み、意識が混濁していく中、志保の脳裏に最後に浮かんだのは――。
あの朝、ポルシェの窓越しに一瞬だけ見えた、花梨の白い髪と。いつか、この地獄の果てで、再び出会えるかもしれないという、あまりにも愚かで美しい幻想だった。
◇
施設を出て船に乗るため、東京湾埠頭へとジンはポルシェ356Aを走らせる。
本来なら一時間もかからない距離だが、ジンはあえて高速を使わず、Nシステムや監視の目を網の目のように縫う複雑なルートを選んでいた。
埠頭までは、約二時間。
花梨は助手席で、黙ったまま窓の外を眺めていた。
時折、前方の渋滞に、ジンが低く舌打ちを漏らすたび、車内の空気は氷点下まで下がる。
「――おい」
「…………」
「おい、白いの」
「……はい? ひゃっ!?」
突然花梨の頬に、冷たいコーヒー缶が押し当てられる。
まだ熱を持つ、ほぼ癒えかけの頬の傷が冷えて心地よかった。
先ほど、裏通りのコンビニに寄った際にジンが購入したものだろう。
「……飲め」
「あ、ありがとうございます……(冷たいコーヒーだ……ブラック……うれしい……)」
手渡されたコーヒーを見下ろし、プルタブを開ける。
コーヒーの香りがわずかに漂い、花梨はふと彼を思い出した。
冷たいコーヒーは、新一を思い出す。
彼とよく、アイスコーヒーを飲んだし、家にペットボトルを常備していた。
……新一に頼っていれば、今ごろ、何か変わったのだろうか。
(今さら後悔したところで、もう遅いから……後悔は――しない)
花梨は苦いコーヒーを一口含んだ。
「……腹が減ったら、食っておけ。目的地に着くまで、まともな食い物にありつけると思うな」
フロントガラスの向こうに目を向けたまま、ジンはハンドルを握りながら、空いた手の親指で後部座席を指す。
そこにはコンビニで買い込んだ食べ物の入ったビニール袋が置かれていた。
「あ……ジンさんて、優しいところもあるんですね……」
「……ハッ! ……頭の中がおめでたい奴だ。無駄口を叩くな」
ジンは鼻で笑い、煙草を咥える。
だが、その眼光はバックミラー越しに、コーヒーを飲む花梨のわずかな震えや表情の変化を、まるで実験動物を観察するように見定めていた。
再びジンが口を開いたのは一時間後――。
「――シャルトルーズ」
「……はい」
「あの島に行けば、お前は覚醒するらしい。あの方も、この二時間の“移動”という名の査定に耐えたお前を、愉しみにしておられる」
「査定……?」
「ああ。途中で精神が焼き切れて使い物にならなくなるようなら、このまま海へ放り込むつもりだったが……どうやら『合格』だ。だが、本番はこれからだぞ」
ジンの口端が、冷酷な三日月のように吊り上がる。
「組織に役立つ能力じゃなかった時は、わかってるな?」
「…………はい」
「察しがいいのは助かるぜ」
……車が埠頭の駐車場に入ると、花梨はジンの足跡を追うように車を降りた。自分のスーツケースを必死に引きながら、前を行く大きな背中について行く。
港には、大型フェリーと数隻の船舶が停泊していた。
(大きな船……あの船に乗って行くの……? 私、船は初めて……)
花梨の目の前には大型フェリーがそびえ立っている。
人生初乗船が、大型フェリーなんて、ちょっとラッキーかもしれない。
死を目前にしての新たな経験に、少しだけ心が弾んだ。
ところが――。
「……時間だ」
ジンは大型フェリーを一瞬見上げたかと思うと、その前を通り越し、先を行く。やがて、今し方入港してきたばかりの小型船の前で止まった。
「……こ、この船に乗るんですか……? わっ!?(強い風!)」
急に吹いた風に、花梨のかぶっていたフードが外れ、白い髪がしなやかに舞い踊る。
思っていたよりも小さい船舶。今日は風が強いから、かなり揺れそうだ。
行き先がどんな島なのかを知らない花梨は、数時間で着く距離なのかなと予測を立てた。
「そうだ」
「…………」
「大型客船にでも乗ると思ったか? 行き先はしけた小島だ」
「すごい……」
ふと花梨はジンを見上げて目を瞬かせた。
「ん?」
「私、大型フェリーに乗るんだと思ってたんです。ジンさん、私の考えてたこと、どうしてわかったんですか!? あ、でも、小さな船も楽しそうです!」
花梨は目を輝かせてジンを見上げ、ふわりと笑った。
「…………。バカ言ってねぇでさっさと乗れ」
「わっ!」
ジンは花梨の外れたフードを乱暴にかぶせ直し、船に乗り込む。
船長と何やら話をし、金を握らせていた。