▽前回のあらすじ
最愛の姉をジンに殺された志保は、絶望の淵で自ら毒薬を煽る。一方、ジンの「査定」を耐え抜いた花梨は、自らのルーツが眠る孤島へ。交錯し、混ざり合う白と黒の運命――二人の少女の行く末は、予測不能な濁流へと飲み込まれていく。
第209話
あの島…です。
「…………人生初の、船旅だね。ふふっ、変なの、長野から出てから、初めてのことばっかりね」
花梨はもたつきながら、スーツケースをどうにか持ち上げようと頑張るが、一週間分の荷物はなかなかに重く、持ち上がらなかった。
島での滞在期間は特に決めていないが、花梨が目指す伝承の地は、島に数箇所あるらしい。上陸して徒歩移動で全箇所回るとなると、最低でも四日はかかる計算なのだという。
ベルモットから、「服は一週間分ほど持っていきなさい」と言われ、素直に荷造りをしたのが裏目に出た。
(こんなことなら、三日分くらいにしておけばよかったかな? それか……一週間くらい着替えなしでも、昔はそれが当たり前だったし、今も平気といえば平気なのに……)
志保には「服くらい、毎日新しいのに着替えたらいいのよ」と、新しい下着や、服を貰ってしまった。ベルモットなんて、高いブランドものまで買い与えてくれた。
(私、臭かったのかな……。って、そりゃそうだよね、金曜日から着替えてなかったものね……)
遠回しに「あなた、におうわよ」と美女二人に言われていたかと思うと、恥ずかしくなって、花梨は頬を掻いた。
「んしょ……」
「……貸せ」
「え? あっ!!」
不意に、ジンが戻って来て、花梨のスーツケースを船に積み込む。
「ありがとうございます!」
「フン。到着が遅れる。さっさと乗るんだな」
「……ジンさん……」
ジンが手を差し出すので、花梨はその手を取って、船へと乗り込んだ。
黒い手袋越しでは、彼の過去は視えない。
視ようと思えばできないこともないが、なんとなく、ジンの過去は覗きたくない。花梨は直感的にそう思った。
彼も過去を見られたくなくて、手袋をしているのだろうか……。
(確か、ジンさん……初めて会った時は、手袋をしていなかったと思うのだけど……)
意識が朦朧としていたからはっきり覚えていないが、あのときは手袋をしていなかった気がする。
(……なんだかんだ怖い人だけど……ジンさんは、私を何度も助けてくれるのね……でも、竜哉おじさん、ごめんね……)
目の前で殺された竜哉に対して、花梨は申し訳ないと思っていた。
たとえ自分を害した人間であっても、死ぬ必要はなかったと思うから。
あれほど苦しめられた男だが、あまりにあっけない最期だった。
あの後、彼はきちんと弔われたのだろうか……花梨の記憶にあるのは、気を失う寸前に感じた頬を焼くような熱さだけ。
(竜哉おじさん、どうぞ安らかに……)
花梨は船が出港すると、港に向けて手を組み、竜哉の冥福を祈った。
港を出ると、強い風のなか、小型船は容赦ない波の洗礼を受けた。
大型フェリーなら優雅にいなすであろううねりも、このサイズの船にとっては壁のような衝撃だ。
「わわっ!? ひゃんっ!」
一歩踏み出すたびに床が大きく傾き、花梨の体はあっちへこっちへと投げ出される。
踏ん張ろうとした細い腕が金属の柱に激突し、鈍い音が響いた。
「うぅ……痛い……」
打った腕をさする間もなく、今度は反対側の手すりに腰を打ち付ける。
見かねたジンが、低い声で毒を吐いた。
「……目障りだ。じっとしていろ」
「す、すみません、でも、足が……わっ、ととと!」
さらなる大波が船体を叩き、花梨が再び派手に転びそうになったその時――。
「……チッ、これでも喰らってろ」
ジンが長い腕を伸ばし、花梨のフードの付け根をガシッと掴み上げた。
「へ? あ、あぶ……あぐっ」
首根っこを掴まれ、まるで子猫のように体が浮く。
ジンはそのまま花梨を、船室の壁際へ押し付けるようにして固定する。
ピタリ、と背が壁に貼りつき、フラフラしていた体が安定した。
「……おい、舌を噛むなよ。死なれたら検体の予備がねぇ」
ジンの強靭な腕の力だけで、花梨は揺れる船体の中で振り回されるのを物理的に阻止された。
「……大人しくしていろ。島に着く前に自分から壊れてもらっちゃ困るんでな」
「あ、ありがとうございます……でもジンさん、これ、ちょっと……苦しい、です……」
フードが引っ張られ、首がわずかに締まる。顔を真っ赤にしてもがく花梨を、ジンは一瞥もせずに冷ややかに正面を見据えている。
傍から見れば、巨大な死神が白い子猫の首根っこを掴んで運んでいるような、あまりにもシュールで恐ろしい光景だった。
波の揺れは一層激しさを増し、船室の壁に頭をぶつけそうになった花梨は、ついに胃の底から込み上げる不快感に顔を青くした。
「っ……う、うぅ……気持ち悪い……」
その場にへたり込み、震える花梨を一瞥し、ジンは椅子に座り直し、足を広げて構えた。
「……来い。そこで大人しくしていろ」
言われるままに花梨はよろよろとジンの前まで歩き、彼の足元の床に潜り込むようにして丸まった。
ジンの長い脚が左右から彼女を囲み、檻のように感じられて、不思議と船の揺れがいくらか収まった気がした。
「……動くなよ」
ジンは面倒そうに手を伸ばすと、花梨のフードを後ろから、ぐいと引き寄せ、自分の膝の間に挟み込むように、彼女の体を固定した。
花梨はジンのコートから漂う、強い煙草の匂いと硝煙の香りに包まれながら、されるがままに目を閉じる。
(怖い、はずなのに……。こうしていると、何かに守られているみたいで……変な感じ……)
ジンの手袋越しの指先は冷たいはずなのに、フードを掴むその力強さだけが、荒れ狂う海の上で唯一の確かな重力だった。
(でも煙草のにおい、ちょっと臭いかも……)
ちらっと上を見上げると、ジンに睨まれ、花梨は慌てて下を向く。
「おい、下を向くな。吐くんじゃねーぞ」
「ふ、ふぁい!!」
こみ上げる吐き気を手で押さえ、花梨は風が止みますようにと願った。
その願いが通じたのか、風は少しずつ弱まり、波も幾分か穏やかになってくる。
「――……おい」
「…………」
「おい、白猫。なに寝てやがる。見えてきたぞ」
「にゃ……?」
頭をとんと、軽く小突かれ、花梨は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようで、ジンを見上げる。彼の視線の先を見ると小さな島が見えてきた。
「……あの島は……」
「……月影島。五百年前に白神子が住んでいたとされる島、だとよ。……島人たちはもう忘れちまってるらしいがな」
「つき、かげ……じま……わっ……!!?」
眠っている間にフードが外れたのか、花梨の白い髪を一陣の風が攫っていく。
(……なんだか、懐かしい……)
島から吹いた風が自分を歓迎しているように感じられ、花梨は静かに立ち上がる。
あの島で、自分は何を知るのだろう。
ジンは覚醒すると言っていたけれど、“覚醒”とはなんなのだろう……当事者だというのに、何も知らない自分は、最期に何を知ることになるのだろう。
花梨の胸がトクントクンと高鳴った。