▽前回のあらすじ
深夜、蘭からの突然の電話が花梨の孤独を解きほぐす。留学という嘘を信じる親友の無垢な声に救われ、花梨は静かに「生」への感謝を噛み締める。翌朝、ジンと共に険しい月影山へと足を踏み入れた彼女は、山頂に眠る社の気配を感じ取る。そこで彼女を待っていたのは、時を超えて届く、微かな「誰か」の呼声だった。
第212話
いざ、神域へ。
「……三叉路か……。おい、どれからだ?」
ジンの足が止まった。
一本道だった山道が、唐突に三方向へと分岐している。それぞれの道の前には、苔むした古い石柱が、まるで墓標のように静かに佇んでいた。
石柱には風雨にさらされ、今にも消えそうな文字が刻まれている。だが、それは今の時代の言葉ではない、古の神代文字に近い形をしていた。
「…………」
花梨は迷うことなく、左側の石柱にそっと指先を触れた。
(……冷たい。でも、拒絶されてない……)
目を閉じ、意識を柱の奥へと沈める。
真ん中、そして右。一つひとつの石柱から伝わってくる「震え」の色の違いを、花梨は肌で感じ取っていた。
「……真ん中から行きましょう。その次は左。最後に、右です」
確信に満ちたその声に、ジンは無言で花梨を見下ろした。
彼にはただの朽ち果てた石の塊にしか見えないものが、この娘には“地図”として機能している。その異常性を再確認し、ジンは短く応じた。
「…………行くぞ」
返事と同時に、ジンは花梨の手首を掴むと、真ん中の道へと力強く踏み出す。
「あっ! ちょ……ジンさん、引っ張らないでくださいー!」
強引に手を引かれながらも、花梨の視線は足元のシダ植物や、時折現れる奇妙な形の岩に向けられていた。
戸隠山は、もっと荒々しく、拒絶するような鋭い気配だった。けれどこの月影山は、どこか悲しげで、自分を包み込もうとするような湿った温かさがある。
「……黙ってついてこい。足元を
「わかってます。でも、この山の木々たち、なんだかソワソワしてて……」
「……チッ、植物の機嫌まで視えるのかよ」
ジンは忌々しげに吐き捨てるが、その握る手は決して離さない。
彼にとって、花梨は“組織の資産”であり『あの方』への献上品。だが、この得体の知れない神域において、彼女の直感だけが唯一のコンパスであることを、その鋭い本能で理解していた。
三叉路から真ん中の道へ入り、しばらく進んだ時だった。
行く手を阻むように、巨大な朱塗りの柱が斜めに倒れ伏していた。
「……鳥居……?」
かつては神域への門として、凛と立っていたであろうそれは、今では根元から折れ、びっしりと深い苔に覆われている。まるで、この先の神様が力尽きたことを象徴しているかのようだった。
「死んだ門だな」
ジンはそれだけ言うと、長い足を軽々と上げて、倒れた柱を跨ぎ越した。
だが、花梨にとっては、その太い柱は胸の高さほどもある大きな障壁だ。
「わ、わっ……ちょっと待ってください、ジンさん! 私、そんなに脚長くないです!」
「……フン。これしきのことで立ち止まるな。四年前の雪山は、これ以上に足場が悪かったはずだ」
ジンは越えた先で振り返り、不機嫌そうに手を差し出した。
花梨はその手を借りて、倒れた鳥居をよじ登る。手袋越しでも伝わる冷たく重い力が、彼女の身体を支えた。
その瞬間だった。
手のひらが苔むした木肌に触れた途端、花梨の脳裏に「音」が響いた。
『――行かないで……』
それは五百年前の絶望か、それともこの山が抱え続けてきた執着か。冷たい悪寒が背筋を走り、自分を異能の化け物としてしか見ていないはずのジンの大きな手を、縋るように強く握りしめた。
「…………っ」
花梨の顔から、さっと血の気が引く。
脇腹の傷が、冬の戸隠山で負ったあの時と同じように、ズキリと疼いた。
「おい、どうした。顔色が悪いぞ」
「……いえ、なんでもないです。……ただ、この鳥居、すごく悲しそうだったので」
ジンの手をギュッと握り返し、花梨は強引に自分の体を向こう側へと引き寄せた。
やがて、道の突き当たりに、崩れかけた小さな社が見えてきた。
辺りは木々が生い茂って薄暗く、足元は落ち葉が幾重にも重なっている。屋根は崩れ落ち、周囲は蔓に覆い尽くされていた。
成実先生が言っていた通り、長い間、誰の手も入っていないことが一目で分かった。
周りの空気が妙に重苦しい。
鳥居を抜けたあたりからずっと気づいていた。
悲しみと憎しみが混ざった強い波動を感じる。
ここに祀られていた神が去ったからなのか、それとも――。
「……ここが、一つ目……。なんだろう……怒ってる……?」
花梨が足を止めると、ジンもゆっくりとその手を離した。
それまで聞こえていた鳥たちのさえずりがピタリと止み、木々のざわめきだけが二人を急かすように大きくなる。
「……おい、何が視える」
ジンの問いかけに、花梨は吸い寄せられるように、社へと歩み寄った。
「……ここに……いるの……?」
ゆっくりと振り返った花梨に、木々の合間から光が差し込む。彼女の瞳が木漏れ日を反射し、光を宿していた。
ジンはその光景に思わず息を呑んだ。
「っ……」
「…………(出して、欲しいのね……)」
なにかに憑りつかれたかのように、花梨は崩れかけの社へと手を伸ばす。
花梨が手をかざすと、社が一瞬、僅かに白く光った気がした。
(ごめんなさい、ずっと寂しかったよね……。でも、もう大丈夫)
彼女の頬を涙が伝っていく。
その涙は、役割を終えた社の悲しみを溶かす雫のように、地面に吸い込まれていった。
「……おい、どうだ? なんかわかったか?」
「――……次、行きましょう」
ジンが尋ねるが、花梨はぽつりと一言つぶやき、すぐに社から離れ、来た道を戻り出す。
「お、おい……」
(何を泣いてやがる……何か、わかったということか……?)
追いかけた花梨の瞳には涙が滲み、何か掴んだ様子で、足取りがこれまでよりもしっかりしていた。
社を振り返った彼女のつぶやきとして、微かに聞こえたそれは――。
“安らかに眠れ”
誰に向けたものなのか、ジンは知らない。
そして興味もない。
けれど、先ほどまでの圧がかかるような静けさがなくなり、鳥たちが一斉にさえずりだしたことは、きっと彼女の仕業だと確信した。
(……どうやら本物、か……)
ジンは昏い愉悦を孕んだ瞳で少女の背中を睨み据え、再びその手首を無慈悲に掴み取った。