▽前回のあらすじ
一本道が三方向に分かれる「三叉路」に辿り着いた花梨とジン。花梨は石柱に刻まれた古の波長を読み解き、進むべき順序を確信する。苔むした倒木や朽ちた鳥居が行く手を阻む中、第一の社に触れた花梨は、五百年の時を超えた怨嗟と悲しみに共鳴する。涙と共に社を「浄化」した彼女の姿に、ジンは確かな覚醒の予感を見る。
第213話
月光…。
◇
三叉路まで戻った時には、あんなに澄み渡っていた空が、山特有の早い夕暮れに飲み込まれようとしていた。
オレンジ色の光が、細長い影を地面に伸ばす。
「次は左だ。……行けるか」
ジンの問いに、花梨はまだ潤んだ瞳を袖で拭い、力強く頷いた。
最初の社で何に触れ、何を鎮めたのか。それを語ることはなかったが、彼女の歩調には迷いが消えていた。
左の道は、先ほどとは打って変わって、湿った土の匂いが強く漂う下り坂だった。
だが、少し進んだところで、行く手は深い霧と影に閉ざされてしまう。
「……チッ。ここまでか。夜の山を進むのは得策じゃねえ」
ジンは足を止め、周囲の比較的開けた場所を見渡した。
大きな岩が風よけになりそうな、古びた広場のような場所。
「今日はここで野宿だ。お前はそこで座ってろ」
「あ、はい……」
ジンは手際よく周囲の枯れ枝を集めると、慣れた手つきで火を熾した。
真っ赤な炎が爆ぜ、二人の影を岩肌に大きく映し出す。
組織の用意した野営道具は最小限だが機能的だった。冷たい夜気を遮るための寝袋と、高カロリーの携帯食。
「あ……星、綺麗……」
見上げれば、都会では決して拝めないような、こぼれ落ちそうな星空。
パチパチと薪が燃える音だけが響く静寂の中、花梨は膝を抱えて火を見つめた。
「…………ジンさん」
「……何だ」
「さっきのお社、あそこにいたのは……神様じゃありませんでした」
不意に零れた花梨の言葉に、煙草に火をつけようとしていたジンの手が止まる。
炎に照らされた彼女の横顔は、昼間よりもずっと大人びて、どこか遠い場所を見ているようだった。
「…………」
ジンは何も答えない。
だが、その鋭い視線は、夜の闇に溶け込みそうな白い髪の少女を、逃さぬようにじっと捉えていた。
そんなとき、不意に夜風がピアノの音を運んできた。
「……この曲……」
「月光……だな」
「もの悲しい曲ですね……」
どこか幻想的なその音色に、花梨は目を閉じた。
風に乗って流れてくる、ピアノの調べ。
それは、今この瞬間も島のどこかで誰かが奏でているはずの音なのに、この山の上で聞くと、まるで五百年前の残響が時を超えて届いているかのように錯覚させる。
(……あの社にいたのは、月影さまの旦那さま……。島の人たちが言うような、彼女を連れ去った“悪人”なんかじゃなかった……)
花梨は、膝を抱えたまま、パチパチと爆ぜる焚き火の炎に意識を沈めた。
室町時代――世が乱れ、力こそが全てだった頃。
本土の美しい貴族か、あるいは巫女だった月影様を、島の権力者が強引に連れ去り、この島に閉じ込めた。
彼女がもたらす“富”と“神通力”を、島だけのものにするために。
(助けに来た旦那さまは、月影さまを連れて逃げる途中で、島の人たちに……)
裏切り者、泥棒、悪魔。
島民たちが自分たちの罪を正当化するために塗り替えた歴史の裏側で、男はたった一人、妻を守れなかった無念を抱えたまま、あの社に封じられていた。
五百年もの間、彼は“月影様”を待ち続けていた。
もう二度と会えないと知りながら。
それでもなお。
「……ジンさん」
「…………」
「五百年って、長いですね」
花梨のぽつりとした呟きに、ジンは煙草をくゆらせたまま、視線だけを彼女に向けた。
その銀髪が、月光と焚き火の赤に染まり、この男もまた、時代を超えて存在し続ける不変の闇の一部であるかのように見える。
「……あの方に言わせれば、瞬きのようなものだろうな」
ジンの口から出た『あの方』という言葉。
その響きには、盲目的な狂信と、永劫の時間を生きる怪物への冷めた諦めが混ざり合っているように見えた。
『あの方』の目的は永遠の命……なのだろうか。花梨にはよくわからない。
権力を手にした人間が次に思いつく業は、時の掌握かもしれない。
もし月影様が今も生きていたら、組織は彼女を実験台にしただろうか。それとも、この男のように影として従えただろうか。
(私は……五百年も、待てないよ……)
愛する人を失ったまま、ただ帰りを待ち続けるなんて。
そんな孤独に耐えられるほど、私は強くない。
花梨は、胸元のネックレスを握りしめる。
脳裏を過ったのは、いつも傍で笑ってくれた恋人の顔だった。
快斗や新一、蘭……大好きな人たちともう会えないまま、一人死ぬのだとしても。
だけど、この地に留まり、誰かの帰りを待ち続けることだけは、きっと自分は選ばない。
自分が願うのは、ただ、彼らの幸福だけ。
他は何もいらない。
けれど、長きにわたり、たった一人を待ち続けた魂に、花梨は人の想いの強さを学んだ気がした。
遠くで、ピアノの音が激しさを増す。
第一楽章の終わり。だが、途中で途切れたそれは、誰かの復讐が始まる合図のようでもあった。
「あ、終わっちゃった……?」
「……もう寝ろ、明日は早いぞ」
「はい……。あ、でも火の番が……」
「フン、黙って寝ろ」
「わっ!」
ジンにアイマスクを投げつけられ、花梨はそれをつける。
しばらく寝付けなかったが、近くで聞こえる焚き火の爆ぜる音が心地よくて、花梨は今夜もすやすやと夢の中――。
……夢の中で、顔ははっきりしないが、着物を着た男性が自分を通して、誰かを愛おしそうな目で見て、微笑んでいたような気がした。
「フン……なに笑ってやがる」
「んぅ」
山の中だというのに、呑気に笑みを浮かべながら眠る花梨に、ジンの手が伸び、白い鼻を摘まむ。彼女は息苦しそうにぷくっと頬を膨らませた。
「間抜け」
すっかり寝入った花梨から、返事はない。
組織にいなかったタイプの、イレギュラーな存在にほだされたわけではないが、ジンにとって彼女が異質なのは確かだ。
「……白神子か。使えることを祈るぜ」
ジンは、懐から小さな注射器を取り出すと、眠る花梨へ視線を落とした。
花梨が“白神子”であることは間違いなさそうだ。
ならば残るは、噂の検証のみ。
それをクリアし、使えるか、使えないか判断し、使えないようなら処分しなくてはならない。
それが判明するのは、早くて明日――もしくは、明後日だろう。
注射器の中の青い液体が、傾けるたび炎に照らされ、ゆっくりと揺らめく。
中身は液体化させたAPTX4869と、麻酔薬の混合液。
(使えないと分かれば、この場で処分する。……だが)
ジンの指先が、もう一つのケースに触れる。
そこには従来型――カプセル状のAPTX4869が収められていた。
(カプセルなら、確実に“死ぬ”。だがその分、苦しみは長い)
視線が、目の前の少女へと落ちる。
炎に照らされた白い首筋は、あまりに無防備だった。
(こっちは……一瞬だ)
液体型は、ジンの手元にある一本きり。
麻酔を含んだそれは、痛みをほとんど残さず意識を落とす。
(……チッ)
目の前の女の苦しむ姿を、なぜか見たくない。
生まれてから彼女の人生は幸福とは言えないものだった。せめて苦痛のない眠りの中で終わらせてやろう――。
それは、血に塗れた死神が初めて抱いた、歪な“慈悲”だった。
……ちりちりと焚き火が爆ぜる音は、明け方近くまで続いた。