▽前回のあらすじ
山頂での野宿の夜、花梨は最初の社に隠された500年前の悲恋の真実をジンに語る。静寂の山に響き渡る、遠い「月光」のピアノの調べ。花梨が「白神子」であることを確信していくジンだったが、その懐には、彼女が“資産”になれなかった場合の、不気味な注射器が握られていた。
第214話
残りの社へ…。
◇
明け方。山の冷気がアイマスクの隙間から入り込み、花梨はゆっくりと意識を浮上させた。
焚き火はいつの間にか消えていたが、代わりにジンの煙草の匂いが漂っている。
(……昨日の夢、誰だったんだろう。すごく優しい顔をしてた……)
不思議と体は軽い。組織の寝袋が高性能なのもあるが、昨日の社で一つの“想い”を解き放ったことが、花梨自身の精神的な
「……起きたか。さっさと準備しろ」
「おはようございます、ジンさん。……あの、鼻がちょっと痛いんですけど……」
「……夢でも見てたんじゃねえのか」
しらばっくれるジンの横顔は相変わらず鉄面皮だが、彼はすでに荷物をまとめ、次へのルートを見据えていた。
朝霧の中、二人は昨日選んだ“左”の道、下り坂の先を目指す。
道中、花梨はふと、昨夜聞こえた『月光』の旋律を思い出していた。
(昨日のピアノ……なんだか、誰かが泣き叫んでいるみたいだった。……あの先生は、大丈夫かな)
成実先生が一瞬見せた寂しげな表情が脳裏をよぎる。
だが、今の花梨にできるのは、この山に眠る“真実”を見つけ出し、神子としての役目を果たすことだけ。
「……見えてきたぞ、下だ」
霧の向こう側、二つ目の社。
そこは一つ目の社とは対照的に、切り立った崖の縁に、海を見下ろすように建っていた。
「……あそこには、月影さまが……?」
足を踏み出した瞬間、昨日よりもずっと強烈な“拒絶”の波動が、潮風と共に花梨を襲う。
「っ……」
「おい、花梨。行けるか?」
「はいっ! 行きます!!」
崩れかけた崖の中腹に、ひっそりと佇む小さな社。
目の前は海――本土に向けられている。
昔は足場があったと思われるが、島を拒絶するような作りだ。
花梨はジンと命綱を結び、一人、崖をゆっくり降下して社に近づいた。
「……月影様。あなたの旦那さまは解放されました」
崖から二度、足を滑らせた。そのたびにジンが崖上で踏ん張り、花梨を支えた。
花梨は崩れかけの社の扉を開け、中から風化した白く小さな欠片を取り出す。
「……お可哀想に。……バラバラにされてしまったのですね」
またしても花梨の瞳から涙が溢れ、彼女は白い欠片をポシェットに収めた。
「ジンさん! 上げてください! ――わっ!?」
花梨の声を聞き、ジンがゆっくりと引き上げる。
途中で手元が滑り、花梨の身体が落下する。
その瞬間、ジンの眉間に深い皺が刻まれた。
(――チッ、勝手に死なせてたまるか!)
ジンは即座に命綱を引き絞り、肉が軋むほどの力で彼女を崖上へ引き上げた。
……崖の上に戻った彼女は、微笑んでいた。
「なに笑ってやがる」
「えへへ。ちょっとびっくりしたけど、スリル満点でした!」
「……チッ。行くぞ、次だ」
「はい!」
三叉路に戻り、残るは右の道。
ポシェットに入れた“白い欠片”が、時折花梨の腰のあたりで温かく脈打っている。
「……最後は右、ですね」
「……あぁ。あの山の、一番高い場所だ」
ジンは花梨が崖を登りきったことへの安堵を一切見せず、再び歩き出す。
だが、その歩みは先ほどよりも少しだけ、花梨の体力に合わせるように慎重になっている気がした。
右の道へ入り、山頂を目指す。
標高が上がるにつれ、周囲の霧がサーッと引いていき、代わりに頭上の空が異常なまでの明るさを帯び始めた。
「……おい。月の出にはまだ早すぎるだろ」
ジンが足を止め、夜空を見上げる。
雲一つない空の高みには、不自然なほど巨大な黄金色の“満月”が鎮座していた。
「……あ。……呼んでる」
花梨は吸い寄せられるように、最後の社へと続く石段を見上げた。
ポシェットの中の“白い欠片”が、月の光を浴びて、花梨の鼓動と同じリズムで脈動していた。
山頂にある三つ目の社。
そこは、二つの魂が寄り添うための“契りの場所”だったのかもしれない。
「……行くぞ、白猫。……これが最後だ」
ジンは懐の注射器に触れ、冷徹な瞳で満月を睨む。
彼の“検証”もまた、この狂おしいほどの月光の下で、決着の時を迎えようとしていた。
三つ目の社に辿り着いたとき、花梨の脳裏に電流が走った。
(あ、ここだ……。“私”の、いた場所……)
山頂は視界が開け、清浄な風が吹き抜ける原っぱだった。
くたびれた白い社がぽつんと佇み、月明かりを反射するように淡く輝く。それを認めた瞬間、社から吹き下ろしてきた風が、花梨の白い髪を大きく巻き上げた。
「私の……?」
直感的に口にした言葉が自分の心の中にストンと落ちてくる。
(ううん、違う。でも、“私”は……前にもここにいたのね……)
それは、前の代の“白神子”の記憶。
室町時代、戦の混乱に乗じて本土から略奪された、不思議な力を持った貴族の娘。結婚し、子が生まれてすぐに攫われ、この島へ連れてこられた。
始めは帰りたくて泣き暮れた。けれど、島の人は優しく、親切だった。
だから私は、本土に帰ることを諦め、この島の人々のために祈ることにした。
言葉は、すべてを生み出す
幼い頃から、純粋な祈りだけを紡ぐようにと躾けられてきた。でなければ、
「……月影様。今代の白神子、承ります。どうぞ、お降りください。その御身を、
花梨はポシェットから白い欠片を取り出し、社にそっと捧げた。
「っ……!」
背後でジンが息を呑む音が聞こえた。
月光を吸い込んだ花梨の身体が、内側から淡い白光を放ち、夜の山頂を白く塗りつぶしていく。
その圧倒的な光の前では、ジンの身にまとう“黒”さえも一時的に掻き消え、彼が懐に忍ばせた不穏な注射器の影を無慈悲に暴き出していた。
「……ジンさん。私、やっぱり白神子みたいです」
光が収まり、花梨が静かに振り返る。金色に輝くその瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。
「……そのようだな」
内心で畏怖を感じながら、冷や汗を垂らしたジンは短く答えた。伝説の存在を、今、目の前で確定させたのだ。
「……次の実験はなんですか?」
「…………次は――」
ジンが続けようとしたそのときだった。