▽前回のあらすじ
二つ目の社で月影様の悲劇的な最期を視た花梨は、その魂の欠片を携え、不自然な満月が照らす山頂の三つ目の社へ。そこで前代の白神子の記憶を継承した花梨は、内側から神聖な光を放ち、真の覚醒を果たす。その圧倒的な神威にジンが畏怖を抱いたその時、二人の前にさらなる異変が訪れる。
第215話
天に泣きます。
山の下、ふもとの村の一角で、鮮やかなオレンジ色の炎が噴き上がった。
「っ、火事!?」
「……火事か……」
ジンの口元が、残酷な愉悦を湛えてニヤリと吊り上がる。混乱こそが、組織の好む舞台だ。
「大変……!」
花梨は、組織から貸し出されていた高機能双眼鏡を手に取り、炎の方角を覗き込む。デジタル処理された鮮明な視界の先に、燃える公民館が映った。
「あっ!? うそっ!!」
(新ちゃん!? なんで新ちゃんがそこにいるの!?)
その一瞬で、全身が震えだした。双眼鏡のレンズ越しに、燃え盛る炎へ向かって走る少年の姿がはっきりと見えた。
……新一だ。
そしてその傍らには、蘭と小五郎の姿もあった。
瞬時に、一昨日の夜、蘭が言っていた言葉を思い出す。
『お父さんの依頼に、コナンくんと一緒に無理やりついて行くだけなんだけど。離島だから、都会の喧騒から離れて、のんびり過ごせるかなって』
それがまさか、この月影島だったなんて思いもしなかった。
「……どうした?」
「っ、知り合いが……! 知り合いが、燃える建物の中に入って行っちゃったんです……!!」
「ほぉ……」
悲鳴に近い声を上げる花梨とは対照的に、ジンは微塵も動じない。
「このままじゃ、焼け死んじゃう……!!」
取り乱し、今にも崖を駆け下りようとする花梨の肩を、ジンの大きな手が無造作に掴んで引き戻した。
「シャルトルーズ」
「っ、ああ、どうすれば……離してください! 助けに行かなきゃ……!」
「おい、シャルトルーズ。仕事だ。お前ならどうにかできるはずだろう?」
低く、地を這うようなジンの声。その瞳は、炎に怯える少女ではなく、完成したばかりの“兵器”を見定めるような冷徹な光を宿していた。
「なに言って――」
「……『
花梨の思考が一瞬、真っ白に染まる。
この男は何を言っているのか。自然の摂理を捻じ曲げろというのか。
そんなことが――。
「え」
「どうなんだ? お前ならできるんだろう? ……代償に、何が壊れるかは知らんがな」
ジンは試すように、花梨の顎を強引に持ち上げた。
金色の瞳の中に映り込んだ満月が揺れている。
ふもとでは、炎が生き物のようにうねり、建物を飲み込んでいく。双眼鏡を覗かずとも、その熱気がここまで届きそうな錯覚に陥る。
「……ぁ……」
新一がいる。あの中には、新一がいるのだ。
大切な人を二度と失いたくない。その一心が、花梨の中で眠っていた“白神子”の根源的な力を呼び覚ます。
花梨はジンの手を振り払い、崖の縁へと立った。
満月の光を全身に浴び、白い髪が夜風に踊る。
自然そのものを動かす……なんてこと、自分にできるかはわからない。
けれど――。
一瞬だけ、目を閉じる。
心を落ち着けるように、深く息を吸い込むと、瞼を開いた。
満月のような瞳が光を湛える。
『……吹き荒べ』
絞り出すような、けれど山全体に響き渡るほど澄んだ声。
『……天の涙を
刹那――。
月影山の空気が、爆ぜるように鳴動した。
大気を満たしていた潮風が一瞬で凍りつき、重力を無視して湧き上がった漆黒の雲が、黄金の満月を貪るように覆い隠す。
次の瞬間、暴力的なまでの突風が山頂から吹き下ろし、滝のような豪雨がふもとを直撃した。
「なっ……!?」
双眼鏡を覗いていたジンが、思わず絶句する。
それは気象現象などではない。花梨の言葉に世界が平伏し、物理法則が書き換えられた“結果”だった。
村の公民館では、突風が炎のカーテンを文字通り引きちぎり、猛烈な雨が火勢を瞬時に鎮めていた。
炎の渦に巻かれていたコナンは、
降り注ぐ冷たい雨の中、泥だらけで顔を上げた彼の目に映ったのは、鎮火していく建物の残骸と、同じく奇跡的に一命を取り留めた浅井成実の姿だった。
(……どうして急に雨が……? 今の風は……まるで、誰かが無理やり起こしたみたいだ……)
科学で説明できない、不可解な現象にコナンの思考が止まる。
……一方、山頂では。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
膝をつき、激しく肩で息をする花梨。
その周囲には、先ほどまでの神秘的な光はなく、ただ疲弊しきった少女が一人、雨に濡れそぼっている。
「…………」
ジンは、手元で火が消えた煙草を投げ捨て、茫然と花梨を見下ろした。
ふもとの火事は消えた。知り合いとやらも助かっただろう。
だが――。
(これが……“白神子”の力か。……フン、人間に扱える代物じゃねえな)
それは、核兵器よりもタチが悪い。
“言葉”一つで世界を変える。そんな神の真似事をさせるための存在。
畏怖――。
生まれて初めて感じる、理解を超えた存在への“実用不能な恐怖”が、ジンの背筋を冷たく撫でた。
ジンは懐の注射器に指をかける。
情けで楽に死なせてやるだと?
笑わせるな。
こんな化物を、組織が――いや、『あの方』が手放すはずがない。
(永遠の命を求めるあの方が、この『
「……合格だ、シャルトルーズ。貴様は、生きて組織に尽くせ」
あれほど狂ったように降り注いでいた雨が、数分もしないうちにピタリと止んだ。
雲は瞬時に霧散し、夜空には再び、何事もなかったかのように冷たい満月が姿を現す。
「……はぁ……はぁ……」
山頂の原っぱに崩れ落ちた花梨の体からは、全ての熱が奪い去られたかのように冷え切っていた。“言霊”という名の禁忌を犯した代償は、彼女の小さな体を容赦なく削り取っていく。
「…………」
ジンは、もはや雨の匂いすらしなくなった夜風を浴びながら、双眼鏡でふもとの様子を最後にもう一度だけ確認した。
燃え盛っていた公民館は、黒く焦げた残骸を晒しながら、鎮火している。その前で、呆然と空を見上げる少年――江戸川コナンの姿を、レンズが捉えていた。
(……救われたな、ボウズ。……その命、こいつが支払ったツケだということも知らずにな)
ジンは双眼鏡をしまうと、意識を失いかけている花梨の元へ歩み寄った。
「……おい、立て。戻るぞ」
「……む、り……です……。ジン、さん……」
花梨の瞳は焦点が合っておらず、その指先は凍てつくように冷たい。
明日の朝には定期船で島を離れる予定だったが、この状態では歩くことすらままならない。
「チッ……。長時間運用には使い物にならんな。……おい、ウォッカ。予定を変更する。今夜は島で一泊だ。……あぁ、民宿の裏手にある離れを確保しろ」
ウォッカに連絡を入れたジンは、泥と雨に濡れた花梨を、まるで壊れ物を扱うように、最も価値のある兵器を運ぶような手つきで、慎重に抱え上げた。