▽前回のあらすじ
コナンたちが月影島を去る裏で、花梨は高熱に浮かされジンの隠れ家へと運び込まれる。時を同じくして、組織からシェリーが脱走。ジンは花梨を唯一無二の「資産」として自ら管理下に置く。三日後、目を覚ました花梨は、ジンの突きつける銃口を前にしてもなお、組織への協力を拒絶するのだった。
第217話
神秘+科学=???
(……快斗、私、そろそろお別れみたい……)
花梨は、快斗から贈られたネックレスをぎゅっと握りしめ、ここにいないけれど、愛しい人に心の中で語りかける。
組織の仕事は請け負いたくない。
それは人間のエゴであり、歪んだ欲望だから。
白神子の力はすべての人々の幸せを願うもの。
公平で、公正で、寛大で、寛容。
この世のすべてを慈しみ、世界に愛と平和をもたらすためのもの。
だけど、それが争いの火種になるのならば、なくていい。
まだ人類には早すぎたのだ。
……人々の精神が育ち切っていない今、過ぎたる力だ。
今しばらく消えた方がいいだろう。
まさか自分から死んでもいいと思うようになるとは、考えていなかった。
しかも、怖くもなんともない。
「……不思議……恐怖がこれっぽっちもないや。すこし――哀しくて、寂しいだけ」
花梨はジンの出て行ったドアを見つめる。
あの銃で、自分が撃ち抜かれるのを想像しながら。
「ジンさん、早く戻って来てくださいね……」
ジンが出て行った後、沈黙が支配する部屋で花梨はひとり、ネックレスの冷たい感触を指先に転がした。
(……ごめんね、快斗。ずっと、だいすきだよ)
白神子の継承。
それは同時に、人の欲の深さを知る旅でもあった。
組織の仕事、あの方の命令。それに応じることは、五百年守られてきた清らかな祈りを泥水に浸すのと同じこと。
(私は、世界を愛したい。だから、世界を壊すための道具にはなれない)
花梨の瞳は、どこまでも透き通っていた。
恐怖がないのは、彼女の魂がすでに肉体の“死”を超えて、あるべき場所へ帰ろうとしているからかもしれない。
その頃、ドアの向こう側――。
廊下で煙草をくわえたジンは、火を点けることすら忘れて、閉ざされた扉を忌々しげに睨んでいた。
「……死ぬのを待っているだと?」
殺気や憎悪ではない。
あの瞬間の花梨の瞳に宿っていたのは、濁りのない“純粋な拒絶”と“静かな熱望”。
自分を殺せと、救えとでも言うような、あの奇妙な眼差しがジンの脳裏に焼き付いて離れない。
「……チッ。勝手に壊れることは許さねえぞ、シャルトルーズ」
暴力で屈しないなら、心から壊してでも組織に従わせる。
だが、今の花梨は“壊れること(=死ぬこと)”を自ら望んでいる。
捕食者であるジンにとって、これほど扱いづらく、そして支配欲を煽られる獲物はいなかった。
……それからジンは、五度に及ぶ交渉――という名の脅迫を行った。ところが、花梨はそのたびに静かに首を横に振り、一度も意志を曲げることはなかった。
「……いい加減にしろ、シャルトルーズ。俺の忍耐にも限界がある」
六度目の対峙。ジンの声は低く、殺意で煮えたぎっていた。対する花梨は、窓際で月光を浴びながら、聖母のような慈愛と、底知れない闇を孕んだ瞳でジンを振り返った。
「こほっ、ジンさん。何度言われても同じです。私が協力することは、絶対にありません。……それに」
掠れた声の合間に、わずかに喉が鳴るような苦しい息が混じる。
花梨はふわりと微笑み、あどけない仕草で小首をかしげた。
「私……本気で願えば、組織の壊滅を『祈る』こともできるんですよ……? いいんですか?」
にこっ、と妖しく笑う花梨。
その背後に一瞬、巨大な白蛇か、あるいは名もなき神の影が差したような錯覚を覚え、ジンは背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。
(……冷や汗だと? この俺が……!)
これ以上生かしておけば、組織そのものがこの女の“言葉”一つで消し飛ばされる。ジンは本能的な恐怖を殺意で塗りつぶし、無言でベレッタを抜き放った。
「死ね」
銃口は花梨の眉間、わずか数センチの距離。外すはずのない至近距離で、ジンは迷わず引き金を引いた。
乾いた銃声。
しかし、放たれた弾丸は花梨の肌に触れる直前、枕元に置かれた“白い欠片”から溢れ出した不可視の衝撃波によって弾け飛び、壁に虚しくめり込んだ。
「…………っ!?」
火花を散らして抉れた壁を見つめ、ジンの指先が初めて屈辱と恐怖で微かに震えた。目の前の少女は傷一つ負わず、ただ悲しげに微笑んでいるだけだというのに。
その後も、ジンは隙を見ては背後から、あるいは死角から彼女を狙おうとした。ところが、引き金に指をかける寸前、花梨は必ず「分かっていますよ」と言わんばかりに振り返り、優しく微笑みかけるのだ。
“ちゃんと狙ってくださいね”
……とでも言わんばかりに。
(撃てねえ……。狙いを定めた瞬間に、視線が合う……!)
物理的な防護以上に、彼女の瞳に見つめられるだけで指が凍りつく。それはもはや、人間が抗える領域の恐怖ではなかった。
「……フン、銃が効かねぇなら、内側から壊すまでだ」
ジンは震える手を隠すように、懐から“青い液体”の入った注射器を取り出した。
それは一本だけ生成に成功したAPTX4869の混合液。細胞を内側から崩壊させる、組織の最高傑作。
「さあ、一発どーんとやっちゃってください。ジンさんになら、壊されてもいいですよ♡」
毒を突きつけられてなお、花梨は恍惚とした表情で腕を差し出す。
……目の前の女は頭がイカれちまった。
ここまで愉快そうに死を望む目をした人間を、ジンは知らなかった。
引導を渡さなければ。
「可哀想にな……今、楽に終わらせてやる」
ジンは低く呪詛のように呟きながら、その細い腕に針を突き立て、冷たい毒液を全て流し込んだ。
「…………あ」
刹那、花梨の瞳から光が消え、彼女の体がゆっくりとベッドに崩れ落ちる。
……今度こそ、終わった。
ジンは荒くなった呼吸を整えようとしながら、倒れ伏した彼女を見下ろした。
だが、胸のうちは“任務完了”の安堵ではなく、正体不明の不吉な予感で満たされていた――。
ジンの手によって注入された、APTX4869と麻酔薬の混合液。
それは本来、細胞を自己崩壊させ、跡形もなく生命を消し去るための“死の抱擁”だ。
だが、毒が全身に回る瞬間、花梨の体内で眠っていた“白神子”の神威が、その侵入者に対して激しく拒絶反応を起こした。
「……あ、あぁ…………っ!!」
呼吸がひとつ詰まり、空気が途切れる。
ベッドに倒れ伏した花梨の肌が、瞬時に青白く染まり、血管が浮き上がる。
その中を流れているのは、もはやただの血液ではない。月光のように冷たく、白く輝く“何か”だ。
(……何が起きてやがる。……細胞が壊れていない……?)
ジンは、驚愕に目を見開いた。
麻酔成分が含まれているとはいえ、血管に直接注入したのだ。効き目は経口摂取よりも強力なはずだというのに、彼女の体が内側から発光し、注入された毒液を強引に“別の何か”へと変容させていく。
――グニャリ、と。
ジンの目の前で、現実の輪郭が歪む。
毒という名の“死”を、神子の力が“再生”あるいは“変化”へと書き換えてしまう。
科学と神秘が正面から衝突し、その瞬間、花梨の体は眩い白い光に包まれた。光の繭のようなものが一瞬だけ立ち上がり、ジンの目には、彼女の輪郭が崩れかけて揺らいで見えた。
「……ジン、さん……。……ありが、とう……。……これ、で……やっと……」
意識が遠のく中、花梨が最後に漏らした言葉。
それは、毒を打ってくれたジンへの皮肉なのか、それとも、人間としての自分を終わらせてくれたことへの心からの感謝なのか。
白い光が収まると、ジンの足元に、空になった注射器が転がり、乾いた音を立てる。
(おかしい……死なねえ。……毒を打っても、心臓を狙っても……この女は、壊れることすら許されねえのか)
ジンは、足元で虚しく冷たい光を放つプラスチックの筒を一瞥し、荒い息を吐きながら後退した。
これで終わりだ。この悍ましい“神”の真似事をする女は消えたはずだ。
だが、現実はジンの期待を無残に裏切った。
「……あ……、つ、い…………」
花梨の体から、肉が焼けるような蒸気が立ち上る。
骨が軋み、縮んでいく異様な音。ジンはベレッタを構え直すが、その銃身は微かに震えていた。
やがて蒸気が晴れたとき、ベッドの上に横たわっていたのは――。
「……っ!? なんだ、これは……」
そこには、かつての白神子の面影を残したまま、六、七歳ほどの子どもの姿にまで縮んでしまった花梨がいた。
死んでいない。小さな胸に手を当ててみれば、心臓は、驚くほど力強く、そして静かに時を刻んでいる。
(……死なない……? 毒を打ち込み、細胞を破壊したはずだ。それなのに……子どもになっただと!?)
ジンは、自分が握っていた薬が“死”をもたらすものではなく、この化け物をより不可解な存在へ変容させてしまったことに、言いようのない戦慄を覚えた。
「……ジン、さん……。……ありが、とう……」
伸ばされる小さな手。幼い声。
けれど、その瞳の奥に宿る“月影様”の冷徹な知性は、何一つ変わっていなかった。
「……クソがっ!!」
ジンは壁に掛かった鏡へ拳を叩きつけた。
激しい破砕音とともに鏡が砕け散り、鋭い破片が床へ降り注ぐ。
殺せない。御せない。
あの方が求めた“永遠の命”の、これが答えだというのか。
小さな花梨は、そんなジンを哀れむように見つめ、また静かに目を閉じた。
砕けた鏡の破片の間に、ジンの拳から滴った赤い血が落ちる。だが、彼はその痛みすら感じていないようだった。
「……アニキ、ヘリの準備が……。……っ!? な、なんですか、そのガキは……!」
合流したウォッカが、開いた口が塞がらないといった様子でベッドを見やる。
そこには、ブカブカになった大人の服に埋もれ、安らかに眠る幼い少女がいた。数時間前まで「シャルトルーズ」と呼ばれていた女の、成れの果てだ。
「……連れて行くぞ。……これは、俺が預かる」
ジンは血の滲む手で、意識を失った小さな花梨を毛布ごと乱暴に、けれどもどこか慎重に抱え上げた。
「ですがアニキ、シェリーもいねぇ今、そのガキをどうやって……」
「黙れ。……こいつは、ただの拾いモンだ。……死すら拒絶しやがった、本物の『呪い』だ」
「……呪い? へ、へい……(アニキ、そのガキいったいどこで……?)」
ウォッカが不思議そうに首をかしげる。
ヘリの爆音の中、ジンは胸の中に収まった小さな重みを感じながら、月影島の方向を睨みつけた。
殺そうとした自分を「ありがとう」と呼び、子どもの姿で微笑みかけた化物。
“あの方”が求めた不老不死の答えがこれならば、組織が歩んできた道は、最初から地獄へ続いていたのかもしれない。
「ところで、アニキ。シャルトルーズの奴は今どこに……」
ヘリのローター音に混じって、ウォッカが当然の疑問を口にした。
島での任務、そしてこの隠れ家での“交渉”。その中心にいたはずの女の姿がどこにもない。代わりにジンが抱いているのは、得体の知れない白髪の幼女だ。
ジンは腕の中の小さな重み――かつて“シャルトルーズ”だったものの残骸を見下ろし、感情の消えた声で言い放った。
「ああ、奴なら……死んだ」
「えっ……!? 処刑したんですかい?」
「ああ。……組織の仕事は請け負わないと吐きやがった。……跡形もなく消してやったぜ。二度とこの世に現れることはねえ」
ジンの言葉に嘘はなかった。
組織に従うはずだった“シャルトルーズ”は、ジンの手によって確かに殺された。
今ここにいるのは、毒ですら殺しきれず、死すら拒絶した名もなき“呪い”。
「そ、そうですか……。流石はアニキだ。裏切り者には死を、ですな」
「ウォッカ、……今日からこいつは、ただの『迷子』だ。……余計な詮索はするなよ」
「……へ、へい……(アニキ、まさか隠し子……じゃねぇよな……)」
ウォッカは頷き、ヘリを加速させた。
その操縦席の後ろで、ジンは毛布越しに伝わってくる小さな体温に、苛立ちとも、あるいは安堵ともつかない奇妙な感覚を覚えていた。
抱えられた毛布の中、かつての“白神子”だった少女は、大人用のパジャマに溺れるようにして、深い眠りについている。その顔はあまりにも幼く、組織の暗殺者が連れているには、あまりにも不釣り合いで、残酷なほどに愛らしい。
(……死んだはずだ。……なのに、この温もりは何だ)
血に染まった拳を握り込み、ジンは夜の闇を睨みつける。
組織には『死亡』と報告し、この小さな化物を自分の管理下に置く。それは組織への忠誠か、それともこの“神秘”を支配したいという欲なのか。
……ジン自身にも、その答えは分からなかった。