▽前回のあらすじ
額の約束がヒロの死の運命を書き換えていたことを知り、花梨は涙を流す。二人は同居の秘密の指切りを交わすが、実はヒロは数日前に白河多紀に拉致され「雨上がりの倉庫街で花梨と出会う」と予言されていた。すべてが現当主の思惑通り動く中、二人の奇妙な共犯生活が始まる。
第222話
新たな生活へ。
◇
数時間後――。
花梨は風呂を済ませ、髪をヒロに乾かしてもらい、まったりした後、就寝する運びとなった。
「私、ソファで大丈夫だよ?」
「そんなわけにいかないよ。君は俺の女神さまなんだから」
セーフハウスには、ベッドが一つしかなかった。
ソファで寝ると言い張る花梨に、ヒロは自分がソファで寝るとベッドを譲る。
「でも、ヒロお兄ちゃん、背が高いから足はみ出ちゃうよ? 私なら小さいからソファで充分だよ。ジンさんのところでもソファで寝てたし」
「大丈夫大丈夫。花梨ちゃんは遠慮しないで、ベッドでゆっくり眠るといいよ」
「ちょ、わっ……!」
ヒロは花梨を抱き上げ、ベッドに連れて行く。
そっと彼女を降ろすと、布団をかけた。
「ヒロお兄ちゃん……」
「明日、布団も買おうね」
「……うん」
布団から顔を出す花梨の首に、きらりとネックレスが光る。
ヒロはそれを見て、一瞬だけ悲しげな目をした。
「…………おやすみ」
「おやすみなさい……」
彼女の頭をひと撫でして、微笑み、ヒロは寝室を出て行く。
寝室のドアが閉まり、廊下の明かりが消える。
一人きりの暗闇の中で、花梨は胸元のネックレスを強く、指先が白くなるほど握りしめた。
快斗からもらった、大切な思い出の欠片。もう二度と触れることのできない指先の熱や、自分を呼ぶ少年の声を思い出し、心臓の奥がぎゅっと軋む。
(……かいと……もう、会えないのに、私……生き残っちゃったよ……)
花梨は声を出すことなく、静かに涙をこぼす。
母の予見が意味していた真実を、本当の意味で理解したのは、幼児化して目覚め、大混乱したあとだった。
『花梨の未来は十六歳で止まってる。その年の六月以降は真っ黒で見えない。ごめんね』
……次代の当主だったはずの、母の未来視だ。
花梨はずっと、自分は六月で死ぬものだと思っていた。
けれど、実際は毒薬による幼児化という事象により、未来が見えなくなった……というのが正解なのかもしれない。
(ごめんね……快斗。新ちゃんも……みんな。私、生きてるよ……。でもね、もう、みんなが知ってる『私』じゃないんだよ)
“白神子”として誰かのために死ぬ覚悟はできていた。けれど、生き残ってしまったこの“幼い肉体”という檻の中で、どうやって償えばいいのか分からない。
「……私のバカ」
こんなことになるなら、快斗に打ち明けていればよかった。
新一に相談しておけばよかった。
自分が死ぬことで、みんなを守れると信じていた。でも、それは思い上がりもいいところだった。
はっきりとは覚えていないが、ジンは何度も自分を殺そうとしていた気がする。
けれど、彼はなかなか決定打を打てなかった。
最終的に毒薬を注射されて――今がある。
「…………かい、と。しん、ちゃん……。ごめんなさい……」
二人とも、あんなに必死で助けになろうとしてくれていたのに。
その手を取ることもせず、私は、人間を止めてしまった。
「…………」
ジンの冷たい瞳。注射器の鈍い輝き。
そして、自分を助けようと必死に手を伸ばしてくれていた、大好きな人たちの顔。
すべてが“十六歳の自分”が死んだ証拠のように思えて、花梨は布団を頭まで被り、声を押し殺して泣き続けた。
……一方、リビングのソファ。
ヒロは、ソファに背を預け、天井を見つめていた。
先ほど一瞬見えた、彼女の首筋に光るネックレス。それはきっと、彼女が“十六歳の人生”に置いてきた、一番大切で、一番痛みを伴う未練の象徴だろう。
(あのネックレス……たぶん黒羽君が贈ったものだよな……)
以前、快斗と、メッセージアプリでこんなやりとりがあった。
快斗:「諸伏さん、ちょっといい? 女の子に贈るネックレスなんだけど、プラチナとシルバー、どっちが肌に馴染むかな。あいつ、色白だからさ」
ヒロ:「そうだね。花梨ちゃんなら、プラチナの方が長く大切にしてもらえるんじゃないかな。シンプルだけど芯が強い、彼女らしい輝きだと思うよ」
快斗:「プラチナか……高ぇな(笑)でも、一生モノになるなら頑張るわ。サンキュー、諸伏さん!」
ふと思い出したヒロの指先が、快斗のアイコンをタップしようとして、止まる。
(黒羽君……君が贈ったあのネックレスを、彼女は今も、心をボロボロにしながら握りしめているよ)
そう伝えられたら、どれだけ楽だろう。
けれど、それを送った瞬間に、花梨を狙う組織の影や、彼女を連れ戻そうとする白河家の思惑に、彼まで引きずり込むことになってしまう。
花梨は、自分に起こった出来事を説明するために、快斗の話題を出しはしたものの、膨らませることはしなかった。
『もう、お別れしたから』
短くそう言って、彼女はあくまで事務的に、事実を淡々と説明しただけで終わった。
ヒロは、あえて快斗とのトーク画面を非表示にする。
それは冷徹さではなく、快斗の“日常”だけは、これ以上壊したくないという彼なりの不器用な優しさだった。
「……真っ黒な未来、か」
四年前、多紀から聞いた言葉をふと思い出す。
『いつか、あの子は――“真っ黒な未来”に立ち向かわなきゃならないんだ』
多紀の言う“真っ黒な未来”とは組織のことだったのか、それとも、この今の状態のことなのか……。
花梨が思っていることと、自分が考えていることが同じだとは思わないが、ヒロは彼女の涙の理由を刑事としての洞察力と、一度死を越えた者としての直感で察していた。
彼女は今、生きていることを“罪”だと思っている。
自分を捨ててまで他人を守ろうとした少女が、その“救いたかった人々”を裏切ってしまったと感じている。
(花梨ちゃん。君の未来は止まったんじゃない……。書き換えられたんだ。俺の運命がそうだったように――君がくれたこの命で、今度は俺が、君の新しい未来の盾になる)
ヒロはそっと目を閉じた。
寝室から微かに聞こえる、鼻を啜る音。
それを聞きながら、彼は心に誓う。
いつか彼女が、自分の“新しく始まった未来”を愛せる日が来るまで、この家を、この小さな平和を死守してみせると。
冷たい月の光が、窓越しに二人の孤独を等しく照らしていた。
一晩中、静かに流れ続けた涙が乾く頃。
カーテンの隙間から、容赦なく朝の光が差し込み始めた。
リビングのソファで体を強張らせていたヒロは、キッチンに立ち、コーヒーを淹れる準備を始める。
ゴリゴリと豆を挽く音。それまでの緊迫した仕事の日々にはなかった、穏やかで、けれどどこか危うい日常の音。
「……おはよう、花梨ちゃん。よく眠れたかな?」
寝室のドアがゆっくりと開き、昨日よりもさらに小さく、頼りなく見える少女が姿を現した。
その瞳は赤く腫れ、昨夜の慟哭の深さを物語っている。けれど彼女は、ヒロの姿を見ると、精一杯の“偽りの笑顔”を作ってみせた。
「おはよう、ヒロお兄ちゃん。……いい匂い」
「ふふ、特製のブレンドだよ。……さて、約束通り、今日は新しい生活の準備をしよう。まずは腹ごしらえをして、それから『猫さんの服』を探しに行こうか」
「うんっ!」
ヒロは、あえて彼女の腫れた目には触れなかった。
今の彼女に必要なのは、憐れみではなく、今日を生きるための“些細な目的”だと分かっていたからだ。
プラチナのネックレスを胸元へ、そっとしまい込み、
二人は、誰にも見つかってはいけない“新しい未来”へと、一歩を踏み出す――。