▽前回のあらすじ
セーフハウスのベッドで一人、快斗から贈られたプラチナのネックレスを握りしめ、生き残った罪悪感に涙する花梨。リビングのヒロは、かつて快斗と交わした相談を思い出し、彼女の日常を守るため快斗への連絡を絶ち、新しい未来を死守すると静かに誓う。
第223話
あのあと、ジンは。
◇
横浜の埠頭は、深い夜に沈んでいた。
波がコンクリートを叩く音だけが、規則正しく響く。
「……それで? シャルトルーズの遺体はどうしたの、ジン」
背後から響いたのは、艶やかでありながら、どこか硬い質感を持った女の声だった。
ジンは振り返りもせず、指先に挟んだ煙草の煙を、夜の海へと吐き出す。
「組織を振り回した女だからな。今頃はサメの餌になってるだろうよ。重石を付けて沈めてやった」
ジンの顎の先が、真っ暗な海面を示す。
その瞬間、ベルモットの整った眉が微かに震え、彼女の瞳に、鋭い針で刺されたような苦痛の色が走ったのを、ジンは見逃さなかった。
「……ボスにはなんて報告するつもり?」
「使えなかった――とな。神秘なんてモン、あの方の悲願には必要ねえ」
吐き捨てたジンの声は、いつになく冷徹だった。
まるで、その存在ごと歴史から抹消するかのような拒絶。
「本当に、殺したの……?」
「なぜそんなことを聞く。貴様らしくもない」
「…………別に。ただの好奇心よ。あの子の遺体を確認しないと、寝つきが悪そうでね」
「フン。随分とあのガキに入れあげたもんだな、ベルモット」
ジンは短くなった煙草を足元で踏み消すと、ベルモットの横を無造作に通り過ぎる。
「行くぞ、ウォッカ」
「あ、へい! アニキ!」
ジンの後を追いかけながら、ウォッカの脳内では小さな混乱が渦を巻いていた。
(……おかしい。アニキ、いつの間にシャルトルーズを海に捨てたんで? シャルトルーズを隠れ家に連れて行って、部屋でやっちまったって言ってやしたけど……それからわざわざヘリで捨ててきたんでやすね……! 組織に手間かけさせた報いに重石まで……! 流石はアニキだ!)
ウォッカは自分を納得させると、心酔する兄貴分の背中を追って闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、潮風にブロンドの髪をなびかせる女が一人。
ベルモットは動かなかった。ジンの示した、暗く冷たい海面をただ見つめ続けている。
「……花梨、あなた本当に、死んじゃったの……?」
その呟きは、波の音にかき消されるほど小さかった。
彼女にとって、花梨は組織という汚泥の中に咲いた、蓮そのもの。唯一の清廉な「エンジェル」だった。その光が、これほど呆気なく、何も残さず消えてしまったことが信じられない。
「私の、エンジェル……」
ベルモットの瞳に、きらりと月光を反射した雫が浮かんだ気がした。
それは海に消えた少女への手向けか、あるいは自分の中に残った最後の一欠片の慈しみの露か。
彼女が立ち去ったあとの埠頭には、ジンの踏み消した煙草の吸い殻だけが、無機質に転がっていた。
◇
……静まり返った隠れ家。
ウォッカと別れ、戻ってきたジンは、コートも脱がずにキッチンへ向かった。
習慣というのは恐ろしい。無意識に「今日の飯は何だ」という言葉が喉元まで出かかり、それからこの部屋に自分以外の気配がないことに気づく。
「…………」
ふと、キッチンの隅に置かれた椅子に目が止まった。
幼児化した花梨が、火を使うために無理やり持ってきた踏み台代わりの椅子。その上には、彼女が届かなかった高い棚を指差していた手の跡や、背伸びした拍子についた靴下の汚れが微かに残っている。
あんなに不気味で、あんなに殺意を抱かせた化物だったはずなのに。
いなくなってみれば、部屋が妙に広く、そして――静かすぎる。
ジンは蛇口をひねり、うがいをしようとグラスに水を注いだ。
グラスに水が満ちると、手にした瞬間、花梨が言っていたことを思い出す。
『お外から帰ってきたら手洗い、うがい。大事ですよ!』
『何言ってやがる、んなもん必要ねえ――』
『手洗いと、うがいをしない人は、ごはんなしです』
『――チッ』
しぶしぶ手洗いとうがいをするジンに、花梨は椅子に立って腕を組み、まるで監督のように何度も頷いていた。
「ハッ、何が、手洗いとうがいだ」
ザァーと流れる水を、シンクに置いたグラスが受け止める。
蛇口を閉めると、ポチャンッ。
満たされたグラスに小さく音を立て、波紋を広げた。
蛇口から滴る水の音さえ、今のジンには耳障りだった。
ほんの数日前までは、ここで彼女が鼻歌混じりに包丁を動かし、自分はそれをソファから値踏みするように眺めていた。
毒を盛る機会などいくらでもあったはずなのに、彼女が差し出したのは、いつも呆れるほど純粋な“食卓”だった。
その毒気に、いつの間にか自分の方が当てられてしまっていたらしい。
(……チッ。おかげで、今日からまた不味いテイクアウトだ……)
ジンは忌々しげに煙草をくゆらせ、椅子の向きを足で無造作に直した。
けれど、その椅子を片付けることだけはしなかった。
いつかまた、あの聖女の皮を被った怪物が、生意気な笑みを浮かべてそこに乗る日が来るのを、どこかで確信しているかのように……。
ふと、視線を感じて振り返る。
だが、そこには月明かりに照らされた無機質なリビングが広がっているだけだ。
いつもなら、ソファの端で分厚い本を広げた彼女が「あ、ジンさん。お帰りなさい。……また煙草臭いですよ」と、眉をひそめてこちらを見ていたはずだった。
その
ジンはコートのポケットから、一粒の飴玉を取り出した。
花梨が「喉に良いから」と無理やり押し付けてきた、安っぽい蜂蜜の飴だ。組織の最高幹部である自分の指先に、場違いなほど鮮やかな包み紙が転がる。
ジンはそれを口に放り込むことなく、静かにキッチンのカウンターへ置いた。
甘ったるい香りさえ、今の自分には毒のように感じられたからだ。
「……死に損ないの聖女め。精々、泥水でも啜って生き延びてみせろ」
それは、海に沈んだはずの少女に向ける言葉ではなかった。
ジンはリビングの窓際に置かれた長細い鞄――愛用のライフルケースを手に取った。
ケースを開き、スコープを見下ろす。
組織の処刑人として、数多の標的をその
誰にも知られぬ場所で、猫のように丸まって眠る少女の姿を。
あるいは、自分から奪った自由を謳歌して笑う、憎たらしいほど清らかな横顔を。
それは監視であり、生存確認であり、そして彼に許された唯一の“面会”だ。
銃口を向ける相手を、その引き金を引かずに守り続ける。その矛盾こそが、ジンが彼女に与えた新しい運命の形――。
そんな予感がして、ジンはライフルケースを閉じると、彼女が立っていた椅子を一度だけ振り返る。
そこにいた少女はもういない。
「…………ハッ、どうかしてるぜ」
彼は前髪を掻き上げ、一切の未練を断ち切るように寝室へと足を進めた。
彼にとっての“平和”という名の毒気は、今、この瞬間をもって終わったのだ。
……ジンのいなくなったカウンターの端で、場違いな真珠色の欠片が、月明かりを吸い込んで静かに明滅していた。
――同じ頃。
冷たい月の光を浴びて、静かに眠るセーフハウスの片隅で。
花梨はまだ知らない。自分を“殺した”男の鋭い視線が、いつか遠いビルの屋上から、守護神のように自分を射抜く日が来ることを。
そして、その銃口が自分に向けられるとき、それは世界の何処にいるよりも安全な「檻」になるのだということを。