▽前回のあらすじ
ジンはベルモットに「シャルトルーズは海に捨てた」と嘘の最期を告げ、彼女の死を偽装する。誰もいなくなった冷え切った隠れ家に戻ったジンは、花梨との奇妙な日常のノイズを思い出し、これからは処刑人としての銃口を彼女を守るための「監視」に使うことを誓う。
第224話
新たな日常へ。
◇
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、部屋の隅を白く染めていた。
六月の朝は、雨上がり特有の少し冷えた空気を運んでくる。
「……ん……」
花梨は、頬に触れる柔らかな感触に目を覚ました。
目の前にあるのは、自分を包み込むような大きな胸元と、着古されたTシャツの柔らかな質感。
セーフハウスに移ってから二日目、「寒いから」という理由で真夜中にヒロのベッドに潜り込んで以来、それがいつの間にか二人の朝の風景になっていた。
(……また潜り込んじゃった……ヒロお兄ちゃん、あったかい……)
ヒロはまだ眠っているのか、規則正しい寝息を立てていた。
最初こそヒロに驚かれたが、今は寝惚け眼の花梨が夜な夜なやってくると、布団を持ち上げ招き入れてくれる。
こうしていると、幼い頃に父や母の布団へ潜り込んでいたことを思い出す。
自分用に買ってもらった布団があるというのに、一度この安心感を知ってしまうと、幼い身体はどうしても温もりを求めてしまっていた。
もし、この光景を快斗が見たら――なんて思うのだろう。
きっと顔を真っ赤にして、「おい、そこどけ! 俺の場所だ!」なんて言いながら割り込んでくるに違いない。
そんな想像をして、花梨は布団の中で小さく笑った。
(……ごめんね、快斗。今だけ、だから……)
ふと、ヒロが薄く目を開け、視線が合う。
「……おはよう、花梨ちゃん。今日も早いね」
寝起きの少し掠れた声で、ヒロが優しく微笑む。彼は当たり前のように花梨の肩をそっと抱き寄せると、トントンとあやすように叩いた。
「おはよう、ヒロお兄ちゃん。……まだ、寝ててもいい?」
「いいよ。今日は急ぎの仕事もないし、もう少しだけこうしていようか」
ヒロの腕の中に収まっていると、自分が本当に小さな子どもに戻ったような錯覚に陥る。
ジンとの生活が、常に刃の上を歩くような緊張感に満ちていたとしたら、ヒロとの生活は、まるで深い森の中の陽だまりにいるようだった。
……だからこそ、その温もりが失われることを思うと、胸の奥がざわめいた。
再び花梨はまどろみ、夢の中へ。
「……あとで起こしに来るね」
しばらくして、眠る花梨の頭に優しい声と温かい手が触れて、ヒロがベッドから離れた気配がした。
「……ふわぁ……」
二度寝を経て、再び目を覚ました花梨は小さく欠伸をして、まだ幼い自分の手を見つめる。
幼児化した身体は、今日も子どものまま、ヒロの寝心地の良いベッドに半分埋もれていた。隣の部屋からは、カチャカチャと食器が触れ合う心地よい音が聞こえてくる。
「あ、花梨ちゃん。おはよう。よく眠れたかな?」
キッチンから顔を出したのは、エプロン姿のヒロだ。休職中とはいえ、彼は朝からきびきびと動き、栄養バランスの取れた朝食を手際よく準備していた。
「おはよう、ヒロお兄ちゃん。……うん、ぐっすり」
「それは良かった。さあ、顔を洗っておいで。今日はフレンチトーストだよ。君の好きな、蜂蜜をたっぷりかけたやつ」
ヒロの優しい微笑みに、花梨も自然と口角が上がる。
彼は決して彼女を急かさず、かといって過保護になりすぎず、ただ一人の少女として大切に扱ってくれていた。
洗面台の前に立ち、ヒロが用意してくれた踏み台に上る。
鏡の中に映る自分は、相変わらず六歳ほどの子どもの姿だ。
けれど、その胸元には、快斗から贈られたネックレスが、静かに、だが確かな熱を持って輝いている。
ふと、壁に掛けられたカレンダーが目に留まった。
……六月二十一日。
日付を確認した瞬間、心臓がトクン、と大きく跳ねる。
あの日、新一に買ってもらったカレンダー。自宅に残してきたそれには、六月以降のページにすべて大きく×印を付けていた。
自分はもう、この月を越えることはないのだと。母の予言通り、六月中に自分の命も尽きるのだと、花梨はそう信じて疑わなかったのだから。
(……六月、二十一日。……もう、そんなに経っちゃったんだ)
ふと、心の中に一人の少年の顔が浮かぶ。
眩しい笑顔、少し意地悪な口癖。そして、最後に交わしたあの熱い体温。
最後に見た、自分を探す必死な、あの瞳。
(……快斗……。元気かな……ごめんね……)
今日が快斗にとって特別な日――誕生日であることを、今の花梨は知る由もなかった。
お付き合いをして、まだ一月。お互いの誕生日すら共有する前に、花梨は世界から一度消えてしまったのだ。
「花梨ちゃん? どうしたんだい、カレンダーなんて見つめて」
いつの間にか背後に立っていたヒロが、心配そうに屈み込んで視線を合わせた。
「……ううん、なんでもないの。ただ……六月がもう、十日もないのに、私、まだ生きてるんだな、って思って……」
花梨の言葉に、ヒロの灰青の瞳が微かに揺れた。
彼は彼女の抱える“予言”の重さを、誰よりも真剣に受け止めているつもりだ。
「そうだね。……でも、大丈夫だよ、花梨ちゃん。君は今、こうして俺の前にいる。六月はもう、君を連れ去ることはできないんだ」
ヒロの大きな手が、そっと花梨の頭に置かれる。
その温かさに、花梨は“生きていていいんだ”という、まだ慣れない希望を少しずつ身体に染み込ませていった。
それから幾日かが過ぎ――。
夕食の買い出しのために訪れたスーパーは、夕刻の活気に満ちていた。
ヒロの隣を歩く花梨の手には、小さなプラスチックのカゴが握られている。
「今日は寒いから、お鍋にしようか。花梨ちゃん、何が食べたい?」
「ん……お豆腐と、あと、つくねがいいな」
「了解。じゃあ、一番美味しいお肉を選ぼうね」
ヒロは穏やかに笑い、歩幅を合わせてくれる。その光景は、どこからどう見ても仲の良い親子そのものだった。
けれど、青果コーナーを曲がった先で、花梨の足がふと止まる。
そこには、色とりどりのランドセルを背負った小学生の女の子たちが、お菓子を選びながら賑やかに笑い合っていた。
「ねえ、明日宿題終わったら公園集合ね!」
「いいよー! チョコ持ってくね!」
屈託のない、未来だけを見つめた声。
今の花梨と、見た目の年齢はほとんど変わらないはずの少女たち。けれど彼女たちが当たり前に持っている“明日への約束”を、今の自分は持っていない。
(……私は、あの子たちにはなれない、かな……)
次に視線を移した先、パンコーナーの前には、紺色のブレザーを着た高校生のグループがいた。
部活帰りなのだろう。大きなスポーツバッグを肩にかけ、コンビニの新作スイーツについて熱心に語り合っている。
かつての自分が、そして快斗が当たり前にいたはずの場所。
ほんの一ヶ月前まで、自分もあんなふうに制服を着て、誰かと笑い、恋をしていたはずなのに。
ヒロに買ってもらったばかりの、小さな子ども用のTシャツを身にまとった自分を、今の快斗が見たらどう思うのだろう。
(……あの中にも、もう戻れないんだなぁ……)
小学生のような“無邪気な今”にもなれず、高校生のような“眩しい青春”にも戻れない。
世界から切り離され、狭間の暗闇に一人で立っているような疎外感が、急に心臓を冷たく締め付けた。
カゴを持つ指先が、小さく震える。
その時だった。
「……花梨ちゃん?」
名前を呼ぶ声と共に、温かくて大きな掌が、花梨の小さな手を包み込んだ。
見上げると、ヒロがすべてを悟ったような、深く優しい眼差しで自分を見つめていた。
「大丈夫だよ。……行こうか」
ヒロは何も言わず、ただ優しく手を引いて歩き出す。
その手の温もりは、冷え切っていた花梨の心に、ゆっくりと熱を灯していく。
小学生でもない。
高校生でもない。
ただの、今の自分。
それをそのまま受け入れ、隣を歩いてくれる存在。
「……うん、行こう。ヒロお兄ちゃん」
花梨はふわりと微笑み、繋がれた手を少しだけ強く握り返した。
ヒロの隣にいる間だけは、自分が“何者でもない”ことが、それほど怖くはなかった。
彼が引いてくれる手の先には、冷たい予言も、残酷な現実もない、ただ穏やかな“夕食”という名の平和が待っているのだと信じられたから――。
「ふぅ……おいしかった~♡ お腹いっぱい! ヒロお兄ちゃんの手作りポン酢最高~♡」
テーブルに箸を置いた花梨は、ご機嫌な様子で皿を重ねた。
「アイスあるけど、食べられるかい?」
「食べる~♡」
ひまわりのような笑顔を浮かべる花梨に、ヒロの目が細くなる。
彼女は少しずつ元気になっている。手応えはあった。
けれど……。
(花梨ちゃん……まだ、回復してないよね……?)
冷凍庫からアイスを取り出し、笑顔で食べる花梨に、ヒロは眉を下げながら微笑む。
彼女は、夜、一人でベランダに出ては、空を見上げ、何かを呟いている。
『……快斗……』
頬は月明かりを受けて淡く輝き、小さく動く唇はおそらく、彼の名を呼んでいる。
届くはずのない夜空の向こうへ、まるで祈りを捧げるように。
風邪を引くと心配だから、ヒロは素知らぬ振りで遠くから「花梨ちゃーん、上着着なさーい。風邪引くよー!」と声かけだけして、それ以上はそっとしておいた。
彼女はその声が聞こえると、慌てて部屋に戻ってくる。
「風邪引くよ?」
「えへへ、お月さま見てたの。だんだん大きくなるなぁって」
夜空を見ると、彼を思い出すのだろうか。
首に下がったネックレスが、部屋の明かりに照らされ反射している。
片時も離さない彼女の精神安定剤――。
彼がいれば、きっともっと安定するのだろう。
「そろそろ、眠くなってきたんじゃないかな?」
「うん……もう寝るね」
寝室へと彼女を連れて行き、布団に寝かせるけれど、ヒロが遅くにベッドに横になると花梨は起き出して、潜り込んでくる。
そのときの花梨の瞳は虚ろで生気がなくて、頬には泣いた痕があり、たまに「かいと……」と呟く。
ヒロはそんな彼女を慰めるつもりでベッドに迎え入れていた。
朝になると花梨は、また元気に「おはよう、ヒロお兄ちゃん!」と笑顔を見せるから。
(俺の前では無理して笑わなくていいのに……)
そう思うヒロだったが、黒羽快斗にはどうにも敵いそうもない。
白い月が日に日に膨らんでいく。
このまま穏やかに生活を営んでいけば、彼女の精神もいつかは癒されるだろう。
これから花梨が新たな人生を歩めていけるのなら、それが一番好ましい。
けれど、この時、花梨もヒロもまだ知らなかった。
六月が終わるその日、彼女に、あまりにも残酷で美しい“奇跡”が訪れることを――。