▽前回のあらすじ
ヒロとの穏やかな同居生活の中、花梨は自分が「6月21日」を生き延びていることに気づく。それが恋人・快斗の誕生日だとは知らぬまま、夜な夜な彼の名を呼び涙する花梨。小学生にも高校生にもなれない孤独を抱える彼女に、ある夜、残酷で美しい奇跡が迫っていた。
第225話
ミラクル~☆
◇
六月二十九日、夜。
運命の日は、静かに、けれど確実に牙を剥き始めていた。
「……ヒロお兄ちゃん、なんだか、身体が熱い……風邪ひいちゃったのかも……」
夕食後、ソファに座っていた花梨が力なく、ヒロの袖を引いた。
熱を測ってみれば、三十七度五分だった。
「少し知恵熱が出ちゃったかな。今日はもうお休み」
ヒロは優しく彼女を抱き上げ、ベッドに寝かせた。数日来の疲れが出たのだろうと、その時はまだ、穏やかに構えていた。
けれど、夜が更けるにつれ、事態は変貌していく。
二十三時――。
花梨の呼吸は荒くなり、体温計は三八度七分……八分……三十九度――と、一気に大人の平熱を遥かに超えていく。
「はぁっ、……あ、つ……ひろ、お兄ちゃん……っ!」
「花梨ちゃん!? 大丈夫だ、今冷たいタオルを……」
あたふたと氷嚢を替えるヒロだったが、日付が六月三十日に切り替わった――その瞬間。
花梨の身体から蒸気が溢れ出した。
「っ……!? 蒸気が……!?(身体から蒸気なんて、どうなって……!)」
あまりの熱気に、花梨の着ていた子ども用のパジャマが汗で肌に張り付いている。
「熱っ、せめて着替えさせないと……」
ヒロが予備のTシャツを手に取り、彼女の背中を支えようとした、その時だった。
ミシッ、と。
ありえない音が、静かな寝室に響いた。
「え……?」
ヒロの手の中で、花梨の小さな指先が、しなやかに、長く伸びていく。
子ども特有の丸みを帯びた手足が、まるで彫刻が完成していくように、一瞬ごとに、大人びた造形へと作り替えられていくのだ。
ブチッ、とボタンが弾け飛ぶ音がした。
子ども用のパジャマの袖が、伸びていく腕に耐えきれず悲鳴を上げていた。
「花梨ちゃん……嘘だろ……」
ヒロは、自分の腕の中で“成長”していく少女を、ただ呆然と見守るしかなかった。
首筋、肩のライン、そしてすらりと伸びた足。
パジャマの生地が突っ張り、肩口が裂けて、中から白く透き通るような、本来の“十六歳の肌”が露わになっていく。
「ぅあ……っぅぅ……!!」
苦しげな喘ぎ声が、やがて落ち着いた吐息へと変わり、日付が六月三十日に切り替わってから、数秒後――。
そこにいたのは、子どもの姿をした花梨ではなかった。
月光をその身に宿したような、神々しいまでに美しい、本来の姿を取り戻した“白神子”だった。
「……あ……」
ヒロの腕の中に、かつてない重みと、柔らかな女性の体温が満ちる。
あまりの衝撃に、ヒロは手に持っていた着替え用のTシャツを握りしめたまま、言葉を失って彼女を見つめることしかできなかった。
日付が切り替わると同時に訪れた、あまりに劇的な変容。
ヒロの腕の中で、少女は瞬く間に“女性”へと戻り、力尽きたようにその肩に額を預けていた。
「ん……っ、……ヒ、ロおにぃ、ちゃん……?」
微かに開かれた瞳が、潤んだままヒロを見上げる。
その声はもう、幼子の高い響きではない。かつて彼女の家で、そして快斗の隣で聞いていた、鈴を転がすような、透明感のある十六歳の少女の声だ。
「ハッ……!? あ、ああ、花梨ちゃん……大丈夫、今、寝かせるから……!」
脳内を支配していたパニックを無理やり押し殺し、ヒロは震える手で彼女をそっとベッドに横たえた。
弾け飛んだパジャマの隙間から、白くしなやかな肌が覗く。ヒロは顔を真っ赤にしながら、視線を逸らし、大急ぎで布団を彼女の肩口まで引き上げた。
「い、今、着替え持ってくる!!」
クローゼットへ駆け込み棚をかき回すが、当然、この家に成人女性用の服なんて一着もない。
「……俺ので悪いけど、これ、着ていてくれ」
ヒロが持ってきたのは、洗いざらしの自分の白シャツと、紐で絞れるスウェットパンツだった。
「……よし、これで……」
なんとか自分の白シャツを着せ終えると、ボタンを上までしっかりと留める。
それでも、ヒロの体格に合わせたシャツは花梨の華奢な肩からずり落ちそうになり、細い足首が覗くスウェットの裾も、何度も折り返さなければならなかった。
(……冷静になれ、諸伏景光。これは非常事態だ。彼女の体温を守るための、最善の策だ……)
……とは思うものの、細い手首やずり落ちそうな襟元から覗く鎖骨、そしてその真ん中で静かに輝くプラチナのネックレスに、どうしても目のやり場に困ってしまう。
ヒロは自分に言い聞かせるように深呼吸をするが、目の前の光景はあまりにも暴力的だった。
自分の匂いが染み付いたシャツに包まれ、安らかな寝息を立てている“十六歳の花梨”。
その姿は、かつて快斗の隣で幸せそうに笑っていた、あの輝くような少女そのものだ。
「ん……ひろ、お兄……ちゃん……」
眠りの中で、花梨がヒロのシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
その無意識の動作に、ヒロの心臓がドクンと跳ねた。
(黒羽君……君の彼女を、こんな格好にさせてしまって……本当に申し訳ない)
心の中で快斗に土下座をしながらも、ヒロは彼女の額に浮いた汗を、震える指先でそっと拭った。
意識が朦朧としていた花梨が、ふと小さく身動ぎをする。
「……ン……ヒロお兄ちゃん……?」
「大丈夫か? 気分はどうかな……?」
「うん……。なんか、すっきりしてる……かも?」
ゆっくりと白い睫毛が上がると、宝石のような瞳の中に、心配そうに覗くヒロが映り込んだ。
「花梨ちゃん、自分の手を見てみて」
「手? あ…………え、大き、い……? 私……戻ってる……?」
言われるままに花梨は、自分の手を目の前に持ってくる。
数分前まで見ていた、あの小さな手じゃない。
見慣れていた十六歳の細い指。
「ああ、戻った、みたいだね。どうしてかはわからないけど……ひょっとしたら、薬の効き目が切れたのかもしれないね。日付が変わって今日は六月三十日。これで次の夜が終われば、日付は七月一日になる。花梨ちゃん、もう怯えなくていいんだよ」
「あ…………っ、うん……!」
ヒロの言葉に、花梨の瞳に生気が宿る。
萎れた植物が、水を得て瑞々しく輝くようだった。
「元に戻ってよかったね、花梨ちゃん。これで、黒羽君に会えるね」
「え……か、快斗に……?」
突然快斗の名前が出て、花梨は面食らってしまう。
ヒロの前で快斗の話をしたのは、自分の身に起きた出来事を伝えたときのみ。
そのときしか快斗の名前は出していないというのに、なぜ。
どうして、今、快斗の名前が出てきたのだろう……。
花梨が快斗と付き合っていたことは、降谷たちからヒロも聞いて知っているのだろうが、二人が顔を合わせたことはないはずだ。
……ヒロの意図がわからない。
「ああ、元の姿に戻ったんだから、会いに行けばいいんだよ。彼なら、君の運命くらい、あっさり盗んでくれるさ」
「えっ、で、でも……」
(運命を盗むって……どういう、こと……?)
“盗む”という表現。それはいったいどういう表現なのだろう……。
彼は手品をするけれど、盗みなんかしたことはなかったはずで……。
花梨の中の快斗は、明るく、ちょっと強引だけれどマメで、すこしエッチで、自分を引っ張ってくれる優しい人だ。
確かに心は盗まれてはいるかもしれないけれど、“運命まで盗む”ってどういう例えなのだろう……と、花梨はヒロの言葉選びが不思議で仕方なかった。
「君は、六月中に自分が死ぬと思って、命を投げ出そうとしたんだろう? でも、きっと明日は何事もなく過ごせるよ。俺が保証する。七月一日になれば、君は『死の運命』から解き放たれるんだ」
「……そ、そうでしょうか……」
「花梨ちゃんのお母さんは、そこまで視てなかっただけなんじゃないかな?」
「それはどうだろう……母の占いが外れたことは……うん……でも、そう思っていたほうが素敵ですね♡」
こんなとき、花梨はいつでも“こうだったらいいな”と思うほうを選ぶ。
自分を励ますヒロに柔らかく微笑み、快斗を想うと胸がドキドキと高鳴った。
彼には、もう嫌われてしまっているかもしれないけれど、せめて、謝罪はしたい。「黙って逃げてごめんなさい」――と。
もし、もう一度だけあの温かい腕に抱きしめてもらえるなら、この引き裂かれた世界の真ん中で、今度こそ彼の名前を呼びたい。
その結果、本当に嫌われてしまったら、悲しいけれど、彼の気持ちを尊重して諦めればいいのだから。
でも、それはきっと自分のエゴだ。
それでも、あと一目会えたらそれだけで。
「だろう? さあ、じゃあ今日は、黒羽君に会いに行く前に、英気を養うためにのんびり過ごそう。この家で七月一日を迎えたらゴールだ!」
ヒロもわかっている。
花梨から離れたのだから、快斗に会いに行くのが気まずいことを。
だから、まずは元気をフルチャージし、彼女を笑顔で送り出してやるのだ。
きっと快斗は花梨を受け入れる。
花梨が想うよりも、ずっと深く、彼は彼女を想っているのだから。
……激しく怒るとは思うけどね……と、ヒロの警察の目は、快斗の性格を正確に分析していた。
「わぁ~、私、のんびり大好き~♡ 丸一日ゲームしてる~♡」
「そうこなくっちゃ!」
ヒロの快活な声に、花梨は「えへへ」と照れくさそうに笑った。
彼のシャツの大きな袖をパタパタとさせながら、ベッドの上で自分の手足を何度も確認する。指先の節、腕の長さ、そして胸元に感じる確かな自分の鼓動。
(……生きてる。私、本当に、明日を迎えられるんだ……)