▽前回のあらすじ
7月1日の朝、花梨は再び6歳の姿に戻ってしまう。絶望とパニックの中で転倒し、左腕を骨折した彼女は、不自由な子供の肉体という檻を痛感して涙を流す。ヒロは無力さに打ちひしがれながらも彼女を抱きしめ、二人はあまりに残酷な七月の始まりを迎える。
第227話
ヒロパパ!
◇
花梨が骨折して、一週間が経った。
梅雨のジメジメとした空気が、小さくなった花梨の体力を地味に削っていく。
気温が低ければいくらかましだったが、この日は朝から気温が跳ね上がり、ひどく蒸し暑かった。
「暑い……あぁぁああああ~~」
「ごめんな、まさかこのタイミングでエアコンが故障するとは思ってなかったよ、はははっ」
花梨とヒロは、リビングで作業するエアコンの修理業者の前で、扇風機を回しながら壊れたエアコンが復活するのをじっと待っていた。
扇風機にぴったり張り付いて声を上げ続ける花梨の、美しい白い髪が、前方からの強風に後ろへ流れるように舞っている。
風で声がビブラートのように震えるのがおかしくて、ヒロは笑いながら、よく冷えたアイスコーヒーを三つ、トレイに乗せて持ってきた。作業中の業者の分も用意していたようだ。
「花梨ちゃん、バニラアイスがあるけど、コーヒーフロートにするかい?」
「それ、おいしそうっ♡ お願い!」
「はいはい。じゃあちょっと待っててね。――あ、アイスコーヒー、良かったら飲んでください」
ヒロは花梨のグラスを一度下げると、作業中の業者にアイスコーヒーを手渡した。
「あ、すみません、ありがとうございます!」と、業者はキンキンに冷えたグラスを受け取り、一気に飲み干してほっと一息つく。
作業はあと三十分ほどで終わるのだそうだ。エアコンが復活すれば、やっとこの不快な蒸し暑さから解放される。
「花梨ちゃん、終わったらお風呂に入ろうか」
「うん! 私、汗だく。ギプスの中も痒いし」
花梨の白い額には、じっとりと汗が浮いていた。
「早く取れるといいね」
「うん――!」
花梨が骨折してからというもの、彼女は一人で風呂に入れなくなってしまった。左腕を濡らすわけにはいかない以上、ヒロが入浴を手伝うしかなかった。
初めこそ、凄まじい葛藤に苛まれていたヒロ。
だが、心を完全に無にすれば、どうとでもなるもので……。
そもそも、目の前の花梨は今、見た目は完全な幼児だ。意識するほうがよっぽどおかしい。
……そう、自分を無理やり納得させて。
(黒羽君にバレたら確実に命を狙われるよなぁ……いや、零たちにだってバレちゃダメだろ、これ……)
二人きりの秘密の同居生活。絶対に周囲に露見しないようにしなければ、色々な意味で社会的に終わる。
(そもそも俺、ちゃんと目隠しをしてるし! 完全に不可抗力でしょ!)
ここ一週間、風呂場では決まって心の中でこんな言い訳を繰り返し、その後は決まってこんなやり取りになる。
『ヒロお兄ちゃん、シャワー流して~!』
『はーい! 湯加減はこれでいいかな?』
『もうちょっと右に揺らして~』
『はいはい』
花梨に呼ばれては、ヒロがシャワーヘッドを持ってあげたり、小さな背中を洗ってあげたり、頭の泡を丁寧に流してあげたりするのが、すっかり日課となっていた。ヒロは今日も入浴の手伝いをする予定だ。
絶望に打ちひしがれていたあの日から、花梨は少しずつ、新しい日常の中に落ち着きを取り戻しつつあった。
相変わらず夜になれば、一人ベッドの中で快斗を想い、静かに泣いているようだが、日中に無理をして笑っているような様子は見られない。そこだけが救いだった。
「アイスおいし~♡ お昼は冷やし中華がいいなぁ~。私、玉子焼く~! お風呂入る前にお腹空いちゃった」
「ふふふ。いいけど、冷たいものばかりはお腹を壊すよ?」
「じゃあ、ざるそば~!」
コーヒーフロートをきれいに完食してご機嫌な花梨は、キッチンにグラスを持っていくと、コト、とシンクに置いた。そのままトテトテと冷蔵庫に向かう。
……小さな身体では中が見えないため、よいしょと踏み台を持ってきて扉を開け、「付け合わせに何を作ろうか」と小さな腕を組んでいる。
「いや、それも冷たいやつじゃないか……って、そういえば信州そばをもらったんだった」
「信州そば……?」
「そう、この間、ちょっと長野に行っててね」
ヒロは遅れてキッチンへやってくると、吊り戸棚から、先日多紀からお土産にと渡された信州そばの箱を手に取った。
「あ! そのお蕎麦好き! お婆さまに貰ったの? 私、食べたことあるよ」
「そうなんだ?」
「茹でるなら私にまかせて!」
蕎麦の箱をヒロから奪わんばかりに、花梨が小さな手を伸ばす。
踏み台の上でぴょんぴょん跳ねる姿があまりにも可愛くて、ヒロは「くっ……!」と内心で激しく悶絶した。愛おしくて仕方がない。
つい父親のように顔が綻んでしまったが、元の十六歳の姿のときでさえ心配だったのに、こんな小さな彼女にガス台を使わせるわけにはいかない。
まして、今の花梨は骨折中――。
「頼もしいなぁ。でも君、今は骨折してるし危ないから、火を使うのは俺がやるね」
「えー、じゃあ私、他のお手伝いする~!」
そんな微笑ましいやり取りを繰り広げているうちに、タイミングよくエアコンの修理が完了した。
さっそくスイッチを入れ、室内に広がる涼しい冷気に嬉しそうに当たっている花梨をリビングに残し、ヒロは業者を玄関まで見送る。
「娘さん、かわいいですねぇ」
「あ、あははは……。はい、可愛い盛りで……」
(俺……結婚もしてないし、彼女もいないのに……娘……娘、か。いや、違うだろ。俺はただ、事情があって彼女を預かっているだけで――)
自分では年の離れた兄妹のつもりだったのだが、初対面の業者から見た二人の空気感は違ったらしい。完全に父親だと思われているようで、ヒロは「弱ったな」と苦笑しながら頭の後ろをかいた。
「じゃあ、お父さん、将来お嫁に行くときは大泣きだね」
「嫁……ははは……本当ですね。まあ、嫁に出す気は当分ありませんけどね」
たとえ花梨が妹であっても、娘であっても、どこの誰ともしれない男に嫁にやることなど当分できない。
たとえ、その相手が彼女の最愛の恋人――黒羽快斗だとしても、だ。
愛想笑いを浮かべながらも、ヒロのその返答の眼光は完全に真顔だった。
「アハハハ! うちにも娘がいるんで、わかりますよその気持ち!」
「あ、いえ、そういうのではなくて――」
「では、また何かありましたらご連絡ください! ありがとうございました!」
「ありがとうございました……」
パタン、と静かに扉が閉じ、業者が帰っていく。
「どこの馬の骨ともわからない奴に、花梨を嫁にやれるか」
薄暗い廊下をキッチンへ戻りながら、ヒロはぽつりと不機嫌そうに呟いた。
(……いや、相手はあの怪盗キッドだったな。馬の骨どころか、国宝を毎度のように掠め取る大泥棒か。お付き合いはともかく、嫁は――余計に許可できるわけがない)
公安の警察官としての理性と、胸の奥で急速に芽生え始めた『父親』じみた独占欲が、脳内で静かにパチパチと火花を散らす。
けれど、キッチンへと戻った瞬間、ヒロの思考は別の意味で停止した。
花梨が、小さな身体を硬直させ突っ立っていたのだ。蕎麦の箱を前に、乾麺の袋を一袋手にしたままで。
「花梨――どうかした?」
「こ、これ……」
「……どれ?」
ヒロは花梨の後ろから、そっと箱の中身を覗き込む。
「うわ」
思わず、短い声が出た。
乾麺の袋の間から覗いていたのは、あからさまに分厚い、本物の札束。それも、麺の袋の数と同じく、きっちり五つも詰め込まれている。
多紀が寄こした土産は、由緒正しき白河からの贈り物にしては随分と気軽なものだな、と始めは内心で思っていたのだ(非常に失礼ながら)。
「なに、このお金……」
「多紀さんに貰ったんだよね……これ」
「お婆さまから……?」
「……はぁ……あの人、本当、怖いな……」
箱の中身をすべて取り出すと、木箱の底には、ゾッとするほど達筆な文字で“See you again”と書かれていた。
この大金で「うちの花梨を頼んだよ」ということのようだ。しかも、必要ならいくらでも追加で送る、という無言のプレッシャーすら感じる。
もし、あの日、長野でお土産を渡されたあの時点で、花梨が小さくなることも、ここで二人きりの生活が始まり、長期化することも、すべて視えていたのだとしたら――。
そう思ったヒロは、ぶるりと身体を震わせた。