▽前回のあらすじ
久しぶりに登校した快斗は、学校全体が花梨の「イギリス留学」という嘘を本物の現実として受け入れていることに驚愕する。担任の黒瀬からも冷たく突き放され、世界から取り残されたような恐怖を抱いた快斗は、別の真実を求めて米花町の毛利蘭の元へ走り出す。
第230話
ちらつくノイズ。
信号が青に変わる。
周囲の歩行者が一斉に歩き出す中、快斗の目に、一台のトラックが強引に右折してこようとする光景が映った。その先では横断歩道の真ん中を、腰の曲がった白髪の老婆がふらふらと歩いている。
「あ、危ねぇ……!」
考えるより先に身体が動いていた。
快斗は人混みを掻き分け、老婆の元へ滑り込むと、その細い腕をそっと支えた。トラックは短いクラクションを鳴らし、彼らを避けて通り過ぎていった。
「お婆さん、大丈夫? 危ないよ、ほら、こっち」
「おや……悪いねぇ……」
皺だらけの顔を上げた老婆は、年齢の割に妙に艶のある、底知れない瞳で快斗を見上げた。
快斗はその腕を引きながら、ゆっくりと歩調を合わせて横断歩道を渡り始める。
だが、その瞬間だった。
繋いだ手のひらから、ゾワリと、頭のてっぺんまで突き抜けるような、
(……っ!? なんだこれ……。なんか、ぞわぞわすんな……)
ただの年寄りのはずなのに、まるで全身の細胞が「逃げろ」と警報を鳴らしているかのような――誰かに見られている感覚。
快斗が冷や汗をにじませているその裏で、老婆――変装した白河多紀は、繋いだ手から快斗の深層意識(記憶)を、じっくりと覗き込んでいた。
「世間じゃ、近ごろの若者が冷たいって言うけど、あんたは優しい、いい男だねぇ……」
多紀の脳裏に、快斗の記憶が流れ込んでくる。
(おや……このボウヤ、頭で考えて動いてるんじゃないねぇ。心が限界を通り越して、身体の方が先に駅へ走っちまっていたのか……)
江古田の誰もが花梨の嘘に染まる中、孤立したこの少年の深層心理は、ただ一つ、彼女の残り香がある『帝丹高校の毛利蘭』の元へ、理屈を捨てて狂うように進もうとしていた。
(哀れだねぇ……。けど、それほどまでにあの子を……)
次第に見えてくるのは、愛孫――花梨の姿だ。
水族館でクラゲを嬉しそうに見つめる顔、頬を真っ赤にして照れる顔、快斗の隣で弾けるように笑う顔。どれもこれもが、眩しいほどの色彩に満ちている。
(……なるほど、ボウヤはあの子の最愛ってわけかい。記憶の中が、あの子の笑顔ばっかりだよ……。……おや? けど、おかしいねぇ……)
多紀は心の中で首をかしげた。
花梨の記憶を追う過去視の最中、不自然な“ノイズ”が混ざる。
月光の下、白いハットのブリムを掴む手袋を嵌めた手と、風に翻るマント。すべてが白く、夜空を滑空するシルエットだけが黒く、闇に紛れている。
……これは、いったいなんの記憶なのだろうか。
覗き込もうとしても、強烈な拒絶反応が働き、霧がかかったように視界が遮られてそれ以上見えない。
(こりゃあ……あの子が何か細工をしたね? この『白い』部分だけ、あたしの目からも隠そうとしてる。……ふふ、あたしの眼を誤魔化すとはね。さすがは白神子様というわけかい……我が孫ながら恐ろしい力だ。けど、それだけこの男を守りたかった――か。雪音と同じで一途なもんだ)
それが花梨の張った命がけの“言霊”の防壁だと察し、多紀は皺の寄った唇の奥で、くすりと楽しげに笑った。
やがて、二人は横断歩道を渡り切る。
「ふぅ、助かったよ。ありがとうねぇ、優しいお兄ちゃん」
「どういたしまして! 転ばないように気をつけて行ってね」
快斗はどこかホッとしたように、けれどその奇妙な威圧感から逃れるように、ぱっと手を離してひらひらと手を振った。そのまま駅の改札へと歩き出そうとする。
「ああ、気をつけるよ……。――黒羽快斗」
背後から、低く、けれどあまりにも明瞭に響いた声。
それは、さっきまでの老婆の濁った声ではなく、もっと若々しく、艶のある大人の女の声だった。
「――っ!?」
快斗の心臓が、ドクンと跳ね上がる。
(ん? 待て……いま、オレの名前……!?)
名乗った覚えなど、絶対にない。
慌てて快斗が振り返ると――そこには、もうあの腰の曲がった老婆の姿はどこにもなかった。
代わりにいたのは、背中で長い黒髪を揺らし、派手な私服を着こなした見知らぬ美女。
彼女は、振り返った快斗と視線が合うと、悪戯が成功した子供のようにニッと妖しく微笑み、まるで舞台の幕が下りるように楽しげにステップを踏みながら、人混みの向こうへとスキップして去っていく。
「な……なんだ、あの人……!? っていうか、あの婆さんはどこに……」
白昼夢でも見たかのような狐につままれた気分で、快斗はその場に立ち尽くす。
名前を知られていた。
それどころか、あのぞわぞわする感覚……。
間違いない。
あの女も、花梨が巻き込まれている“異常な世界”の住人だ。
キッドとしての直感がそう告げていた。
「……クソッ、やっぱり留学なんて大嘘じゃねえか。花梨……お前、マジでどんな世界に足を突っ込んじまったんだよ……」
快斗は、女が消えていった雑踏を睨みつけながら、ポケットの中で拳を強く握りしめた。
だが、絶望はもうない。不気味な怪異が動いているのなら、自分も“常識”を捨てるだけだ。
怪盗キッドとして、あのボウズから全てを毟り取ってでも、真実を暴く。
快斗の瞳に、鋭い輝きが戻っていた。
ふと視線を落とすと、自分の手には、いつの間にか自動券売機で購入していた“米花町”までの切符が握りしめられていた。
心が限界を迎えていた証だった
快斗は、その切符をじっと見つめ、それから……ふっと自嘲気味に笑って、ポケットの奥深くへと仕舞い込む。
(……あぶねぇところだった。あの女みたいなヤベェ奴が裏で動いてるんだとしたら……一般人のあの子(蘭)をこれ以上巻き込むわけにはいかねぇ……!)
もし毛利蘭のところへ行けば、彼女の日常までこの悍ましい闇に引きずり込んでしまうかもしれない。それは、花梨だって絶対に望まないはずだ。
快斗は駅の改札へと向かっていた踵を返し、江古田の街へと歩き出す。
……黒羽快斗として蘭に近づくのはやめだ。
常識の世界に別れを告げるように、快斗は雑踏の中へと消えていった。
(待ってろ、花梨。オレが必ず、世界の闇ごと、お前を盗み出してやる)
白銀の羽を広げるその時を、彼の瞳は静かに見据えていた。