▽前回のあらすじ
コナンとの再会を終え、ヒロと帰路につく花梨。歩美たちの勘違いで偽名が「黒羽あおい」になった経緯を明かす。快斗の苗字を名乗る花梨にヒロは苦笑しつつ、彼女が語るもう一人のヒーロー・新一に少し嫉妬して――?
第238話
それはそれ、これはこれ…ってことで。
◇
「はぁ~~、おいしかったぁ~~。ヒロお兄ちゃん天才♡」
「フフ。本当、花梨ちゃんは美味しそうに食べるよね。作り甲斐があるよ」
ヒロのお手製ミートソーススパゲッティをたっぷり食べ、膨らんだお腹をさすりながら、花梨が小さく「けぷっ」と上品にゲップをすると、ヒロは目を細めて、赤くなった彼女の口の周りをウェットティッシュで優しく拭ってやる。
花梨も大人しく顔を上げてされるがままだから、その無防備さが、ヒロには可愛くて仕方がない。
ただただ、癒やされ、穏やかな時間が流れていた。
「だって! 本当においしいんだもん!」
「神子姫さまにお褒めいただき、光栄だよ。ありがとう」
(あー……この瞬間癒されるなぁ……)
隠遁生活中だというのに、花梨に癒される毎日。
なんだかもう、元の殺伐とした生活に戻れない気がしてくる……。
ヒロは、密かに仕事への完全復帰はもう少し先に延ばせたらなと、不謹慎にも思ってしまう。
(零たちには、本当に悪いとは……思ってるんだけどね)
降谷たちに、花梨の所在や現在の状況を伝えることができないことに罪悪感はある。だが、彼女とのこの温かい疑似家族生活は、何物にも代えがたいほどに愛おしかった。
「ご飯食べたら、お風呂に入ろうか」
「うん!」
花梨の腕の骨折もあって、すっかり慣れてしまった二人での入浴。
もちろん、ヒロは目隠しをしたうえで、シャツにパンツというラフな格好のまま、入浴補助をしているだけだ。花梨が上がってから、自分が入る。
父親役としてずいぶんと板についてきたなと思う、今日この頃。
いつか彼女が元の姿に戻ったら――。
それはもちろん喜ばしいことだけれど、少しだけ寂しいかもしれない。
食べ終えた皿を一生懸命シンクに運んでいく花梨の後ろ姿を、ヒロは優しい瞳で見守った。
「ふぅ……」
「ヒロお兄ちゃん、はい、お水!」
ヒロが風呂から上がると、先に上がっていた花梨が、小さな踏み台を冷蔵庫の前に置き、中から冷たい水のペットボトルを取り出して、ぴょんと下りてパタパタと駆け寄ってきた。
首に白いタオルを掛けた花梨が差し出したペットボトルを受け取り、ヒロはにっこりと微笑む。
「ありがとう。……うん、冷たくて気持ちいい」
頬にペットボトルが触れると、風呂で火照って熱くなった顔が冷えて心地いい。
「ふぅ」と一息ついてから、ヒロはキャップを開けてボトルを傾けた。
ゴクゴクと音を立てて水を飲むたび、大人の男らしい喉仏が上下して、花梨はその喉仏をぼうっと見上げる。
(ヒロお兄ちゃん……男の色気っていうの……? なんか、すごい……かも。ちょっとドキドキしちゃう…………って、えっ? 私、今はちびっこよ!? そんなこと思うのは変だよ!?)
なんだか急に気まずくなって、花梨は慌ててヒロから目を逸らした。
だが、すぐに頭上から優しい声が降ってくる。
「花梨ちゃんは、いい奥さんになりそうだね」
「ん? そうかな?(奥さんかぁ……)」
「うん、フフフ。だけど、髪はちゃんと拭かないとね」
ちらっと見ると、花梨の濡れた白い髪から水滴が滴っていた。
ヒロは自分の肩にかけていたタオルを、花梨の小さな頭に優しく被せる。
「え? あっ!」
「君はうっかりしてるからなぁ。この間のように風邪を引いたらどうするんだい?」
「ごめんなさぁい!」
花梨はさっきまで、今夜新一に電話することで頭がいっぱいで、首に掛けたタオルのこともすっかり忘れ、髪を拭くのを完全に忘れていた。
ヒロに優しく髪を拭かれ、その後、ドライヤーも丁寧にかけてもらい、すっかり寝る支度が整った。
「ありがとう、ヒロお兄ちゃん!」
「どういたしまして。フフ、今日も可愛いね」
「あ……えと……えへへ……。褒めてくれて、あり、がと……♡」
お気に入りのネコ模様のパジャマに袖を通し、花梨は大きな白猫の抱き枕をぎゅっと抱えている。
――うちの娘は、今日も世界一可愛い。
そんなことを思いながら、ヒロは今日何度目かわからない「可愛い」を口に出し、照れる花梨の前で満足げに頷いた。
「そろそろ、電話するのかい?」
「うん! ちょっとしてくるね! 向こうのお部屋、借りるね!」
花梨はスマホを手に、ヒロが仕事部屋として使っている、防音に優れた部屋へとパタパタと駆け出す。
それを、ヒロは少しだけ寂しそうに引き留めた。
「あ……俺は、聞かないほうがいい?」
彼女がどういう話をするのか、知りたい。
何か役に立てるかもしれないから、情報を共有しておきたい。
……そう思ったヒロ。
花梨は足を止め、迷うように目を彷徨わせる。
「あ、ご、ごめんなさい……あの」
コナンとの電話では、重要な部分は話せない。
ただ、コナンが新一であることがもし話題に出てしまうと、ヒロにそのことが意図せずばれてしまう。
ヒロを除け者にしているわけではないが、どう言えば角が立たないのだろう……花梨は抱き枕を抱える小さな腕にきゅっと力を込めた。
そんな花梨の困惑を察して、ヒロはといえば。
「……いいよ。けど、いつか話してくれるとうれしいな。俺は何があっても、君の味方だから」
「ヒロお兄ちゃん……うん。コナンくんにOKをもらったら話すね!」
「ああ」
どこまでも優しい微笑みで、花梨を防音室へと送り出す。
……防音室の重い扉が、静かに「パタン」と閉じた。
警戒心の強い彼女に、まだ完全に信用しきってもらえていないのだと少しだけ寂しく思ったヒロだったが、それでも彼女を守りたい気持ちに変わりはなかった。
「俺は、花梨ちゃんを信じてるから」
花梨が戻るまで、ヒロはソファに深く背を預け、テレビの画面に目をやることにした。
……その頃、ヒロの仕事部屋に入った花梨は。
「……新ちゃん。驚いてたな……」
カチャリと防音室の重い扉を閉め、完璧な静寂に包まれた空間でぽつりと呟く。
デスクの椅子に小さな身体でちょこんと腰掛け、花梨は、今日交換したばかりのコナンのIDをじっと見つめた。
小さな指先で画面を慎重にタップし、まずは短いメッセージを送信してみる。
“黒羽あおいです。コナンくん、今、お話できる?”
「ふぅ……。新ちゃんにメッセージ送るだけで、こんなに緊張しちゃうって変なの……」
同じ病院で生まれて、幼い頃はそれこそ寝食を共にした気心の知れた幼なじみ。
今まで、工藤新一という男に連絡を入れるのに、緊張したことなど一度もない。
けれど、お互いに普段とは違う偽名を表示しているせいだろうか。ほんの少しだけ胸の奥がくすぐったく、ちょっぴり新鮮な気持ちだった。
花梨が小さく息を漏らした、その瞬間――。
ブーッ……ブーッ……ブーッ……。
手元でスマートフォンが激しく震えだし、静かな部屋にバイブレーションの音が鋭く響き渡る。
「あっ、わぁっ!? あ、新ちゃん!!」
メッセージの既読がついた瞬間に折り返してきたらしい、驚異的なレスポンスの早さに、花梨は声を上げた。画面に表示された名前は――“江戸川コナン”。
花梨は慌てて通話ボタンをスライドさせ、スマートフォンを耳に当てた。
「も、もしもし。こちら、葵花梨改め、黒羽あおいです」
『…………花、梨……か?』
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、昼間の取り乱した声ではない。
普段より少し低く抑えられた、真剣なトーンだった。
「……うん。私、花梨だよ。新ちゃん」
『っ、はぁー……夢じゃねーんだな?』
「うん……夢じゃないよ」
『けど、お前……小さく……』
電話の向こうから、新一がこれまでの探偵としての冷徹さを一瞬忘れたような、小さな息を呑む音が聞こえる。
「ん……そうなの」
『……APTX4869』
「アプ……APTX4869?」
聞き覚えのない英数字の羅列に、花梨は小首を傾げた。
『お前が飲んだ、薬の名前だ。組織が開発した、死体から毒物が検出されない未完成の試作型毒薬……』
「飲んだ? 私、お薬なんて飲んでないよ?」
『は? けど、お前のその体、どう見てもあの薬の副作用で……』
「あ、うん。飲んではいないんだけど、注射されちゃって」
『っ、注射!? 液体にして投与されてたってのか!?』
新一の声のトーンが跳ね上がる。自分の時とは明らかに異なる投与方法に、名探偵の脳裏に強い戦慄が走った。
「んと……ジンさんが言うには、その一本だけ、特別に作られたって……」
『ジンさんって……お前っ! なんで奴に敬称なんか付けてんだよ!?』
緊迫した空気を一瞬でぶち破る新一の鋭いツッコミに、花梨は「あ」と口元をギプスからちょっぴり出た指先で押さえる。
「え……あ、えと、私、基本的に誰にでも敬称を付けて呼んでるんだけど……」
『おかしいだろっ!! あいつは冷酷非道な組織の幹部で、オメーをそんな目に遭わせた張本人、紛れもない敵だぞ!?』
鼓膜が破れそうになるくらいの新一の怒鳴り声に、驚いた花梨は思わずスマホを耳から遠ざけた。
新一が少し落ち着いたのを見計らい、また恐る恐る耳にスマホを当てる。
「え……? えと……うん。敵……だね? でも、うん。それはそれっていうか……」
(ジンさん、結局、私を殺さなかったし……ね)
もちろん、ジンが冷酷非道なことは花梨もわかっている。ジンの持つ、あの冷たい気配だけで神経が擦り減り、生きた心地がしなかった時もあったのは確かだ。
けれど、新一が激昂する気持ちはわかるが、ジンとわずかな期間でも奇妙な同居生活を送り、最終的に彼がヒロに自分を託してくれたことを思うと、花梨としては、少々複雑な気持ちだったりする。
新一には、ジンと同居していたことまで話すとさらにパニックになりそうだと判断し、今はその事実を胸の奥にそっと隠しておくことにした。