▽前回のあらすじ
幼児化した花梨の「入浴事情」を知り、猛り狂う新一。大人の声でヒロへと直接問い詰めるが、保護者としての確固たる意志と大人の余裕で返り討ちにあってしまう。一方、そんな二人のやり取りの裏で、ヒロの仕事用携帯に不穏な着信が入り――。
第240話
いつか、幼少期EPも書いてみたいですねぇ。
◇
防音室に戻った花梨は――。
『バーロ! 女子高校生が、成人男性に風呂に入れられてるっておかしいだろうが!! 事案だぞ、事案! オメーってやつは、倫理観どうなってんだよ……ほんっと、そういうズレてて危なっかしいとこ、昔から放っておけねえんだよ!!』
スマホ越しでも唾が飛んできそうな勢いで、新一の怒声が響いた。
花梨は、耳からスマホをそっと遠ざける。
新一からすれば、保育園のとき、花梨が知らない大人について行こうとしたところを、何度止めたかわからない。
善意の裏に悪意が隠されていても、彼女はそれを疑うことはしないのだ。
それは、今でも変わらないのかもしれない。常に命を狙われているくせに、本人の警戒心が薄いのは本当に厄介である。
「ね、新ちゃん、そんな怒鳴らなくても……。ただ、一緒にお風呂入っただけだよ? 新ちゃんとも入ってたじゃない? 洗いっこしたよね?」
『バッ、バーロ! ガキの頃の話だろっ!! あんときはオメーのこと、男だと思ってたんだから仕方ねーだろ!』
「私、今は子どもだよ? 六歳くらい!」
『それが大問題なんだよ! オレがこうやって叱らねーと、誰がオメーを叱るんだよ!!』
電話の向こうで、新一の怒声は防音室の静寂を揺らし続ける。
それは決して突き放すようなものではなく、幼なじみを心から案じるがゆえの、彼なりの不器用な過保護だった。
「ふえぇぇ……。だって、腕折れてるんだもの、不可抗力なんだってばぁ……!」
『言い訳すんじゃねぇ! さっさとその腕治して、次からは一人で入れ!』
「え~、ヒロお兄ちゃん、髪洗うの丁寧で気持ちいいのに……やってもらうと楽チンなんだよ~?」
『バッカリン! 返事は!?』
「は、はいっ!!」
あまりの剣幕に、花梨は思わず直立不動になって小さく返事をしてしまう。
新一は呆れたように盛大なため息をつくと、少し声を落として、どこか探るように別の名を口にした。
『……ったく。黒羽だってよ、この事実を知ったら絶対キレんぞ……』
「あ……。えと、快斗とは……お別れしたから……」
その名が飛び出した瞬間、花梨の声音がふっと寂しげに震えた。
『は……? ……そう、なのか? けどあいつ、お前を探してオレに……』
“江戸川コナンじゃない、工藤新一の番号に電話かけてきたんだぞ……?”
喉まで出かかったその言葉を、新一は間一髪でグッと呑み込んだ。
あの鼻持ちならない黒羽が、プライドも何もかもかなぐり捨てて、必死に花梨の手がかりを求めてきたあの夜の記憶が、探偵の脳裏によぎる。
「うん……私、快斗の前から黙って姿消しちゃったからね。それに、もう、今の姿じゃ一緒にはいられないや」
『花梨……』
「快斗を巻き込みたくないもの……」
大切な人を、組織の悍ましい闇に引きずり込みたくない。
それが、花梨の出した結論だった。
『…………そう、だな……黒羽のやつ、身のこなしはそれなりだけど、中身はただの一般人だ。組織と関わったとあっちゃ、あいつの身にも危険が及ぶ。オメーの判断は間違っちゃいねぇよ……』
「うん……」
『…………で? いつオレに会いに来るんだ? それとも、オレからそっちのセーフハウスの近くまで行くか?』
「えっとね――」
具体的な再会の約束を交わそうとした、その時だった。
カチャ。
静かな防音室の扉がわずかに開く。
軽く扉を叩く音とともに、「花梨ちゃん」とヒロの穏やかな声が聞こえた。
「あ、新ちゃん、ちょっと待って。ヒロお兄ちゃん、何かご用みたい」
『わかった。待ってる』
花梨はスマホを手にしたまま、トトトッと扉に駆け寄ってゆっくりと開ける。
「どうしたの?」
「花梨ちゃん。明日から三日間、出かけることになったんだ。急で申し訳ないけれど、準備しておいてくれるかな?」
「え?」
ヒロの予想外の言葉に、花梨は目を丸くした。
「検査入院だってさ。花梨ちゃんをこの家に一人で置いておくわけにはいかないからね。病院の個室に、君の分の簡易ベッドも用意してもらえるよう手配したから、一緒に行こう」
「あ……わかった。じゃあ、コナンくんに会うのはそのあとにするね」
「うん、予定を変更させてしまってごめんね」
ヒロは少しだけ疲れたような、けれど優しい笑顔を花梨に向けると、それだけを言い残してリビングへと戻っていった。
先ほど鳴り響いた仕事用携帯の「緊急の報せ」が、彼の背中に重い影を落としているようだったが、今の花梨には知る由もなかった。
「……ということなんだけど」
パタンと扉を閉め、花梨は再びスマホを耳に当てる。
『聞こえた。じゃあ、戻ったらまた連絡しろよ。――あ、そうだ。忘れるところだった』
「ん? なぁに、新ちゃん」
『園子のやつ、オメー宛てに、鈴木財閥六十周年記念・船上パーティーの招待状を自宅に送ったって言ってたぞ』
「えっ、園子ちゃんが……? 船上パーティー……」
『ああ、七月十四日に「クイーン・セリザベス号」で行われるやつだ。オレも行く予定だけどな。ま、オメーはそんな身体なんだし、腕も骨折してんだから、大人しく家で留守番してろよ?』
「うん、わかった……ごめんね、新ちゃん。新ちゃんも忙しいのに」
『いいって。いつでもオレを頼ってこい。オメーが呼んでくれたら、オレはいつだってすぐに駆けつけるからよ』
「新ちゃん……」
『おやすみ、花梨。またな』
「うん、おやすみなさい。新ちゃん、またね」
ぷつん、と静かに通話が切れる。
「……新ちゃん、ありがと……」
花梨は通話が切れて黒い画面に戻ったスマホを、愛おしそうに目を細めて見下ろした。
この、ヒロに買ってもらったばかりの新しい端末で、二番目に繋がった人。
ふと、寝室に置いてある、もう電源を入れるつもりのない前のスマートフォンが脳裏をかすめる。
あの時も、新一は二番目に登録された人だった。
前の端末の一番目は、幼い頃に自分を可愛がってくれた工藤有希子。
そして、今回の新しい端末の一番目は、命を救ってくれたヒロ。二番目が、
そして――快斗の連絡先は、何番も後ろに登録されていた。
すぐに見つけられないくらい後ろの方。けれど、花梨にとっては、誰よりも、何よりも大事な特別な人。
(……でも、こっちの新しい端末には、快斗のIDは登録できないんだなぁ……)
繋がってしまえば、声を聞いてしまえば、きっと自分の決意が鈍ってしまうから。
花梨はそっと目を閉じ、胸元で静かに鈍い光を放つネックレスを、小さな手で壊れ物を扱うように握りしめ、誰にも届かない小さな声を漏らした。
「快斗、おやすみなさい……いい夢を見てね……」
ふと窓の外を見上げると、夜空には黄金色の月が浮かんでいた。
日々、少しずつ削られるように細くなっていくその月を見つめていると、まるで快斗の存在そのものが、自分の世界から遠くへ消えていってしまうような錯覚に囚われる。
込み上げる切なさと寂しさに耐えかねるように、花梨の美しい金色の瞳から、一筋の透明な雫が静かに、ぽつりと零れ落ちた。