▽前回のあらすじ
ヒロの定期検査が終わり、結果を待つ二人は隣のベッドのお婆さんと交流する。だが花梨はお婆さんの悲しい未来を視てしまい、ヒロは機転を利かせて家族を呼び出す。その後、テレビに映った怪盗キッドの姿に花梨の魂は激しく締め付けられ、正体を知らぬまま釘付けになるのだった。
第242話
今、花梨の中では……。
◇
「おまたせ、すべての手続きが終わったよ。さあ、行こうか」
「うん! パパ、おつかれさま~!」
お世話になったお婆さんに丁寧に挨拶をして、病室を後にした花梨とヒロは、一階の受付で退院手続きを滞りなく済ませると、自然にどちらからともなく手を繋いだ。
ここから最寄り駅までは、歩いて二十分ほどの距離。心地よい午前の風が吹く中、二人は並んでのんびりと歩き始めた。
「……ねえ、花梨ちゃん。この前、工藤君と電話したとき、パーティーの招待状の話をしていただろう?」
「あ、船上パーティーの? 新ちゃんが、私の自宅のポストに届いているはずだって……言ってた話のこと?」
隣を歩くヒロの少し探るような声に、花梨は顔を上げて、長く白い睫毛をぱちぱちと上下に揺らした。
「そうそう。せっかく招待状をもらったんだし、明日の船上パーティー、俺と一緒に内緒で行ってみないかい?」
「え? でも、私、今の姿……こんなだよ?」
(どう見ても、ただのちっちゃな子供なのに……?)
花梨は思わず自分の小さな身体を見下ろす。以前よりも遥かに視線が低くなってしまった世界からヒロを見上げて、上を向きすぎて少し首が痛いな、と思った。
それに、まだ骨折だって完全に治りきっていない。
新一にも電話で「オメーはそんな身体なんだし、腕も骨折してんだから、大人しく家で留守番してろよ?」と釘を刺されたばかりだというのに、こんな子供の姿で勝手に行って、本当に大丈夫なのだろうか……。
「せっかくの豪華客船のパーティーだよ? 少しは息抜きに楽しんでみるのもいいんじゃないかな。世界各国の美味しい料理もたくさん出るだろうから、俺が作る料理のレパートリーも増やせるかもしれないし」
「世界各国のお料理……?(き、気になるかも……)」
ごくり。思わず花梨の喉が小さく鳴る。
「……それに、うまくすれば、怪盗キッドにだって会えるかもしれないよ?」
「え、キッドさんに……? でも、私、別にキッドさんに会おうだなんて思ってないけど……」
花梨はヒロの言葉の意図がどうしても掴めず、不思議そうに首をかしげた。
(どうして、ヒロお兄ちゃんはキッドさんの話をしたの……? 別に、テレビで見ただけで、そこまで興味があるわけじゃないのに。……あ、でも、確かあの人、手品をするんだっけ……?)
“手品”、というワードが脳裏をよぎった瞬間、胸の奥がキュッと切なく痛んだ。
手品をするだなんて、まるで大好きな快斗のようだ。
けれど、今の花梨は、少しでも快斗に繋がってしまうようなものには極力触れたくなかった。
きっと、何を見ても、どんな些細なことでも、快斗のことばかりを思い出してしまいそうで……自分が保てなくなってしまうから。
「本当に? 会いたくないのかい?」
「うん。だって、キッドさんって、明日はお仕事で来るんでしょ?」
怪盗キッド――世間を騒がせる彼は、本物の泥棒だ。
派手な予告状を出したのだから、明日は鈴木財閥の宝物を盗むために、あの船へやってくる。
それが、あの人にとっての“お仕事”……。
花梨には、それをわざわざ邪魔したり、止めたりする気は毛頭ない。
新一が船上パーティーに行くと息巻いていたから、たぶん、探偵として彼を捕まえるつもりなのだろう。
怪盗キッドがどれほど世間を騒がせる大怪盗だとしても、善悪の垣根が人一倍曖昧な花梨にとって、彼に対してこれといった悪感情はない。
新一が捕まえるにしろ、彼が鮮やかに逃げ切るにしろ、自分にはまったく関係のないことだから、わざわざ首を突っ込んで邪魔をするつもりはないのだから。
「…………花梨ちゃん? 君は本当に、キッドのこと……」
ヒロは繋いだ手から伝わってくる、あまりにも平然とした彼女の体温に、戸惑いを隠せなかった。
さっき病室のテレビ画面で、あんなにも愛おしそうに、切なげにキッドの姿を見つめていた彼女のあの反応は、一体なんだったのだろうか。
キッドの話題がこれだけ出ているというのに、今の彼女は顔色一つ変えず、視線一つ動かさない。
(あれ? おかしいな……。花梨ちゃんは確か、彼の正体を知っていたはず――だったよな?)
以前、花梨のマンションのベランダに、怪盗キッドが滑り込んできたあの夜、彼女が嬉しそうに彼を部屋に招き入れた場面を、ヒロは物陰からはっきりと目撃している。
あのときの花梨の、世界で一番幸せそうな、とろけるような甘い笑顔が今も鮮烈に焼き付いて離れない。
それなのに、なぜ今の彼女は、何の関係もない他人のように、知らない振りをしているのだろうか。
その翌日には、花梨と快斗が親しげに手を繋ぎ、仲良くマンションから出てくる姿だって目にしているというのに。
(もしかして……俺が黒羽君の正体を知らないと思って、わざととぼけているのか……? それとも、大好きな彼を危険な組織の件に巻き込みたくなくて、あえて他人の振りを……?)
花梨の頑なな態度に、ヒロの脳内で違和感がどんどん膨れ上がっていく。
「キッドさんは、お仕事で来るんだから、邪魔しちゃダメだと思う。でも……できれば、園子ちゃんの家の大切な宝石は、盗まないであげて欲しいなぁ……。園子ちゃん、泣いちゃうかもしれないし」
「花梨ちゃん……君、黒羽君に会いたくないのかい?」
「えっ、快斗!? あ、えと……それは、もちろん会いたい……けど。でも、ダメだよ。私と会ったら、快斗にまで危険が及んじゃうもの」
「…………そっか」
快斗の名前を出した瞬間に、花梨の瞳に宿った本物の切なさと、怯え。
その反応を見て、ヒロはハッと息を呑んだ。
(……でも、おかしい。記憶を失っているのなら、どうして黒羽君のことはしっかり覚えているんだ……?)
知らない振りをしている演技ではない。彼女は本気で、キッドの話題と、快斗への想いを「別物」として処理している。
(これは、まさか花梨ちゃん……俺と同じパターンなのか……!? 記憶が……。組織に捕まった時に注射されたっていう、あの未知の薬の副作用で、記憶が部分的に欠落している……?)
キッドが快斗であるという、一番大切な記憶だけが抜け落ちてしまっているのだとしたら、あまりにも残酷だ。
ならば――と、ヒロは彼女の記憶の霧を晴らすため、あえて真っ直ぐに、キッドの正体を告げることにした。
「ねえ、花梨ちゃん。怪盗キッドの正体って、誰だか知ってる?」
「へ? ううん。知らないよ? 世間でも誰も知らないんだよね?」
「実はね……彼の正体は、黒羽快斗君なんだよ」
「えっ…………?」
ヒロの口から静かに告げられたその名前に、花梨はビクリと小さな肩を震わせ、その場に釘付けになったように、動かなくなった。
「…………」
花梨とヒロの横を車が通り越していく。
街の雑音が遠のくような、張り詰めた沈黙がしばし続いた。
繋いだ小さな手から、冷たい汗が伝わってくる。
やがて、花梨はゆっくりと小さな口を開いた。
「……ヒロお兄ちゃん。そういう冗談は、よくないよ。快斗に失礼だよ」
「え……?」
「キッドさんも格好いいとは思うけど……快斗は快斗だもん。キッドさんはキッドさん、だよ?」
「……花梨ちゃん……」
「も~! ヒロお兄ちゃんってば、急に変なこと言うからびっくりしちゃったよ~!? 冗談でも心臓に悪いよ……。って、お願いだから快斗の話題は、あんまり出さないで……? 名前聞くだけで、恋しくなっちゃうから……」
そう言ってヒロを見上げる花梨の大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まり、今にも溢れそうに潤んでいく。
「花梨ちゃん……っ! ご、ごめんね。君を悲しませるつもりじゃなかったんだ。ただ、俺は目撃したことを君に――っ!」
ヒロが焦って弁解しようとした瞬間、花梨がじっと、彼の瞳を鋭く射抜くように見つめた。
その拍子に、溜まっていた大粒の涙が、ほろりと静かに、白い頬を伝って一滴零れ落ちる。
「……ヒロお兄ちゃんのイジワル……!」
「あっ! 花梨ちゃんっ!!」
花梨は繋いでいたヒロの手をぱっと振り払うと、涙を隠すようにゴシゴシと袖で目を擦った。
そして、すぐにいつもの健気な笑顔を無理やり作り直して、ヒロを促す。
「……ほら、も~! 早く行こっ! これから、私の自宅マンションに寄ってくれるんだよね……?」
「あ、ああ! もちろん!」
気まずそうに、けれどどこか花梨の不可解な拒絶反応に深い懸念を抱きながら、ヒロは静かに頷いた。
(神様……花梨ちゃんの記憶を、どうか元に戻してやってくれ……)
セーフハウスでの共同生活の中で、ヒロは何度も目撃してきた。
ほぼ毎日、花梨は一人になると快斗を想い、静かに涙を流している。それこそ、この小さな身体で脱水症状を起こしてしまうんじゃないかと、見ていて不安になるくらいに。
夜は押し殺した声で枕を濡らし、泣き疲れて、まるで気絶するように眠りにつくのだ。
そして、翌朝になれば何事もなかったかのように、目の下を少し腫らしたまま、健気な笑顔を見せてくれる。
そんな彼女の姿が不憫でならなかった。
ヒロにできることは、花梨の言うように、組織の魔の手が及ぶ可能性を考えれば、ほんの少しの間だけでも、同じ空間を共有させてあげることくらいだろう。
……もしも、明日の船上で、快斗が今の小さな花梨に気づいて、そのままかっさらって行ってくれるなら、それもいいとさえ、今のヒロは思っている。
医者から、自分の失った組織潜入時の記憶が戻る確率は低く、望み薄だと言われているヒロだったが、自分のことなどどうでもいい。
ただ、この心優しい彼女の記憶だけは、どうか元に戻るようにと、願わずにはいられなかった。
「ねえ、ヒロお兄ちゃん。お昼ごはん、どっかで食べよう? 私の家のご近所に、すっごくおいしい中華屋さんがあるんだよ」
「中華か……いいね。そうしようか」
今度は先ほどまでの悲しみを振り切るように、ヒロの手をぐいぐいと元気いっぱいに引っ張る、笑顔の花梨。
昼間はこうして一生懸命明るく振る舞う、愛おしい彼女を見下ろし、ヒロは胸の奥に複雑な焦燥感を抱えながらも、ひとまず招待状を回収するため、花梨の自宅マンションへと向かって再び歩き出すのだった。