▽前回のあらすじ
茶木警視の警告を受けて船内がざわめく中、突如として怪盗キッドが現れる。しかし、鈴木朋子の合図でキッドが銃撃され血を流して落下した光景を見た花梨は、過去のトラウマから強いショックを受け、過呼吸を起こしてしまうのだった。
第253話
合い言葉!
「……リン。ゆっくり呼吸してごらん。ふーって、ゆっくり吐いて……」
「っ……?」
「さっきのは――彼じゃないよ、大丈夫だ」
(彼があんな簡単に撃たれるわけないからね……)
ヒロは優しく花梨の背中を撫でながら、人々がざわめくキッドの落下地点へと一瞬だけ視線を向ける。
「……っ……?(どういうこと……?)」
息苦しさによるめまいで気が遠くなりそうになりながらも、ヒロの落ち着いた声に従い、花梨は必死にゆっくりと呼吸を整えていく。
キッドが落下したテーブル付近では、中森警部と朋子のやり取りが聞こえ始めていた。どうやらさっきのキッドは本物ではなく、朋子が雇った天才
「――余興みたいだよ?」
「……っぁ……はっ……はぁ……(余興……?)」
それが芝居だった――と知った瞬間、花梨の喉を塞いでいた詰まりがスーッと消え、正常な呼吸が戻ってきた。
「はぁ……はぁ……」
「……大丈夫かい?」
「ん……はい。ごめんなさい、ヒロさん。私、遺体とか生々しい傷とか血を見ちゃうと、喉が詰まって呼吸が上手にできなくなっちゃって……。さっきのも、キッドさんが本当に撃たれて死んじゃったのかもって思ったら……はぁ……」
反射的に喉が閉まり、うまく息ができなくなってしまうトラウマのような反応。
周りに迷惑をかけてしまうから、いつか自分で克服したいと思っているけれど、そんな簡単に治せるものなのだろうか。
たとえば、殺人事件や緊迫した場に頻繁に遭遇したりでもすれば、荒療治で慣れるかもしれないが、そんな恐ろしい事件に――探偵や警察でもない限り、そうそう遭遇するものじゃないし、できれば二度と遭いたくもない。
「そうだったのか……。これからは気をつける」
「え……? ヒロさんが……?」
「ん……? うん。にしても、さっきの演出はちょっと悪趣味だったよね……」
どうして、自分が発作を起こしたことに対してヒロが「気をつける」なんて言うのだろう。
花梨は不思議そうに小首をかしげたが、ヒロはそれに答えず、ただ優しく微笑むだけだった。
「はぁ……びっくりしたぁ……」
ふいに花梨の頬を一筋の透明な雫が伝っていく。
それは、無事に呼吸ができるようになったことによる安堵の涙なのか、それとも突然の銃撃に怯えた恐怖や、キッドを想っての涙なのか――自分でもよくわからなかった。
「リン……涙が……」
ヒロの優しく温かな親指が、そっと彼女の頬から涙を拭う。
「へっ? あ……な、なんだろう……? ほっとしたからかな? 誰も亡くならなくて本当によかった……♡」
「……リン……」
また一滴、ぽろりと涙を零しながらも、花梨は気丈に、そしてふんわりと柔らかく微笑む。
そんな健気な彼女を、ヒロは愛しげに、少し眉を下げて見守っていた。
「あ! ヒロさん、マジックショーが再開するみたいだよ! 見に行こう?」
ステージのほうでは、真田が中央に立ち、何食わぬ顔でマジックショーを続行しようとしていた。
どうやら次はカードマジックを行うらしい。観客の中に蘭と園子の姿を見つける。
「あ、蘭ちゃんと園子ちゃんだ」
「リンの幼なじみだっていう、あの女の子たちかい?」
「うん。髪が長いほうが蘭ちゃんで、カチューシャをしてる子が園子ちゃん……」
(新ちゃんは……見えないな。でも、今日はここに来るって言ってたし、きっとどこかにいるはずだよね)
ヒロに蘭たちのことを説明しながら、花梨はコナンの姿を探すが、ステージ上には見当たらない。どうやら近くにはいないようだ。
「じゃあ、この中から一枚……そうですね、ハートの
ステージに目を移すと、真田が蘭にシャッフルされたカードの束から一枚引くようにと促している。
その横で園子が、「右! 右! 右のヤツ……」と熱心に指を差して応援していた。
促されるまま、蘭が一枚のカードを抜き取り、ひっくり返す。
真田の予想では「ハートの
蘭がまじまじと見つめ、思わず声を漏らす。
“
クレオパトラに魅了された
シーザーのごとく
私はもう
貴方のそばに…
怪盗キッド
”
カードには、華麗な文字で怪盗キッドからの意味深なメッセージが綴られていた。
「か、怪盗キッド!?」
「えっ!?」
蘭と園子の驚きの声に釣られるように、真田も目をぱちくりさせる。
次の瞬間には、「キ、キッドだ……」「キッドが現れた!!」と、周囲の客たちの間に再び動揺の波が広がった。
「皆さん落ちついて、合い言葉の確認を!!」
茶木警視の野太い大声がステージ近くから響き渡り、会場の人々は慌てて近くの者と向き合い、ヒソヒソと合い言葉を確認し合う。
「キッドさんが現れた……? えーっと、合い言葉、合い言葉……。あ、ヒロさん!」
再びキッドが現れたことに目を瞬かせるも、先ほどのような過呼吸の兆候はなく、花梨はしっかりと落ち着いていた。
周りの人々がペアを確認し合うのを見て、自分たちもそれに倣おうと、花梨は素直にヒロを見上げて「ねえ、耳を貸して」と手招きする。
ヒロはくすっと柔らかく笑い、顔を彼女の耳元へ寄せた。
「はいはい、ブラックキャット?」
「ホワイトキャット!」
「フフッ、間違いないね」
「うんっ……!」
二人が互いに本物であることを確かめると、花梨とヒロはパチンと軽く手を合わせる。
花梨がホッとしたように嬉しそうに微笑むのを見て、ヒロはふっと深いため息をこぼした。
「はぁー……」
(……ああ、本当に癒されるなぁ……。これ、絶対セロトニンもオキシトシンも出まくってるよな……俺、こんなに穏やかで幸せな時間を過ごしてしまっていいんだろうか……)
無邪気に笑う花梨の存在に、心の底から癒されていくヒロ。
十六歳の姿をした今日の花梨は、少女とは思えないほどの美しさを纏っているというのに、中身はどこまでもあどけなく、柔らかい。
組織を追い、常に殺伐とした裏社会の最前線に身を置いていた彼にとって、目の前の彼女は唯一無二の、文字通りの「女神」であり、究極の救いなのであった。
「ヒロさん……?」
「はぁ……っ、あ、どうしたの?」
「ううん、ステージのほうがまだざわついてて……」
花梨が少し不安そうに視線をステージへと戻す。
そこでは――。