▽前回のあらすじ
花梨の影を感じつつコナンを翻弄して去るキッド。蘭を無事保護したコナンだったが、突如目の前を裸足で駆け抜ける大人姿の花梨に遭遇する。不審に思い追跡したコナンは、追いついた花梨に手を引かれ走り出した。
第260話
ありがとう!
◇
「なあ、花梨! どこ行くんだよ!?」
「ヘリポート! 稀華ちゃんが帰るんだって!」
花梨はコナンの手を引いたまま、急いで甲板へと向かっていた。
「はあっ!? ばっ、オメーまた狙われる気かよ!?」
「ううん! 違うの! 稀華ちゃんの粗相は私が止めないと!!」
「そ、粗相って……」
息を切らせながら甲板へ飛び出した二人の目に飛び込んできたのは、冷たい潮風が吹き抜ける甲板に、ぽつんと佇むスタッフの内野の姿だった。
少し離れた場所には、パーティー会場の喧騒をよそに、さらっと優雅にヘリへ乗り込もうとしている一条稀華の姿がある。――どうやら彼女は、船内で起きていたキッドの騒ぎなど露とも知らないらしい。
内野は震える足で稀華に歩み寄り、その場にぐっと膝をついた。
……土下座だった。
何かを決意したような、けれども絶望に満ちた背中。花梨はハッと息を呑み、思わず駆け出そうとした。
「待て、花梨!」
だが、コナンがその腕をガシッと力強く掴み、引き留めた。
「バーロ! 出るんじゃねえ! 死にてえのか!!」
血相を変えたコナンは、いつになく真剣で、そして焦りに満ちた鋭い声を張り上げる。そのあまりの剣幕に、花梨はわずかにたじろいだ。
コナンは花梨の手を引くと、すぐ近くにあった大型コンテナの陰へと引っ張り込む。
「じっとしてろ。……様子を見るぞ」
身を潜めながら、二人は前方に視線を凝らした。
稀華の前で土下座する内野に、稀華は冷ややかな笑みを浮かべ、その耳元へと歩み寄る。何かを囁いた。
その言葉を聞いた瞬間、内野の肩がビクリと跳ね、糸の切れた人形のように力なく頷いた。
やがて、稀華を乗せたヘリコプターが轟音を響かせ、夜空へと飛び立っていく。
ヘリが去った直後、内野はフラフラと立ち上がり、まるで導かれるように甲板の隅にある通信塔の梯子へと歩み寄り始めた。
「新ちゃん! 内野さん、変だよ! 助けよう!」
「ダメだっ! まだヘリが近くにいる! 見つかったらどうすんだっ!!」
内野を助けたいと焦る花梨に対し、コナンは彼女の身の安全を最優先に考え、必死に腕を掴んで離さない。
だが、内野の足取りはあまりにも危うく、すでに梯子に足をかけていた。
「でもっ……あんなの絶対、おかしい……!」
コナンを振り切り、花梨はたまらず駆け出した。
通信塔の上へ向かっている内野を止めようと、花梨も慌てて鉄の梯子へと飛びつき、必死に上り始める。
しかし、一足遅かった。
すでに通信塔の上部まで達しようとしている内野の背中に、花梨の手は届かない。
内野は通信塔の上まで到達すると、ふらつく足取りで先端へ向かって歩いていった。
このまま進めば落ちてしまう。
(――危ないっ!!)
その絶望的な瞬間。
夜空を切り裂くように、どこからともなく白い影が舞い降りてきた。
「なっ……!?」
突如現れた白い影――怪盗キッドが、優雅な滑空とともに宙を舞い、落下しかけていた内野の身体を間一髪でしっかりとキャッチしたのだ。
そのまま見事な着地を決め、内野を安全な甲板の床へとそっと横たえる。
(キッドさん……っ!)
梯子の途中にしがみついたまま、花梨はその光景に目を瞬かせ、動きを止めた。
胸の奥が、ズキリと波打つ。
(彼を見ると、どうして……こんなにも、目が離せなくなるの……?)
自分でもよくわからない胸の高鳴りと、奇妙な既視感に戸惑いながら、花梨は大きく見開いた瞳でその背中を見つめた。
その一方で――。
梯子の下で一部始終を目撃していたコナンは、キッドの姿を認めるやいなや、怒涛の勢いで飛び出した。
「キッドぉおおおおおお!!」
コナンは腰のベルトからサッカーボールを出すと、凄まじい殺気とともに蹴り飛ばした。
正確無比な狙いで、キッドの背後に広がるハンググライダーの翼を目がけ――!
バシュッ!! と乾いた音が響き、翼の布が見事にブチ抜かれた。
「へっ? いっ!?」
キッドの目が大きく見開く。
「よくぞ戻って来やがった! ハンググライダーはもう使えねえぞ! さあ、大人しくお縄につけ!!」
逃げ道を断たれ、コナンに鋭く詰め寄られたキッドだったが、すぐにポーカーフェイスを取り戻し、微塵も動揺した様子を見せない。彼は壊れた翼を軽く払い、不敵な笑みを浮かべた。
「はっはっはっ……これはこれは、小さな探偵くん。見つかってしまったようだね。さっきぶりだな。……タイムオーバーだ。どうやら今夜はここまでらしい。だがまあ、そう怖い顔をするなよ、ボウズ。今夜は私も、なかなか楽しませてもらったんでね――次に会う時は、もっと愉快なショーを見せてやるさ。それじゃあ、またな」
キザなセリフを残し、キッドは袖の中に仕込んだ仕掛けを作動させる。
「なにっ!?(また煙幕かよっ!?)」
ポンッ、と可愛らしい音と共に煙が広がり、一瞬の隙をついて、キッドの姿がかき消えた。
キッドが立っていた場所には、使い物にならなくなったボロボロのハンググライダーだけが無残に捨て置かれていた。
「はぁっ、はぁっ……新ちゃん……! 内野さんはっ……!?」
ようやく梯子から下りてきた花梨が、コナンのもとへと駆け寄ってくる。
内野はすぐ近くの床に倒れ込んでいたが、幸い大きな外傷はなく、ただぐったりと気絶しているだけだった。
「クソッ! また逃がしたか……!!」
「ねえ、新ちゃん。今の……キッドさんが助けてくれたよね。お礼、言ってない……」
コナンが悔しげに歯噛みする横で、花梨はぽつりと呟いた。
あの人、すごい……。
あんな風に華麗に、落下する人を寸分違わず受け止めるなんて……。
(でも――あれ? さっきの……どこかで……?)
花梨の脳裏に、かすかな記憶がよぎる。
夜の冷たい空気。
白い帽子の彼が誰かを抱きかかえる。
誰かの白く長い髪が風になびき、柔らかな頬と頬がすりっと触れ合った……モノクルをかけた彼が、にこやかに微笑んで、公園に着地する……。
ほんの一瞬だけ、まるでドラマのワンシーンのような記憶が浮かびかけて、すぐに霧のように消えていった。
「ん? あ、ああ……もう消えちまったよ、あんな泥棒はな」
(なんで戻って来た、キッド……。オレにトリックを見破られて降参したはずなのに、わざわざこんなとこに戻ってきて人を助けるなんて……まだ何かやり残したことがあったってのか……?)
怪盗にお礼を言いたそうにする花梨に呆れつつ、コナンは床に転がるハンググライダーの残骸を見下ろした。
そのとき――。
「っ……!」
花梨が突然、何かを思い立ったように甲板の端へと走り出した。
「お、おい花梨……っ!?」
彼女の身を案じ、コナンも慌ててその後を追いかける。
花梨は大海原が見渡せる手すりのギリギリまで辿り着くと、冷たい金属のバーを両手でギュッと掴んだ。
「……っ、キッドさぁああああん!! ありがと~~~う!!」
潮風に乗せて、夜の海へ向かって全力で叫ぶ。
もちろん、返事はない。静かな波の音が返ってくるだけだ。
だが――。
「……っ!? ぶっ、ぷはっ!!」
まさにその瞬間。
キッド――黒羽快斗は、身を隠すため、夜の闇に紛れて飛び込んだ冷たい海の中で、突然頭上から響き渡った愛おしい声をモロに聞いてしまい、盛大に水を飲んで溺れかけていた。
慌てて海面から顔を出し、ずぶ濡れの状態で必死に船の上を見上げる。
(今の声――!!?)
何よりも愛おしく、耳から離れないあの声が聞こえた気がした。
だが、暗い夜の海から見上げる船上には、遠くに見える黒い人影しか確認できない。
花梨なら、あの真っ白な髪が照明を受けて、すぐに見つけられるはずなのに。
(……空耳か……? いや、でも……)
海水を拭いながら、快斗の表情がスッと引き締まる。
本当なら、もう少し船に残って、一条稀華に接触を試みるつもりだった。
だが、あの女の周囲には銃を持った護衛が張り付いていた。あれじゃ、下手に近づけばこちらが丸腰なのをいいことに蜂の巣にされかねない。
(――どこのギャングだよ……ま、接触はまた次の機会だ)
今夜は、想像以上の収穫があった。
白河家のきな臭い事情、一条稀華の裏の顔。
そして何より――花梨は生きていて、今、この日本にいるということ。
彼女をめぐる真実のピースは、確実に手に入りつつある。
(……調べてやるぜ、花梨。お前のまわりにあるもの、隠していること、そのすべてを洗いざらいな……。だから――)
波間に揺られながら、快斗はどこか神妙な、そして熱を帯びた面持ちで夜空を見上げた。
今夜は、月のない夜。
あの白い髪の少女と出会った、あの夜と同じ。
今夜は直接言葉を交わせなかったけれど――。
(オレがお前を迎えに行くまで……それまで、いい子で待ってるんだぜ……?)
満天の星々の下で、愛しい少女の面影を心に浮かべ、快斗は再び船に背を向け、力強く海を泳ぎ出した――その時。
「ギャー! 魚ぁああああっ!! なんか足元触った! こっち来んじゃねーよっ! ぶくぶくぶく……っ!!」
怪盗としてのキザな余韻は、冷たい海の魚たちによって一瞬で打ち砕かれるのだった。