ガチャの景品でTSしてもドスケベの親友に堕とされたくない 作:ハーメルンに性嗜好を歪められた被害者
土曜日は毎週、僕達は近所のボルダリングクラブに通っている。KKTクライマー、というところだ。そのため、土日は意外と朝が早い。
「こ、これでいいのかな……」
先日の〝ガチャ〟から排出された下着に着替えてみたものの、違和感がすごい。着用方法はこれで合っているのだろうか?
特に上。当然だが、人生で初めて着用するブラジャーなるものの感覚は、極めて奇妙だった。
「確かに、フィット感はある、けど……」
1日でコリがくるような肩や首の重力感が大幅に軽減され、何というか……先端部も擦れなくていい。
ただ、持ち上げられているというべきか、まるで何者かに支えられているような、変な感覚がする。確かに付けていないよりは楽だが……。
『運動するなら着たほうがいいって』
『え、えぇ〜……でも、上は必要かもしれないとして、下は別にいつものやつでも……』
『いや!! 絶対それ着たほうがいい!!』
アキが強く(極めて強く)そう言うので、仕方なしに下も女物を着用してみたが、やはりパンツはいつものトランクスでよくないか?
『パンツじゃなくてショーツな』
イマジナリーアキが余計なことを言ってくる。うるさい。
「うー……キモいな……」
ピッタリした感覚があるのに、丈は股関節までしかなく、変にスースーする。スポーツタイプだからまだマシなのかもしれないが、全体的に布が少ないデザインで、非常に心許ない。
「うわ、痴女……いやいいのか、家の中だもんな……」
女の人は誰しも、いつもこんなものを身に付けているのに、よくも平然としていられるものだ。
「それにしても……」
整っている。顔も、体も。
毛穴の見えない滑らかな肌、下唇の薄い口、少し冷め気味なつり目でもたれ目でもない大きく開いた目蓋。細くも高い鼻筋、丸い顔の形。
真横に張り出した巨大な胸、無遠慮に掴み、撫で付けたくなるような臀部と太もも。
「か、わいい……よな……」
男の欲望を叶えるために生まれたような女の姿がそこにあった。
これじゃ、アキが鼻息を荒くするのも無理は……。
「いや、何考えてるんだ、僕は……」
鏡の中の僕と目が合って、思わず逸らしてしまった。横目でうかがってみると、見慣れた男の僕の代わりに、下着姿の美少女が顔を真っ赤にしていた。
「フミー? いるかー? 入るぞー」
「どーぞー」
彼は日除けのキャップを目深に被り、なぜか外でも持ち歩いているプラうちわ(駅前で配られてたヤツ)を扇ぎながら、暑そうに入ってきた。
「おっすフミ」
「んー……」
練習は9時からで、今は8時。そろそろ出発しないといけない。
そのために朝から準備をしていたのだが、僕は大変なことに気が付いてしまった。
「ねぇ、どうしよ、アキ」
「何が?」
「服……」
僕が以前使っていた練習着は、今の僕の体には大きすぎる。単なるサッカー用のスポーツウェアだが、ショートワンピのようになってしまっていた。
スポーツパンツに至っては、履いた時点でどこにも引っかかることなくするりと落ちている。こんなものを着て行ったら痴女だと思われてしまう。
「あぁ……体操着は?」
「そっちもブカブカ……」
紐を思い切り引っ張って絞っても、何だか隙間があって違和感がある。
「ジャージは?」
「逆に入らない……」
足まではするする入るのだが、尻や太ももで急にキツくなって、それ以上いかなくなる。何だこの体。凹凸が多くて服が着にくいぞ。
「あー……あれだ、先生に借りればいいだろ。確かあそこ、初めて入会する人用に、トレーニングウェアの貸し出しもしてたよな」
「そ、そっか。そうだね」
ボルダリングは僕達の数少ない趣味だ。女になって、その趣味まで断たれてしまうとなったら、いよいよ僕は立ち直れなくなるところだった。
「ありがと、アキ」
「お、おう……それより、ちゃんと服着ろ。ズボンずり落ちそうになってるぞ」
あぁ、油断するとすぐ忘れてしまう。僕は今は女なんだった。
男の時はアキよりは小さいものの、ここまで顕著な身長差はなかった。全く小柄になってしまったものだ。棚の上が高くて仕方ない。
「あ、靴もだ」
「今日はビーサン履いてけ」
店長と受付含め、4人のインストラクターが回しているこのクラブは、小規模ながら壁が本格的だとか、インストラクター兼店長が美人とかで人気だ。
実は僕とアキも、その美人インストラクター店長さんに、ばっちりつられて入会した口だった。
「二人とも、いつも時間通りね。偉いわ」
「おっす! はよーございます! リナ先生!」
リナ先生は、元フリークライミングのプロだったそうだ。スポンサー契約も付いていたような、かなりの実力派だったという。
その筋肉たるや。普段は長袖の服を着ているので目立たないが、スポーツウェアに着替えると、それはもうムキムキだ。
「お、おはようございます。先生」
アキの影に隠れて、控えめに挨拶をしてみる。突然教え子の一人が女になった、なんて、リナ先生は信じてくれるだろうか?
「えぇ。おはよう。アキオくん、フミ〝ちゃん〟」
「え……」
先生は僕の姿に、何の違和感も感じていない様子であった。
僕らと挨拶を終わらせると、さっさと奥に行って準備を始めてしまう。僕のこの姿を見て、何も思わないのだろうか? というか、一目でなぜ僕が「フミ」であることが分かったのだろう。
「先生、普通だったな。お前のこと、最初から女だったと思ってんのか?」
「…………そうかも」
つまり、認知が変動していないのはアキだけで、他の人はみんな、身分証や写真にあった通りに、以前から僕が女の子であったと思っているのだろうか。
「この状況なら、むしろよかっただろ。混乱にならねーしさ。それに、またあれが引ければ元通りだろ。多分な」
「うん……」
アキの言う通りだ。そもそも僕がフミだと思ってくれなければ、部外者か、よくて見学者くらいに思われていただろう。
「珍しいわね。フミちゃんが練習着忘れてくるなんて」
リナ先生の手が空いた隙を狙って、僕はスポーツウェアを貸してほしい旨を話した。
「い、今、全部洗濯中で……」
「ランニングでもしてたの? まぁいいわ。ちょっと待ってなさい。シューズは?」
「あ、シューズも、借りたいです……」
すんなりといってよかった。そのうちサイズの合うものを買ってこないと。いつ男に戻れるかも分からないし。
「はい、これ。そのまま返して。どーせまとめてコインランドリーだから、洗って返すとかはしなくていいわよー」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、着替えてきます」
もうアキは準備運動を始めてしまっているだろうか。僕も早くストレッチを始めて、練習を始めたい。
「ちょ、ちょっと! フミちゃん!?」
「う、うわ」
更衣室に入ろうとした瞬間に、リナ先生に腕を引っ張られた。すごい力だ。腕相撲で両手を使うアキをひとひねりにしただけのことはある。
って、そうじゃなくて、突然どうしたんだろう。貸してもらったスポーツウェアを間違えたとか?
「そっちは男子更衣室よ!?」
「えっ? あっ……!」
思わず扉の上を見上げて、付けられているプレートを見た。青いピクトグラムのようなマークがある。
「もう、ホントにどうしたの? 具合でも悪くした?」
「そ、そんなことないです! ちょっと考え事してて、ごめんなさい!」
「そう……? ま、いいわ。気を付けてね」
「は、はい……ごめんなさい」
危うく大混乱を起こすところだった。朝からの練習に参加する人は少ないとはいえ、人がいるのは確かだし、あるいはアキがまだ着替えているかもしれない。
……ん? 別にアキに見られるのはよくないか? だって僕の事情を知っている訳だし。いや、積極的に見せに行くつもりじゃないけど。
まぁいいや。どっちにしろ今の僕は女子更衣室。
じょ、女子、更衣室……。
「いいのか……?」
今は体も社会的な認識も女になっているとはいえ、お、男だぞ、僕は……。
例えばこれがもしも、女になったのが僕ではなくアキだったら。彼だったとしたら「うひょひょひょっ! ラッキー!」とか言いながら、嬉々として突撃するのかもしれない。
しかし、僕には社会通念的に常識的な範疇の倫理観が備わっている。つまり、ラッキーとかより罪悪感が先に来る。
「と、トイレで着替えるか……」
ちょっと情けない。こういう時はアキが羨ましい。堂々と侵入する勇気が欲しくなる。
着替える時に、一応持ってきた男の時のタイツも試しに履いてみたが、身長差が激しく、裾が余ってしまった。
「スポーツタイツも買い直しだな……」
少し出費が嵩みそうだ。早々に男に戻れるものと見て、買わずにおくでもいいが、もしこのまま数週間、数ヶ月単位で元に戻れないとなると、ウェアがないんじゃクラブにも迷惑をかけることになる。
着替えてトイレを出ると、丁度アキもトイレに入っていたようで、出口で出会した。
「おう、フミも準備終わったか。あ、トイレで着替えた訳な」
「そ、そりゃあね。急に女だから女子更衣室を使え……って言われても、悪いことしてるみたいで気まずいし……」
体が女になっても、女子のテリトリーに侵入するのは僕には無理。挙動不審になって変な目で見られそうだし、緊張で他の人の姿を見る余裕なんてなさそうだ。あとやっぱり罪悪感がすごい。
「二人とも着替え終わったー? そろそろ始めるから、ストレッチしといてねー!」
リナ先生の溌剌とした声が聞こえてきた。先に準備を終えた僕達以外の何人かの生徒と、既に練習を始めている。
「さっさとやるか。ほら、先やってやるから座れよ」
「あ、うん」
このクラブでは、初心者はまず始めに二人でおこなうストレッチを教えられる。
高校生の生徒は僕達だけで、あとは大学生とか専門学生、あるいは社会人だけなので、いつも僕のペアはアキだ。
「首からやるぞ……おっ、なんか、前よりよく伸びるな」
アキは僕の肩に手を置いて、後頭部にゆっくりと力をかけて僕の首を倒そうとした。肩の皮が伸びてつっぱるが、いつもより横に倒れてくれる。
「ねっ……なんか、柔らかくなっ……た?」
いつもよりずっとよく曲がるので、何だか気味が悪かった。こんなところまで曲げてもいいのか、という気分にさせられる。それでも痛みはあまりこない。
アキは手際よく首から肩周り、それから腕のストレッチまでの介助を済ませ、僕の正面に回りこんだ。
「じゃあ、腰もやるか……寝っ転がって左足上げろ」
上げた足を、膝を直角にしたまま交差させるように倒す。そうすることで腰を捻り、可動部を伸ばすストレッチだ。
「いくぞ」
「うんっ……ん、んんっ……もう、ちょっと……」
「ま、まだ倒せるのか? 分かった」
曲がることに恐怖を感じていたのはアキも同じようで、普段より確認を多めにしなから僕の膝を倒していく。
「おぉ……すげーな、女の体。くねくねじゃん」
「そう言うと妖怪みたいだよ」
でも、アキの言う通りだ。なんだか全身が柔軟で、素の状態の可動域が広い。それでいて弛緩している訳ではなく、反発もある。
「じゃあ行くぞ、もう少し倒せるよな?」
「ん……あっ……?」
むにっ。
気のせいだろうか? 今、少し……。
「んー? どうかしたか?」
「い、いや……んんっ……!?」
むぎゅ。
いや、今のは完全におかしかった!
アキは気付いていないフリをしているが、こいつわざとやっているな。
介助の体勢は、遠目に見ると覆い被さっているようにも見えなくはない。
そしてそんな体勢になると当然、アキの肘から先は、僕の胸にぐっと沈み込んでいて、彼の腕の形に合わせて胸が変形している。
「あのさ、アキ」
「な、何ですか……?」
何で敬語……? というか、そうじゃなくて。
「わざとやってるでしょ」
…………。
「ナンノコトカナー……」
「こんなにぐいぐい押し込まれて気付かない訳ないからね」
何なら本来肩を押さえるべき手が、もうがっつり胸を掴んでくる時がある。僕の胸は君の所有物じゃないんだぞ。
「まーまー、いいじゃないか。運動なんだから、身体接触は仕方ないだろ?」
「そんなレベルじゃないから言ってるんだよ」
今なんかストレッチでもなんでもない。開き直って両手でワシ掴みにしてきたじゃないか。
「あれ!? これクッションじゃなかったんだ!? いやーあまりにデカすぎて、あと触り心地よすぎて、高級枕かと思ったわ」
「なんでジムに寝具があるんだよ! いいから手をどけろ!」
いつまで揉んでいるつもりなのか。僕も男だし、好奇心いっぱいの気持ちは分からなくもない。だが、流石にやりすぎだ。揉まれているほうも単なる人形ではないんだぞ。
「……そんなに揉みたいの?」
と、聞いている間にも、彼の手は止まらない。至近距離で目が合っているのに、むしろ手つきがいやらしくなった。
「ああ揉みたいね! お前のおっぱいがスケベすぎることに非がある! いつでもどこでも揉める券が欲しい」
こんなに必死だと、かわいそうな気もする。まぁ、別に暴力を振るわれている訳でもない。他のヤツならまだしも、アキになら少しくらいいい思いをさせてやっても……。
「フミ、顔真っ赤だな。もしかして胸揉まれて照れてるのか? めっちゃエロいじゃん。お前むっつりだもんな」
前言撤回。やっぱ今のナシ。
「いい加減にしないとぶつよ。下の玉」
「わ、分かった。今どける。ごめんなさい」
流石にムスコを人質に取られては、セクハラの権化たるアキも引き下がらざるを得なかったようだ。
というか、女体化してからというもの、アキにばっかり胸を揉ませてあげたり、彼ばかりが得して、僕だけ恥ずかしい思いをさせられている分だけ損じゃないか?
「ほら、次、前屈手伝って」
「分かったよ……あ、うなじめっちゃいい匂いする」
「ちょ、やめろ! 嗅ぐな!!」
前がダメなら後ろからもセクハラか! こいつ、僕が後ろを向いて自分の局部への攻撃の心配がなくなったからって、結局そういうことしやがって。
「尻エッッッ。こんなんお前、誘惑するために付いてるだろ。パッツパツじゃん」
「いい加減にしろ!!」
これ、相手が僕だからまだしも、他の女の子にやったら初犯で実刑付くぞ。
いつも通り、オブザべーション(登る前にコースを下見すること)から始めて、イメージの動きを頭にインプットする。
「お? 5級か? いつもは4だろ?」
「うん。とりあえず、今の感覚を知りたいから」
身長が変わって、手足もかなり縮んだ。予想しているより、さらに思い通りにはいかないはずだ。
まずはクリンプを経由して、次に右足を……。
「何だ……?」
一瞬、視線のようなものを感じて、僕は思わず振り返ってしまった。
僕の視界の中で、いくつかの人物がさっと顔を振る。全部男性生徒だった。
そしてそれを、リナ先生が手を振って、気まずい表情で嗜めていた。
「僕がどうかしましたか?」
「フミちゃんフミちゃん、壁で擦れて……」
「え、あっ……!」
スポーツパンツが少しずれて、落ちそうになっていた。尻の膨らみ始めるギリギリで止まり、際どい位置で保っていたが、あと少しでよく知らない奴らに下着を公開するところだった。
「変態どもめ……」
サイズの合うレンタル品がなかったので、一回り大きいものを借りたのがダメだったか。
僕はセクハラ野郎どもを一通り睨み付けたあと、紐をぐいっと引っ張って引き絞り、雑に縦結びで固定した。これでよし。
「フミちゃん、準備はいい?」
「あ、はい! いけます!」
僕は慌ててチョーク粉を取って手に塗し、軽く叩いてからOKの合図を出した。
「はい、スタート」
僕がスタートに触れた瞬間に合わせて、リナ先生がストップウォッチのボタンを押した。
まずはSのテープが貼られたスタートホールドから上がって、右手で石を掴む。
「あ、足が届かっ……」
普段より手に近いところの石を探して、左足が一瞬泳いだ。
これじゃダメだ。まずはしっかり正対を作って、堅実に近いところを……。
「フミちゃん! 指伸びてるよ!」
「う、っく……キツい……!」
体は軽いのに、なぜか力が入らない。まるで軽くなった分、載せているエンジンまで性能が低下したみたいに、
スローパー(ひっかかりのない石)にかけた左手が震え始めた。このままでは滑る。
「ま、まずは足から」
左腕が全然伸びない。このままでは重心が取れなくなる。伸ばした右手に合わせて、左足も伸ばしてカウンターバランスを取るしかない。
僕は左腕を少し開いて、首の可動域を確保しながら、俯いて下を確認しようとした。
「あれっ? やば、見えないッ……!?」
胸が壁に押し付けられているせいで、そこに隙間がなく、足下が全く見えない。女の人って、こんなハンデ背負ってやってたのか……!?
と、というか僕、性別変わってから、胸関連でトラブル多いな……。
「じゃ、じゃあ一回左のクリンプを……!」
それから胴体の前から右足を通して、ダイアゴナルで一気に……!
「フミちゃん!」
「あっ」
血の気が引くような感覚がした。
左手がホールドから滑る。右足の石から砂っぽい摩擦音がして、僕はギリギリで踏みとどまった。
「…………っぶな」
マットがあるとはいえ、慣れない体で受け身を撮り損ねたら、落ち方次第では怪我をしていたかもしれない。
そう思うと、筋肉の疲労によるものではない震えが指先に浸透して、次のホールドを目指す余裕なんてなくなってしまった。
思わず首を回して下を見ると、リナ先生が難しい表情で首を振っていた。
「5級のコースができなくなってる……」
僕は反対側の壁際で体育座りをして、いつもの3級課題に挑戦するアキを眺めていた。
眺めていた、なんて言うけど、その実見ることができなかった。彼は僕と違って絶好調のようだ。難しい強傾斜のゾーンを難なくクリアし、足をうまく活かしてバランスを取っている。
急に僕だけ後ろから鎖を付けられたみたいだ。アキはどんどん上手くなっていくのに。
「フミちゃん、今日は調子悪そうね」
「…………」
リナ先生は、たまたま今日だけ不調なのだと思っているようだが、そうではない。
全然感覚が違う。いつもならできていたことが一つもできなかった。体も軽いようで、その軽さすら支えるための筋肉が足りないし。
「さっきのは遠いホールドを選びすぎたのが悪かったかもね」
「そうですね……」
「でも気にしない! 少し感覚がズレることなんてよくあるんだから」
先生はそう言って励ましてくれたけど、正直自信がない。週1〜2回程度の練習で、この変化を取り返すのは無理だ。
「あぁー! くそッ! 惜しかったー!」
どさ、と、アキがマットに降りる音がする。どうやら時間制限を過ぎてしまったらしい。
でも、アキの失敗は僕の失敗とは違う。強傾斜のコツを掴み始めた、意義のある前進的な失敗だ。僕のは後退……。
「フミ! 見たか今の? オレめっちゃ上手くなかったか!?」
「あ、うん……」
アキはチョークのついた手で顔の近くを触ることを嫌って、腕の内側で額の汗を拭いながら、笑顔で僕の隣に座ってきた。
「何だよ、元気ねーな」
「…………まぁ、ちょっと」
アキにはお見通しだったようだ。登るのが怖いとか、楽しくないなんて、初心者の頃以来の気持ちだった。
落ちることに恐怖はあっても、登ること自体が嫌になったことなんてないのに。
「もしかしてさっきのトライのこと気にしてんの?」
「…………」
「まぁ……ほら、昨日の今日だからちょっとナーバスになってるんだよ! 男に戻れたらまたさ!」
「男に戻れなかったら?」
好きだったことまで楽しめなくなるなんて。女になったことから目を逸らすために来たのに、むしろ強く突き付けられた。お前はもう、以前のお前ではないのだと。
「自分の体じゃなくなったみたいだ。僕、もしもこのまま男に戻れなかったら、そしたら……!」
そしたらもう、アキに置いて行かれてしまうんじゃないか。
それが言えなかった。だって、そんなことを言っても、アキを困らせてしまうだけだ。
彼はただ自分自身の努力で、着実に成長しているだけ。僕に足を引っ張られる理由なんてない。
「フミ、あのさ」
アキは僕の肩に手を置いた。力強い手だ。でも、乱暴さは感じない。
「夏休みだし、公園で練習しようぜ」
彼は沈みがちな僕の顔を腕ごと引っ張り上げて、にっこりと笑った。
「公園って……上水道の?」
公園にあるのは、2メートルと少しはあるかという程度の、本当に低い壁だ。登りの練習としては少し心許ない。
しかし、体勢や動きを確認するためであれば、高さはそこまで必要ない。下は砂場だから、落ちても砂がクッションになってくれる。
「納得いくまで、一緒にさ。何時間だっていい。お前がやりたい時に、いつでもやってやる」
「で、でもそれじゃ……」
それでは、今の僕のレベルに合わせたアキのトレーニングにはならない。一方的に僕の練習に付き合わせてしまうことになる。
それはダメだ。折角調子がよくなっているらしい彼の足を引っ張る訳には……!
「つーか、オレもムーブのトレーニングしたいんだ。付き合ってくれよ」
「アキ……」
そう言って、アキは僕に〝口実〟を作った。そうやって僕が不要な罪悪感を抱かないように、こっちにも利益があるんだ、というような言い方をしてくれる。
「うん……」
いつもそうだ。僕が落ち込んだ時には、こんな風に笑顔で助けてくれる。
アキは僕を置いて行かないでくれる。心配することなんてない。手を引っ張ってくれるんだ。
「いつもありがとね」
彼がいなかったら、僕の高校生活はもっとつまらないものになっていただろう。
「お、おう……い、いいってことよ……」
アキは顔を真っ赤にして、突然目を逸らしてしまった。
「何だよ。どうしたの?」
「何でもねーって! れ、練習再開すっぞ!」
目を合わせようとすると、あさっての方向に視線が逃げる。急にどうしたんだろう。
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