「誰だ」
扉が開いた音に、羂索は振り返った。
九十九由基の死体が転がり、腸相は瀕死で倒れている。
天元の確保は目前だった。
千年の計画が、ついに実を結ぼうとしている───その瞬間に。
扉の向こうに立つ男を見て、眉をひそめた。
我が息子に酷似した容姿。
ピンクの髪に黒のツーブロック、大柄な体躯。
だが、瞳は白と黒が反転している。
そして何より───纏う気配が、この世界のものではない。
呪力でも呪いでもない。何か、根源的に異質な力。
まるで、別の法則に従って存在しているかのような、不協和音のような存在感。
男は悠然と歩み入った。
血の海を踏みしめ、九十九の死体を一瞥することもなく、倒れた腸相を跨ぎ、ただ真っ直ぐに羂索を見据えている。その足取りには迷いがなく、明確な目的意識に満ちていた。
「裏社会のコネ全部使ってようやく見つけたぜ……天元」
羂索は笑った。
「面白い。君のような存在は想定外だったが」
取り繕った余裕である。
九十九由基との戦闘によるダメージは無視できない。
常軌を逸した最期の一撃……あれを防ぎきったとはいえ、呪力の消耗も激しく、身体の各所に痛みが走る。
加えて、目の前にいる男の正体も不明だ。
だが、戦に臨まんとする兵が弱った姿を露わにする道理などは、ない。
千年を生きた羂索にとって、格を保つことは呼吸と同じだった。
どれほど追い詰められようと、余裕を演じる。
笑みを絶やさず、相手を観察し、隙を見つける。それが、謀を円滑に進めるコツだ。
「オレも、ここにてめぇみたいな邪魔が入るとは思わなかったな」
トルトゥーガは羂索を値踏みするように見た。
額の縫い目。古びた僧侶の衣。
戦闘のダメージも残っているだろう───血痕が衣を汚し、呼吸もわずかに乱れている。
だが依然として纏う力は膨大で、格が違う。この世界でも、相当な実力者であることは疑いない。
「……なるほど。お前が羂索か」
「ほう。私の名を知っているのか」
羂索は興味深そうに目を細めた。
この男は、一体どこから情報を得たのか。呪術高専との繋がりを疑うべきか。
いや、高専の人間なら、もっと別の反応を見せるはずだ。
「呪霊に聞いた。この混沌の元凶だとな」
呪霊───羂索は内心で舌打ちした。
情報が漏れていたのか。だが、呪霊程度に何が分かる。
この計画の本質を理解している者など、この世界には───
「混沌の元凶、か。的を射た表現だ」
羂索は笑みを深めた。認めてしまう方が、話は早い。
「だが、私は秩序を作り直そうとしているのだよ。混沌から、新たな世界を。人類の可能性を、極限まで引き出すために」
「へぇ」
トルトゥーガは鼻で笑った。
「どいつもこいつも、同じことを言う」
「同じ?」
「オレはどうにも、そういう連中が一番嫌いでな」
トルトゥーガは拳を鳴らした。関節が不気味な音を立てる。骨が軋むような、だが同時に何か別の───金属的な響きも混じっている。
「五家も、てめぇも、変わらねぇ。世界を支配しようとする下衆共。口を開けば『国のため』だの『人類のため』だの。結局は自分の欲望を正当化してるだけだろうが。てめぇみたいな奴は腐るほど見てきた」
五家───羂索の知らない単語。
だが、この男の纏う雰囲気は理解できた。
支配者に対する、深い憎悪と敵意。
そして───過去に、そういった存在と戦ってきた者の、冷徹な殺意。
「君は───」
羂索は慎重に言葉を選んだ。
「君は、私と敵対するつもりか」
「天元とやらに用がある。それだけだ」
トルトゥーガの答えは簡潔だった。
「お前との戦いは、オレの目的じゃない。だが、邪魔をするなら排除する」
「残念だが、天元は私が頂く」
羂索は微笑んだ。
「君がどこから来たか知らないが、ここは私の舞台だ。退場してもらおう」
「悪いが、オレはオレ以外に従うつもりはない」
トルトゥーガの声が低く響く。
「だが、先に入った予約を優先するのがマナーだろう?お前が先だ。さっさと用を済ませて消えろ。オレは待っててやる」
羂索は驚愕した。
この男は───天元を譲る気なのか?
いや、違う。そうではない。順番を待つと言っているのだ。
まるで、レストランの予約を待つ客のように。公衆トイレの順番待ちのように。
「面白い男だ」
羂索は心から笑った。
千年生きてきて、こんな反応は初めてだった。
敵意はある。殺意もある。だが、それ以上に「目的」だけが際立っている。
まるで、羂索という存在を、天元への道を塞ぐ単なる障害物としか見ていない。
「だが、私の『用』は長引くぞ。天元を吸収し、この世界を作り変える。それが私の目的だ。君が待っている間に、世界は終わるだろうね」
「吸収?」
トルトゥーガの表情が僅かに変わった。
「てめぇ、天元を殺すつもりか」
「殺す、というより───同化する、と言った方が正しいかな。天元の不死性と、その蓄積された呪力。そして、人類全ての呪いを背負った存在としての『格』。それを、私が引き継ぐ」
「却下だ」
トルトゥーガが遮った。
「オレが使えなくなる。そいつは困る」
「使う?」
羂索は首を傾げた。興味が湧いた。
「君は、天元を何に使うつもりだ?」
「オレの世界に戻るため、だ」
トルトゥーガは淡々と答えた。
「あるいは、ガキをこの世界に復活させるための媒介としてな。どっちにしろ、天元の力が必要だ。てめぇに渡すわけにはいかねぇ」
オレの世界。
ガキ───また知らない単語。
だが、羂索は理解した。あるいは、大切な誰かを───この「ガキ」という存在を───復活させようとしている。
「なるほどね」
羂索はゆっくりと立ち上がった。
痛みが走る身体を無視して、術式を展開する準備に入る。
呪力を練り直し、戦闘態勢を整える。
九十九との戦いで消耗しているが、まだ戦える。まだ、やれる。
「君は、天元を"復活の器"として使うつもりか。面白い。実に面白い発想だ。異世界の術式体系を、この世界の存在に適用する───理論的には不可能ではない。だが、残念ながら天元は私の計画に必要不可欠だ。君の世界には、返してやれない」
トルトゥーガの瞳が、わずかに揺れた。
初めて、明確な感情が滲んだ。怒り、ではない。もっと深い───喪失感にも似た、何か。
羂索はそれを見逃さなかった。
「不死の呪物。進化する存在。人類の呪いを背負い、結界を維持する"柱"。そして、適正な器と同化することで、新たな姿を得る───君が求めているのは、まさにその"同化"の力だろう?死者を蘇らせ、世界を繋ぐ。天元なら、確かにそれができるかもしれない」
羂索は笑みを深めた。
「だが、それは私が先に思いついたことだ。君のような新参者に、譲るわけにはいかない」
「トルトゥーガだ」
男は名乗った。
「覚えておけ。死亡診断書には誰に殺されたかを書く必要があるだろ?」
「大言壮語だな」
十分すぎる時間を稼いだ。
呪力の出力も乙骨と同程度のレベルまで回復している。
結界が揺れる。呪力が、空気を震わせる。
「私を殺す?君が?私は千年を生きてきた。無数の術師を見てきた。天才も、英雄も、怪物も。君程度の───」
「千年?」
トルトゥーガは嘲笑した。
「アブレウスとの契約でオレは死を超えた。お前の千年なんざ、オレの前じゃ意味がねぇ」
アブレウス───また知らない名前。だが、その響きには重みがある。
契約。悪魔との契約、か。
「ほう」
羂索は愉快そうに笑った。
「では、試してみるか。私の呪術が、君の不死を超えられるか。それとも、君の契約が、私の千年を超えられるか」
「やってみろよ、この無能が」
トルトゥーガの全身から、禍々しい力が溢れ出した。
ファージャケットがビリビリに砕け散り、鍛え上げられた筋肉が露出する。
羂索は指を鳴らした。
「まずは、挨拶代わりだ」
かつて、ある廃病院で人々の恐怖を喰らわせて育てた準一級呪霊。羂索が数年前に回収したものだ。
八本の脚から吐き出される毒糸は、空気を腐らせながら蛇のようにうねり、トルトゥーガの四肢を絡め取ろうと襲いかかる。
糸の一本一本に、かつての入院患者たちの絶望が宿り、触れただけで神経を焼き切る猛毒が滴っている!
トルトゥーガは糸を素手で掴み、力任せに蜘蛛を投げ捨てる。毒で焼かれた皮膚上に白い幾何学模様が走り、血管を伝い、全身を覆っていく。
蜘蛛は背後に表れた呪霊の巨大な口に放り込まれ、飢餓の呪霊と蜘蛛の呪霊の双方を巻き込み爆発した。
「この程度でオレを殺せると思ってるのか、羽虫が調子に乗るんじゃねぇ」
「ほう」
羂索は感心したように頷いた。
「毒に対する耐性があるのか。それとも、単純に肉体が強靭なのか」
「どっちでもいいだろうが」
轟音と共に石畳が砕け、一瞬で羂索との距離を詰める。
その速度は、呪力強化を遥かに超えたものだった。
まるで空間そのものをねじ曲げて移動しているかのような、規格外の踏み込み。
拳が、羂索の顔面を捉えようとする。
拳圧だけで墓所の空気が歪み、背後の壁にひびが入った。
だが、羂索は動じない!
「迂闊な接近だね」
次の瞬間、無数の目玉を持つ呪霊がトルトゥーガの前に顕現する。
全ての目が、一斉にトルトゥーガを凝視する。カメラへの恐怖から生まれた、現代的な呪霊。都市部で急速に成長し、羂索が興味深く保存していた個体。
監視される恐怖。見られる恐怖。プライバシーを侵される恐怖。
数百の瞳が一斉にトルトゥーガを凝視し、精神を直接削る視線が襲いかかる。
普通の術師なら、ただ見られただけで発狂するレベルだ。
「───チッ」
トルトゥーガの動きが、一瞬だけ鈍る。
その隙を、羂索は見逃さない。
「逆髪縛、捕まえたよ」
墓所の天井から無数の黒い髪が降り注ぎ、トルトゥーガの四肢を縛り上げる。
髪の一本一本が呪力の刃となり、締め上げるたびに肉を抉った。
「こんなもんで、オレを止められると思ってんのか?」
トルトゥーガの身体が、膨れ上がる。
筋肉が異様に盛り上がり、骨格が軋む音が響く。
アブレウスの力が肉体を再構築し、逆髪の呪縛を内側から引き千切る。
ブチブチブチッと、髪が根こそぎ千切れ、黒い血が噴き出した。
「なっ───」
「てめぇの黒符も大したことねぇな」
トルトゥーガは無数の目玉を持つ呪霊を、片手で掴んだ。
目玉が破裂し、硝子体が飛び散る。
「オレは、もっと酷い奴らを見てきた。ギギ・マーシンに比べりゃ、てめぇの悪霊なんざ子供騙しだ」
ギギ・マーシン───また知らない名前。
呪力が爆発し、無数の目玉が飛び散る。
「次だ。次を出せよ、千年男」
羂索は心の中で舌打ちをした。
なかなかの呪霊だと見込んでいた。
結構信頼していた札だったのだが……
想定以上だ。この男の肉体は、呪術の常識を超えている。
呪霊による攻撃も、拘束術も、精神攻撃も───生半可なものでは通用しない。
「仕方ない。本気を出すとしよう」
羂索は両手を広げた。
鏡の呪霊。軟体動物のような呪霊。炎を纏った獣型の呪霊。火災への恐怖から生まれた、古典的だが強力な存在。その炎は、通常の炎とは異なり、呪力そのものを焼き尽くす。
「───行け」
羂索の命令と共に、呪霊たちが襲いかかった。
触手が、トルトゥーガを絡め取ろうとする。炎が、彼の身体を焼こうとする。鏡の呪霊が、彼の姿を映し出す。
だが───
「くだらねぇ」
トルトゥーガは笑った。
その身体から、炎が溢れ出した。だが、それは呪霊の炎ではない。
もっと根源的な、アブレウスの永炎。
「てめぇの呪霊が炎を使う?笑わせるな。オレの炎は、世界を焼き尽くすためのものだ」
二つの炎が激突した。
だが、勝負は明らかだった。トルトゥーガの炎が、呪霊の炎を飲み込む。獣型の呪霊が、悲鳴を上げて消滅した。
「一匹」
トルトゥーガは触手を掴んだ。
深海の圧力が、彼の腕を砕こうとする。骨が軋み、肉が潰れる。だが───
「───進化」
羂索は目を見開いた。
トルトゥーガの腕が、変化していく。筋繊維が再構成され、骨格が強化される。そして、次の瞬間───触手の圧力に、耐えきった。
「───いや、適応か」
一撃。
呪霊の核が砕け、存在が霧散する。
「二匹」
残るは、鏡の呪霊だけ。
だが、この呪霊は攻撃をしてこない。ただ、トルトゥーガの姿を映し続けている。
トルトゥーガは、鏡に映る自分の姿を見た。
白黒反転の瞳。アブレウスの紋章に覆われた肉体。二本の角。
───これが、オレか。
一瞬、逡巡が生まれた。
ガキとの約束。裏切りの記憶。処刑台。そして、アブレウスとの契約。
全てを捧げた、その先に───
「───効いてるな」
羂索が呟いた。
「君のような、深い業を背負った者には、特に有効だ」
だが、その言葉が終わる前に───
「てめぇ、オレを舐めてんのか?」
トルトゥーガは鏡を殴りつけた。
ガラスが砕ける音。鏡の呪霊が、粉々に砕け散る。
「まだあるんだろ?」
トルトゥーガが歩み寄る。
その足取りは、重く、確実。まるで、処刑人が断頭台に向かうような、冷徹な歩み。
「てめぇの黒符、まだストックがあるはずだ。全部出せよ。オレが全部ぶっ潰してやる」
羂索は後退した。
初めてだった。千年生きてきて、格下だと思った相手に、押されている。
「───面白い」
だが、羂索は笑った。
恐怖ではない。興奮だ。純粋な、知的好奇心。
「君は、本当に面白い。異界の力。進化する肉体」
羂索は、さらに呪霊を召喚した。
今度は、特級だ。
巨大な、人型の呪霊。その全身は無数の人間の顔で覆われている。
集団への恐怖から生まれた、人類史最悪の呪霊の一つ。
呪霊が咆哮した。
無数の声が重なり合い、不協和音が墓所を満たす。その声は、人の精神を破壊する。理性を奪い、自我を溶かす。
「───ッ」
トルトゥーガの動きが、止まった。
効いている───羂索は確信した。
だが───
「ウワアアアアアア!ウオォ!ウワアーーーーーーーー!!! 」
トルトゥーガは咆哮した。
その声は、呪霊の声を掻き消した。アブレウスの力が、声に乗る。それは呪術ではない。もっと原始的な、意志の力。
「てめぇら全員の声を合わせても、ガキの声一つに勝てねぇ!」
無数の顔が、彼を飲み込もうとする。だが、トルトゥーガは止まらない。拳を、何度も、何度も叩き込む。
特級呪霊が、崩壊していく。無数の顔が悲鳴を上げ、消えていく。
「───なんという」
羂索は、呆然と呟いた。
特級呪霊を、徒手空拳で破壊した。呪力も使わず、ただ肉体の力だけで。
「まだか?」
トルトゥーガが振り返った。
その身体は、傷だらけだった。触手の圧力で潰された腕。炎で焼かれた皮膚。群衆に噛まれた痕。
だが、それらは全て───再生していく。
羂索は、理解した。
この男は、止まらない。呪霊では、止められない。
ならば───
「仕方ない」
羂索は術式を切り替えた。
呪霊操術から、別の術式へ。
夏油傑から奪った術式以外の、羂索が長年蓄えてきた切り札。
第三の術式、
宿儺の生まれ変わりの嫁、
アンチグラビティシステム。
そこに隠された更なる術式
「君を倒すには───直接やるしかないようだ」
羂索の呪力が、膨れ上がった。
トルトゥーガは構えた。
「来いよ、千年男。てめぇの本気、見せてもらうぜ」
天元は、ただ見守っていた。
この戦いの結末を。