「じゃあブアデさんはその───」
「ダリルでいい」
男は短く答えた。
白から灰色のショートヘア、白いシャツにシンプルなズボン。装飾のない、実用的な服装。
だが、その佇まいには何か───重いものを背負った者の、諦念にも似た落ち着きがある。
廃ビルの屋上、崩れたコンクリートの縁に腰掛け、ダリルと名乗った男は空を見上げていた。
仙台コロニーの空は、常に薄紫に濁り、遠くで雷鳴のような爆発音が絶え間なく響いてくる。
病んだ風が吹き抜けるたび、白いシャツの裾がはためき、鎖で繋がれた五つの髑髏がカタカタと軽い音を立てて揺れる。
乙骨憂太が仙台結界への侵入と同時にこの男を見つけた時、まず呪詛師だと判断した。
戦闘の気配もなく、ただ廃ビルに佇んでいる傍らには、吊り鐘のような頭部から鎖で垂れ下がった5つの髑髏。
異形は男を囲むように浮遊し、時折カタカタと髑髏が揺れる。異様な光景であった。
乙骨が認識を改めたのは、先ほどの戦闘によるものだ。
準一級相当の呪霊が、一般人を襲おうとした瞬間。
男は迷わず前に出た。
髑髏の一つが赤く発光し、次の瞬間、呪霊の胴体が真っ二つに裂けて吹き飛んだ。
血飛沫がコンクリートを染め、一般人の女性が泣きながら逃げていくのを、男はただ静かに見送っただけだった。
殺意も、得点への欲も、まるで感じられない。
「死滅回遊の参加者、ですよね」
相手は自分より年上に見える。七海さんくらいの年齢だろうか。
落ち着いた声音と、どこか疲れきった目つきが、そう思わせた。
乙骨は慎重に距離を保ちながら尋ねた。
リカの気配を抑え、だが即座に解放できる体勢を崩さない。
「そうらしいな」
ダリルは肩をすくめた。
「目が覚めたら、ここにいた。状況が理解できないまま、数日経った」
混乱と、僅かな疲労。
だが、敵意は感じられない。
どこか疲れきったような、投げやりな響きがあった。
「どこから来たんですか」
「───遠いところだ」
視線は空のまま、動かない。
薄紫の空に、遠くで光る術式の残光が映っている。
「ここが何なのか、分かりますか」
「いや」
ダリルは首を横に振った。
「だが、殺し合いの場だというのは理解した。さっきの化け物……君たちの言葉で、呪霊と呼ぶらしいが……それがあちこちにいる」
化け物。呪霊を、そう呼ぶ。
乙骨は内心で首を傾げた。
この男は、呪霊を知らない。
なのに、まるで慣れた手つきで屠った。
死滅回遊の開始に伴って術式を得た泳者ではない。
だが、あまりにも力の使い方に精通しすぎている。
矛盾している。
「あなたの術式は───」
「術式?」
ダリルが聞き返した。
「ああ、その、えぇと、髑髏のことです」
「これか」
ダリルは髑髏を一瞥した。
「メスメライズ、と呼ばれていた。五つの骸骨に、五つの霊を降ろす。」
mesmerize、魅了する、催眠することを意味する語。
降霊術にしては、奇妙な名前だ。
乙骨に聞き覚えはない。
高専の資料にも、海外の呪術組織の記録にも、こんな術式を見た覚えはない。
「降霊術……なんですね」
乙骨は慎重に言葉を選んだ。
男は鎖を指で軽く弾いた。
カラン、と澄んだ音が響く。
「父から教わったんだが、こいつらは気まぐれでな。野良犬みたいなのが来ることもあれば、頭の狂った殺人鬼が来ることもある。私には、どれが来るか選べない。」
メスメライズは五つの頭蓋骨を大地に誘う符である。
五つの頭蓋骨からはそれぞれ五つの異なるイメージが具現化される
しかしそれらが状況に有効なものかはどうかは
「運任せ、ということですか」
「ああ」
ダリルは短く答えた。そして、再び空を見上げる。
乙骨は、この男の纏う空気に違和感を覚えていた。戦意がない。生きる意欲すら、感じられない。まるで、全てを失った者のような───。
「仙台コロニーの状況、何か把握していることはありますか」
「君ほどは知らないだろうな」
ダリルは肩をすくめた。
「私はここに来てからずっと、ただ生き延びているだけだ。化け物が来たら倒す。それだけだ」
「でも貴方はさっき人を助けてたじゃないですか」
「───偶然だ」
ダリルは視線を逸らした。
「たまたま、そこにいただけだ」
「仙台コロニーには、他にどんな泳者がいるか、ご存じですか」
「泳者?」
ダリルが初めて、乙骨の方を向いた。
「ああ、この殺し合いに参加している者たちのことか」
「はい」
「何人か見た。だが、名前は知らない。」
「一人は、巨大な悪霊、いや、こちらでは呪霊と呼ぶのか。黒い、小さな虫のような何か。遠くから見ただけだが、相当な群体を持っている」
乙骨は頷いた。
黒沐死。
羂索が解放した特級呪霊
仙台コロニーで最も危険な存在の一つ。
「もう一人は、式神使いだ。巨大なビーバーに、その回りを飛ぶ鳥。あれらは明らかな統率がとれている。姿を見たことはないが、おそらく司令塔がいる」
「おそらく───」
乙骨が答えかけたとき、遠くで爆発音が響いた。
二人は同時に、音の方向を見た。
「そして、あの音」
男が呟いた。
「この結界は、常に誰かが戦っている」
乙骨は立ち上がった。確認する必要がある。
もし、一般人が戦闘に巻き込まれているのなら……
「待て」
男が乙骨の腕を掴んだ。
「むやみに近づくな。巻き込まれるぞ」
「だから行くんです」
「君は、見ず知らずの人間を助けるために動くのか」
声に、わずかな皮肉が混じった。
だが、それ以上に、羨望のようなものも。
「……そうですね」
乙骨は頷いた。
「僕は、誰かを守るために戦っています」
「なら、行け」
乙骨は走りだし、だが、数歩進んで振り返った。
「貴方も、来ませんか」
男は首を横に振った。
「私には、関係ない」
「───本当に?」
◆
廃ビルの影から、それは見えた。
地面が削られ、ビルが折れ、街路樹が根こそぎ倒され、まるで巨大な獣が爪で掻き毟ったような跡が縦横に走っている。
中心に、巨大な、得体の知れない巨獣ともつかない異形の式神が、街路を闊歩している。
その体躯の周りを無数の鳥が飛び交い、甲高い鳴き声を上げていた。
そして、式神の背に乗る老人。
長髪は背中まで届き、風に靡くたびに黒いマントのように広がり、顎の鬚は胸まで垂れ下がって白く光る。
腰巻一枚の痩せた肉体は、まるで古い仏像が動き出したかのような、異様な威厳を放っていた。
「あれは」
乙骨の声が、緊張に震えた。
式神から放たれる呪力は、尋常のものではない。
空気が重く淀み、皮膚に張り付くような圧迫感が全身を包む。
そして、式神が歩くたびに広がっていく金色の円───領域が、静かに、確実に、世界を侵食している。
「泳者か」
ダリルが呟いた。
老人は、二人に気づいていなかった。
ただ、式神を進ませている。
その足跡が、道路を、ビルを、全てを自らの領域に変えていく。
「通った跡そのものが領域になっている…!」
乙骨は理解した。
通常の領域ではない、結界を張るのではなく、式神が歩いた場所そのものが領域になっている。
時間をかければ、このコロニー全体が、あの老人の支配下となる。
「止めないと」
乙骨は刀を抜いた。
ダリルは、乙骨の横顔を見た。
この若者は、本気だ。あの化け物に、刀一本で立ち向かうつもりだ。
「───正気か」
「行きます」
乙骨は躊躇しなかった。
溜息をつく。やはり、放っておけない。
ズン、と地面が鳴り、金色の円がさらに広がる。
同時に鳥の群れが一斉に羽ばたき、鋭い鳴き声を上げて急降下する!
刀が、鳥の群れを斬り裂く。
乙骨は跳躍し、空中で刀を振り回す。
一閃ごとに、十、二十の鳥が断ち割られる。
だが、鳥は減らない。斬られた端から、新たな鳥が補充される。
まるで、無限に湧き出る泉のように。
「メスメライズ!」
ダリルの叫びと共に、死の螺旋が熱光を放ち、放射状に鳥が焼け落ちる。
だが、やはり多勢に無勢。数秒後には、同じ数の鳥が空を覆っている。
その時、老人が初めて二人を見た。
表情は変わらない。ただ、式神に命じるように、わずかに手を動かした。
巨大な式神が、方向を変えた。
二人に向かって、突進してくる。
その巨体が、地面を揺らす。ビルが軋み、アスファルトが砕け、粉塵が舞い上がる。空気が割れる音。迫る死の予感。
「───ッ」
乙骨は横に跳んだ。
ビーバーめいた巨体が、彼がいた場所を通過する。風圧だけで、周囲の瓦礫が吹き飛び、乙骨の身体が宙を舞った。受け身を取って着地するが、衝撃で膝が痛む。
ダリルは、メスメライズの骸骨を盾にした。
式神の突進を、霊の力で受け止める。受け止めきれない。
宿った霊が砕け、ダリルの身体が後方に吹き飛ばされた。背中からビルの壁に激突し、肺から空気が押し出される。
受け身を取り、すぐに立ち上がる。肩が痛む。骨にヒビが入ったかもしれない。
小さく舌打ちを放つ、さっきのはジンか、ドラゴンか、中々に上等なそれだったのだが。
式神が、再び方向を変えた。
「来い」
ダリルは構えた。
髑髏の一つがカタカタと震え、そのシルエットを変えていく。
肥大化し、筋肉が盛り上がる、その様は見た瞬間ヤバいとわかる巨大猿!
乙骨は刀を振り回し、鳥を切り落としながら叫んだ。
「このハダカデバネズミを先に落とします!」
「ハダカデバネズミ」
ダリルは思わず復唱した。確かに、そう見えなくもない。
「───リカ」
乙骨は叫んだ。
次の瞬間、完全顕現した特級呪霊が、咆哮する。そのノーモーション咆哮の出し得クソ行動に乗せられた呪力が、鳥の群れを一気に吹き飛ばした。
「なんだ、あれは」
ダリルは目を見開いた。
あの巨大な化け物は、乙骨の符か。いや、違う。あれは───霊か。
だが、あんな若者がこれほどまでの力を持つ霊を従える様など、見たことがなかった。
リカが、式神に突進した。
二つの巨体が激突する。地面が割れ、ビルが崩れ、衝撃波が周囲を襲った。
式神が、リカの腕を噛んだ。リカが、式神の首を掴んだ。互いに力を込め、押し合う。
アスファルトが砕け、地盤が沈む。単純な力比べでの式神の力は、リカを上回っている。
乙骨は歯噛みした。
見た瞬間ヤバいとわかる巨大猿の霊が式神の脚に飛びつき、牙を剥く。
止まった一瞬の隙に、リカが体勢を立て直す。
だが、再び集結した無数の鳥が、リカの巨体に群がり、嘴で、爪で、その身体を削っていく。
鳥を振り払おうとするが、数が多すぎる。一羽一羽は弱くとも、数千、数万という単位で襲われれば、特級呪霊ですら動きが鈍る。
「これで!」
乙骨は式神の足を駆け上がった。
呪力で身体を強化し、一気に高度を稼ぐ。式神の巨体を、壁を登るように駆け上がる。
そして刀が、老人の胸を───通り抜けた。
「幻影!?」
乙骨の刀は、何も斬らなかった。
その瞬間、幻影から放たれるのは眩い光と爆発!
回避する間など存在しない!
「ガッ───」
とっさの防御態勢をとった乙骨の身体が、式神の背から落下した。
地面に激突する直前、リカが受け止めた。
だが、その隙に巨大な触手が叩きつけられる。
ビル壁のコンクリートが砕け、巨大な穴が開く。
衝撃で乙骨の意識が飛びかける。
「乙骨!」
巨体がダリルに迫る。
「メスメライズ!」
第二の骸骨を大地に開放する。
誘われたのは、バチバチと電気じみた呪力を放つボルテックス状の浮遊霊!
「───チッ」
今欲しいのは、見た瞬間ヤバいとわかる巨大猿のような質量をもった霊。圧倒的な質量。
第二のメスメライズの霊では、あの巨体を止められない。
(少し考えればわかることではあったが…)
あの老人が、わざわざ式神の背に乗る理由はない。
式神の軌跡を支配下とするのであれば、式神と共に活動するのは非効率がすぎる。
あれは、囮だ。本体は───どこか別の、安全な場所から術式を操っている。
「生きてるか!生きてるだろ!俺が式神を引き受ける!」
ダリルは、残った骸骨を三つの骸骨をさらに展開する。
「その間に、本体を見つけろ!」
「でも」
「行け」
ダリルの声は、強かった。
「君の方が、速い。そして───君の霊なら、本体を倒せる」
乙骨は、一瞬だけ躊躇した。
だが、他に選択肢はない。このままでは、二人とも消耗するだけだ。
「───分かりました」
乙骨は走り出した。
「メスメライッ!」
乙骨が通る道を、作る。
誘われし第三の霊、義足纏いしテコンドーの達人が空中で踊り狂い、鳥を次々と撃ち落とす。
その隙を抜ける。
式神の領域の外へ。鳥の群れが届かない場所へ。
何処だ。
自分なら何処に潜む。
老人の目的は、安全圏から自らの支配領域を拡大させることだ。
式神の生存は大前提、ならば絶対に目を離すことはない。
生命線となる式神を確認できない位置に陣取ることなど絶対にない。
そして、これがその術式ならば必ず術者から放たれているはず。
式神が歩いた場所、その領域の、最も奥。
式神が最初に現れた場所。
お前は、そこにいる。
◆
仙台コロニーの夜は、戦いの残滓を静かに抱え込んでいた。
崩れたビルの骸が月光を浴び、折れた街路樹が影を落とし、地面には血と硝煙の匂いが染みついている。
黒沐死の死体たちは風に散り、石流のリーゼントは砕け、ドルゥブの領域は光を失い、烏鷺の病んだ空は灰となって舞い落ちていた。
廃墟の中心、かつて大型商業施設だった建物の屋上に、乙骨憂太とダリル・デ・ブアデは並んで腰を下ろしていた。
瓦礫の山を背に、空を見上げれば、結界の薄紫がゆっくりと薄れ、星が一つ、また一つと顔を覗かせる。
風は冷たく、血の臭いを運び、遠くで小さな爆発音が最後の余韻を残して消えていく。
二人の間には、沈黙が重く、しかし穏やかに横たわっていた。
「───ダリルさん」
「何だ」
「トルトゥーガのこと、教えてください」
ダリルは、長い沈黙の後、頷いた。
「……ああ。話そう」
「あの男は───俺の全てを奪った」
乙骨は、黙って聞いていた。
ダリルの声は低く、掠れ、時折風に掻き消されそうになる。
白いシャツは血と埃で汚れ、鎖で繋がれた五つの髑髏は静かに揺れ、それぞれの眼窩が月光を反射して鈍く光る。
灰色の髪が風に靡き、頬に走る傷が乾いた血で黒く染まっていた。
「妻は、ロゼールは妊娠していた。子供も───生まれるはずだった」
ダリルの声は、わずかに震えている。
言葉の端に、熱いものが滲み、すぐに冷たい風に凍りつく。
瓦礫の向こうで、小さな火花が散り、すぐに消えた。
「だが、トルトゥーガの引き起こした抗争で───全てが、消えた」
「───」
「俺は、家名を捨て、父の教えも投げ捨て、復讐のために全てを捧げた。暗殺部隊を結成し、あの男を追い詰めた。メスメライズで、大いなる存在を呼び出した。だが」
ダリルは一度、息を吐いた。
鎖がカタリと鳴り、髑髏の一つが小さく震えた。
「敗けた。俺は死んだ。復讐を果たせないまま。すべて無駄だった。」
乙骨は唇を噛んだ。
言葉は出なかった。
ただ、ダリルの横顔を見つめ、胸の奥に熱いものが込み上げる。
復讐の炎ではない。
もっと深い、もっと痛い、悲しみだった。
「でも、今───」
「ああ」
ダリルは頷いた。
「この世界で、もう一度チャンスを得た。今度こそ───あの男を殺す」
乙骨は、ダリルの決意を感じ取った。
この人は、復讐のために生きている。
それ以外の全てを、失ってしまったと、そう信じている。
でも、違う。
本当はずっとずっと、優しい人だ。
「───協力します」
乙骨は言った。
「トルトゥーガを見つけたら、一緒に戦いましょう」
灰色の瞳に、驚きと、わずかな戸惑いが揺れる。
「なぜだ。君には、関係ないだろう」
「関係あります」
乙骨は真剣な目で答えた。
「トルトゥーガは、多くの人を殺しています。それを止めるのが───僕たちの役目です」
ダリルは、小さく笑った。
疲れた、大人の笑みだった。
「───君は、本当にいい奴だな」
「そんなことないです」
「いや、善人だ。俺のような───無能な男とは、違う」
白いシャツが風にはためき、鎖が軽く鳴る。
瓦礫の向こうに、夜明けの気配が微かに漂い始めていた。
薄紫の空が、ゆっくりと青に変わっていく。
「君と会えて良かった」
三日後、高専と合流したダリル・デ・ブアデは虎杖悠仁をトルトゥーガと誤認し、特急仮想怨霊玉藻前をメスメライズした。