薄汚れた外套は、もう何度血を吸ったのか分からない。
冬の終わり。リ・エスティーゼ王国王都の夜の乾いた冷たい空気が肺に刺さる。
石畳にしゃがみ込んだ少女――十三になったばかりのクレマンティーヌは、わずかに息を吐き、薄い白煙を見上げた。
(……つまらない国)
本来なら、この国は人類の強者を生み出す土壌として期待されている。
六大神を篤く信仰する名家の娘として育ち、そう教えられてきた。
だが、目の前をふらふらと歩く酔っぱらいと路地裏に転がる浮浪者を見て、
本当にここから英雄とやらが育つのかと疑いたくもなる。
任務そのものは成功した。標的は定められた通りに仕留めた。
問題はそのあとだ。
死者使いによる予定外の介入があり、急遽撤退に移ったが追撃を受ける形となってしまった。
身体のあちこちが軋む。肋骨にひびが入り、脇腹の傷口はまだ塞がっていない。
治癒薬はすでに尽きている。救援の当てもない。
「……寒い」
そんな当たり前の言葉がぽつりと零れる。
任務中に“遊び”をしてしまった。それにより介入を許した。
撤退の途中でもいくつか不手際もあった。
報告書の文言次第では叱責と罰は免れまい。
歪んだ愛情を向けてくる、完璧で、醜悪な兄。
彼の顔が頭をよぎる。
少女は、そこで思考を止めた。
考えれば身体より心が痛むからだ。
代わりに、彼女は足元に転がっていた石を拾い、空へ放る。
くるり、くるりと回転し、落ちかけたところで素早く掴む。
訓練の一種。
幼い頃、兄と競い合った遊びの名残り。
「……つまらない」
石を握り潰して、少女はうずくまった。
このまま路地裏で休み、明け方に拠点へ戻ろう。
そう決めて目蓋を閉じた、その時だった。
「――まあ。こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまいますわ」
あまりにも場違いな、柔らかな声。
顔を上げる。
そこには、質素だが上等なドレスを着た少女が立っていた。
年の頃はクレマンティーヌと大差ない。十にも満たぬだろう。
金糸のような髪。
夜の闇でもよく映える、蒼い瞳。
その瞳を見た瞬間、クレマンティーヌは本能的に悟った。
(――あ。気持ち悪い)
自分と似たものを感じたのだ。
コイツは人形めいた微笑みの裏に本性を隠している。
「……なんの用?」
警戒を隠さず問うと、少女はくすりと笑った。
「少し、通りかかっただけですの。
けれど、そんなに怪我をしていては歩くのも大変でしょう?」
そう言って、少女は控えていた侍女から何かを受け取る。
小さなガラス瓶。恐らく治癒薬だろう。
差し出されたそれを見て、クレマンティーヌは鼻で笑った。
「施し? 見ず知らずの他人から物を受け取るような品のない教育は受けてない」
「まあ。いい心がけですわね」
意味を測りかねた返しだった。
だが、少女は咎めるでもなく、失望するでもなく、ただ楽しそうに目を細める。
「ですが――」
その視線が、クレマンティーヌのボロボロの外套をなぞる。
「朝まで猶予が本当にあるでしょうか?」
ふわりと、肩に何かがかけられる。
戸惑って顔を上げると、少女は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
「いずれ、もっと似合う衣を着せて差し上げますわ。
そのときまで、どうか――」
そこで、周囲の気配が変わる。
遠くで衛兵の足音が聞こえたのだろう。侍女が主を急かすように視線を送る。
金髪の少女は、名残惜しそうにけれどあっさりと踵を返した。
「――壊れずに、ここまで来てくださいな。……クレマンティーヌ」
名を呼ばれたことに気づいた時には、もうその背は遠ざかっていた。
(……どうして、わたしの名前を)
問いかける相手はもういない。
クレマンティーヌは、肩に乗った布の感触だけを確かめる。
さっきまで着ていたものよりはるかに質の良い外套。
これを纏えば、いくらかは追手の目を誤魔化せるだろう。
いずれもっと似合う衣を――。
その言葉は、当時の彼女にとって、ただの謎めいた戯言に過ぎなかった。
だからこそ。
数年後、ある少年を介して再びその少女と向き合う時、
クレマンティーヌはようやく理解することになる。
あの夜の出会いは、「拾われ損ねた」だけだったのだと。
そして今度こそ、彼女は――本当に拾われるのだと。